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この辺り一帯は歓楽街に程近い大きな駅を望む好立地にあったが、宅地開発の余波はここまでは及ばず、古い住宅街と駅前の商用ビルが乱立する渾然とした地区だった。未だに隘路が縦横に伸び、まるで迷路と化している。長らくこの地に住まう圓ですら、幾何学模様を描く道筋を覚えるのはとうの昔に諦めている。その点、甚雷の脳みそには最新のカーナビ顔負けの精緻な機能が備わっているらしく、細道の一本に至っても熟知していた。
いつでも渋滞している大通りを脇目に甚雷は巧みに住宅街を抜け、恵一のアパート前に車を横付けした。
拓郎はキーホルダーから鍵を抜き取り圓に手渡した。
「先に部屋に行っててください。私は大家さんに挨拶してから行きます」
「お預かりします」
アパートは木造二階建てで、一階にはドアが四つ、二階は五つのドアが並んでいた。拓郎が向かったドアは、明らかに他の部屋より一室分多い大家の住まいだと知れた。恵一の部屋は二階の左端だった。恵一の部屋のすぐ右隣の部屋の郵便受けには、ダイレクトメールや広告が詰まっていた。表札はなく、空き部屋と思われた。
ドアを解錠して中に入ると、小さな三和土の左手に備え付けの流しのある板張りの台所、右手にあるドアは風呂場とトイレ。奥の続き間は六畳の和室となっていた。
部屋には生活臭は感じられず、もっとも、上京した拓郎が部屋の空気を入れ替え、腐り果てた冷蔵庫の中身くらいは処分しただろうが、部屋にある家具は寝食が行える必要最低限のものが点在し、そう広くはない一室はものの見事に閑散としていた。
「物寂しいばかりだな」
まあね。部屋に足を踏み入れた圓は和室の中央に立って辺りを見回し、部屋の隅に置かれた段ボールの中を覗き込んだ。続いてゴミ箱の中身を漁ったが、ゴミに混じってあるのは封も開いていないダイレクトメール、あとは細々とした請求書の類しかなかった。
「当たりはなしか?」
恵一の痕跡を辿るものは皆無に等しかった。が、圓はコタツ机の上にある週刊誌に手を伸ばした。パラパラとページを捲る圓は、雑誌の中ほどの一枚が破り取られていることに気づいた。ページの前後を見るに、広告のページらしかった。
よほど気になる一枚だったのだろうか。恵一の部屋には紙切れをしまう棚のひとつもなく、折り畳んで財布の中にしまっているのかもしれないが――圓はコタツ机の天板を持ち上げた。するとコタツ布団の上面に二つ折りにされた広告が挟み込まれていた。寒い時期に大きな顔で座するコタツは、暖をとるだけではなく簡易の収納場所にもなる。
「金運アップ財布って御利益あるの」
雑多に衣類が詰め込まれた押入れを見ていた甚雷の背に問いかけた圓は、勘がもたらした引っかかりを慎重に手繰り寄せた。
「自分で買って検証しろ」
「生憎と、よろず屋の上がりだけで食うに困ってない。アオコちゃん様々ね」
青子が事務所の実権を握るようになってから、依頼数は右肩上がりだ。常連客も数に比例して多くなり、売上も上々だ。青子というフィクサーがなければ、今頃よろず屋は倒産の憂き目に遭っていただろうが、それはそれで世の習いとして受け止めるだけだ。
圓は派手かましい金運財布の広告をスーツのポケットにしまった。
大家への挨拶を終えて恵一の部屋に入ってきた拓郎は部屋の主が失われて久しい、侘しいばかりの一室で嘆息した。空室なっているわけでもないのに人が暮らしていた気配は絶無と言ってよく、部屋には三人もの大人が陣取っていてもなお、ひっそりと打ち沈んでいた。
それは恵一のここでの生活を体現していた。生きている証がここにはまるでないのだ。
「つかぬことをお伺いしますが、この部屋はどうされるおつもりですか」
拓郎はちょっとの間、圓とは逆の壁を見つめてから口を開いた。
「滞納分と今月の家賃は支払っています。大家さんも良い方で、随分親身になっていただき、今月一杯はこのままでもいいと快諾してくれました。あとは――結果を聞いてから考えます。ここの部屋の鍵は大家さんにお借りした合鍵なので、またこちらに来る場合は大家さんを通してもらえますか」
圓はいっそ簡潔に頷いた。こういう場合は下手な同情は要らない。
空疎な沈黙が部屋に降りてきたところで、甚雷が先だって部屋を出ていった。残された二人もどちらともなく部屋を後にした。先を行く甚雷は恵一の部屋から二つ向こうのドアを叩いているところだった。隣人は生憎不在だった。
無味乾燥な恵一の部屋からして、まともな近所付き合いがあったとは思えないが人探しの基本は守ってこそ、ひょんなきっかけから所在を辿る糸口も見つかる。
空室と思われる右隣の郵便受けに溢れる郵便物を目に留めた圓に、ある疑問が飛来した。
「不在の間溜まっていた郵便物は、こちらにいらしてから処分なさったのですか」
それなら、とショルダーバックから数種のダイレクトメールと、ビニールに包まれた通信販売らしいカタログ雑誌を取り出した。
金運アップ財布はさておき、上田恵一という男がひとつ肉付けされた。
通販雑誌の表紙には、数多の開運を謳う商品が掲載されていた。恵一は雑誌の一ページに過ぎない広告を取り置いてまで、開運財布を購入するような験を担ぐ男だったのだろうか。当然にして金ぴかの財布も表紙の隅に載っていた。
「こういった如何わしいものは端から相手にしない人でしたが、でも、まぁ、色々あれば縋りたくもなりますかね」
諦めとも枯淡ともつかない笑顔を残し、一礼した拓郎はアパートから近い最寄駅の方へと消えていった。