依頼人の青息
何度目の溜息だろうか。正直家に帰るのが憂鬱でならない。四日前までは安気に構えていたのが嘘のようだ。不安ながらも、おのぼりさん気分で兄のマンションを訪ねてから今日まで、寝耳に水、青天の霹靂――語呂が尽きた。とにかく急流に投げ出されたまま、非日常という怒涛の毎日を振り返る余裕すらなかった。
窓際の座席で流れ去る景色を見るでもなく眺めていた拓郎は再び長大息を放つと、この何日かをようやく思い返していた。
拓郎は不案内な町で独りぽつねんと、駅前で途方に暮れていた。警察からの連絡を受けて兄のアパートを訪ねた帰りだった。新しい住まいを中心に、雑踏の中に見知った顔がないかと目を皿にしたところで都合よく兄が現れるはずもなかった。喧騒は耳を弄し、人いきれに辟易しながらも、一体何時間その場に留まっていただろうか。
気がつけば辺りは日暮れ迫る夕闇に包まれていた。拓郎は小さく頭を振った。仕事帰りの大勢は一様に無表情だった。
帰路を急ぐ姿は薄闇に紛れ、表情も埋没しては皆がみな、まるでのっぺりとした仮面を貼り付けた異様な集団だった。
改札から押し出されてくる一群はしわぶきひとつない、無口のまま俯き加減に歩を進めていた。諦めて踵を返した拓郎は、人の流れを巧みに擦り抜けながら、生き生きとした笑顔を灰色の人に向ける学生然とした少女に目を留めた。拓郎の視線に気づいた少女はいとも容易く暗流を泳ぎ、紙切れを差し出した。
「お困りの際にはよろず屋をご利用ください」
底抜けの笑顔は拓郎の心を少しだけ軽くした。紙面に目を落とした拓郎は、「探しもの」という言葉に面輪を跳ね上げた。目の前にいた少女を探そうにも、すでに人ゴミの向こうに消えていた。
それなりのサービスと清潔な部屋を提供してくれるビジネスホテルは、駅の前にある大通りを挿んだ向かいにあった。最初でこそ拓郎は兄の自宅に泊めてもらい、積もる話は酒を呑みながら、翌日には帰る気であった。しかし当てが外れたものだから、急きょ確保したホテルだった。
ホテルに戻った拓郎は、手作りとは思えないほどの丁寧でカラフルな広告を何度も読み直し、そして決意した。
実家の母に嘘を吐き通すことはもはや不可能に思えた。こちらに来てから毎夜連絡は入れていたが、作り話にも限度がある。
せっかくだから兄を伴って観光しているとは、拓郎が絞り出した苦肉の策だが、一緒にいるはずの恵一が電話に出ない不自然さは否めない。実の息子の異変に、母親もなにかしらの不穏を感じているらしい。
これ以上、母親の心配を増やすことなどできない。
駅前でビラを配る少女と出会えたのはただの偶然だとしても、広袤にあって救いの手を差し出されたに等しい拓郎は、砂粒から見出したせめてもの僥倖だと信じたかった。
明くる日によろず屋に連絡をとった拓郎は、呼び出し音が三つを越える頃には、小心ゆえに無駄に緊張した心臓が猛烈な速さで鳴っていた。
藁にもすがる思いで電話をしたはいいが、今から電話をしようとするよろず屋とは、謂わばなんでも屋の類だ。正式な調査会社ではない。安易に人探しをお願いしようものなら難色を示すどころか、剣もほろろに断られるのが関の山ではないか。弱気に押される拓郎の耳に、明るい女性の声が響いた。電話を切る機会はすでに逸していた。
拓郎の耳が正しければ、駅前でビラを配っていた少女本人ではないのか。幼く見えたのは私服のせいか。
携帯電話を握りしめた手の平が汗ばんでいた。
これで一歩を踏み出してしまった。なにはともあれ、踏み出した先に現れたよろず屋の代表の、妙な自信と妙な威圧感にようやっと奮い立たせた心を少なからず拉がれたのも事実だが、脈略はないと知りつつも彼女に任せれば、と仄かな期待を抱かずにはいられない。素人目にも時折見せる炯眼には言いようのない迫力と、ある種の凄烈な気配すら漂わせていたとは、いささか大袈裟だろうか。
停車駅に停まる度に、思い返せばあっという間だった四日間が遠い過去となっていく。家に帰るといっても、これから片道三時間と少しの長丁場だ。今から乗り換えの数を指折り数えた拓郎は三度嘆息した。
もしかすると、その道では知られた凄腕かもしれない。拓郎の思考は一先ず楽観に落ち着き、少しは寝ようと目を閉じた。