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圓は依頼人に目を戻した。不慣れな場所に兄を訪ねて来てみれば、家族になんの断りもなく行方を晦まし、先ほどの拓郎の言葉ではないが、途方に暮れたはずだ。善良な一市民ができることといえば、精々警察に駆け込むことくらいで、運よく見つかればもっけの幸い、はたまた行旅死亡人の項目を血眼になって繰り、下手すれば生き死にも分からないまま何年も過ごす羽目になる。失踪宣告を経て死亡認定はなされても、墓石の底には供養すべき遺骨もない。
公然と探偵の看板を上げていないよろず屋の門戸を叩いた拓郎は、一縷の希望と共に切実な願いも込められている。
「先日お電話いただい際に料金のご説明もさせていただいたと存じますが、決してお安くない料金ですし、あるいは、不本意な内容をお伝えすることになるかもしれません」
圓の言に拓郎の顔色は青くなった。パーテーションの向こうで聞き耳を立てていたであろう青子が、圓の言動を諌めるように咳払いをした。いささか直接すぎるが、人探しは色々と障りがある。これくらいの牽制は必要だ。
「それを踏まえてご依頼されますなら、我々は全力で上田恵一様をお探しいたします」
圓はほんの刹那、底光りする瞳を拓郎に向けてから、一転して笑んだ。
「お願いします」
拓郎は喉元を大きく上下させてから深々と頭を下げた。
兄を探し出す兆しを得た拓郎の背中は、ひとつ重石を下していっそ清々としていた。拓郎は応接室のソファに腰を据えたまま書類に目を通し、記入するに余念がない。
圓は正式な契約書を青子に作成させている間、甚雷の事務机に写真を滑らした。甚雷は一瞥と共に「生きてるのか」と問うた。
「あんたの目にはどう映ってる?」
圓は質問に答える前に逆に甚雷に問うた。
「本人の顔の原型すらない。集めた顔のパーツを挿げ替えてるみたいだな」
「住んでるアパートもここから近いらしいから、とりあえず部屋の様子を見たい。車出してよ」
「依頼、受けるのか」
甚雷の声音には危惧の色合いが多分にあった。圓は沈黙を答えとした。
「午後から仕事入ってんだよ」
「時間はとらせない。それに、今日もどうせ宮木邸に茶を飲みに行くだけじゃん」
「それも立派な仕事だ」
「この間は電球の交換だっけ?」
「理由はなんでもいいだろ。さらにその前は神棚の掃除をやった。仕事の後に茶をよばれるだけで、それでも料金はきちんと支払ってくれるんだから、お得意様は大事にしないとな」
「慈母には敵わないってわけね」
圓が皮肉をこめて慈母と呼ぶのは、事務所から三町ほど離れた閑静な住宅街に古くから住まう寡婦だった。
三年前に夫に先立たれた宮木夫人は、それを機に独り暮らしにはなにかと不便な邸宅を整理し、長男夫婦の元での同居を決意していた。家財を検めるにあたり、よろず屋に白羽の矢が立ったのだが、夫の遺品やら過去の生活が詰まったガラクタを目の当たりにした宮木夫人は、その日の内に同居話を反故にしてしまった。
長年住み慣れた家を離れるのは忍びないと、七十に片足を突っ込んだ夫人が駄々を捏ねたのだった。長男は当然にして、不服を申し立てた。独り暮らしは危険であり、万が一なにかがあってからでは遅い云々。長男の正論はもっともだが、夫人は頑として首を縦に振ることはなく、思い出という強固な盾を前に長男も折れざるを得なかった。なんとなく関わりを持ってしまったよろず屋が双方の架け橋をする形で定期的に宮木邸に訪れ、雑務をこなす傍ら、長男夫婦にそれとなく近況を知らせる関係は今でも続いていた。
青子の手によって完璧に仕上がった契約書を受け取った圓は、新たな書面を拓郎に差し出した。拓郎は神妙に読み進み、丁寧にサインした。各紙を揃えてクリアファイルに収めた圓は拓郎を促し、事務所を後にした。
よろず屋が事務所を構える沖ビルのオーナーは、前日圓に泡盛を振舞ったおやじだ。圓は店を構えるにあたって、その特技を存分に活かして転がり込んだ。特技とは聞こえはいいが、オーナーは無類の競馬狂で、一度だけ万馬券を掴ませてやったのだ。が、その狂乱が災いして競馬熱に拍車がかかり、有益な地所をひとつ手放してしまった。
散財したのは沖の勝手であって、以来、揉め事もなく両者は至ってよい関係を続けている。店子である圓の元へと手土産持参で足繁くやってくる理由は、万馬券の夢をもう一度の一言に尽きた。それほどの馬好きなら、いっそのこと馬主になればいいとも思うが、それも沖の勝手だ。
名前だけは大袈裟な雑居ビルの前の通りには、すでに甚雷は運転する商用車然とした白のバンが横付けされていた。圓は助手席に、拓郎は後部座席に座った。甚雷にアパートの住所を告げると、甚雷は黙って車を発進させた。
どうでもいい余談ですが、事務所を構える雑居ビルは、当初
沖田というオーナーの「沖田ビルディング」でした。
物語には何ら関係はないがいっその事、沖オーナーの「沖ビル」に改名。
分かり易い。