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依頼人の上田拓郎は、予定する時間のきっかり五分前に事務所に現れた。青子の嫌味も減ったくれもない若さはち切れんばかりの笑顔でもてなされ、数十分前には酒瓶だらけだった一角に通された。
青子は上等な緑茶を入れた湯のみを盆に載せ、どこで手本を覚えたのか、畏まった所作を崩すことなく、終始落ち着かない視線を辺りにやる上田の前に茶器を差し出した。
青子と入れ替わりに、上田と対面するソファに腰を据えた圓は、青子の後ろ姿を見送ってから名刺を差し出した。
鯱鉾ばって両手で名刺を受取った上田は、名刺に書かれた文字をじっと見つめた。
「本日は上田様自らご足労を頂き、まことに有難うございます」
嫣然と頭を垂れた圓に対して、上田は大いに慌ててぺこりと頭を下げた。
「上田と申します。上田拓郎です」
なんとも七面倒な手順を踏まされるものだ。圓は胸の内で文句を吐き、それでも目顔には柔和を貼りつけたまま、ひたすらに恐縮して鼻の頭に汗をかいている上田に茶を勧めた。
「本日は連絡のとれなくなったお兄様の所在を確かめたいということでしたね」
上田が茶をすするのを見計らってから水を向けた圓は、両膝にきっちりと手を添えたまま、少しだけ身を乗り出した。
「は! えぇ、そうですね。すみません……何分、このような場所に慣れておりませんので。えぇっと、どこからなにを話せばよいのやら」
上田の額には脂汗が滲んでいた。
「わたくしに気兼ねなど必要ありません。確か、恵一さんはこちらに上京して銀行にお勤めだったと、お伺いしております。月に何度か互いに近況を報告し合っていたとか」
「はい、そうです。特に仲が良かったというわけではありませんが、次男坊の私に家業を継がせた、後ろめたさもあったのかもしれません。でも私からすれば逆に有難いと思っていますよ。進学も希望してなかったし、特別、やりたい仕事があったわけでなし、お互いに良い選択だったと。
兄の恵一はこちらで所帯も持ち、盆暮れに帰郷するだけの付き合いでしたが、電話だけはマメに取り合ってました。兄の仕事柄、不規則な生活も多いでしょうが、半年ほど前ですか、いつでも留守電になってました。それを兄に問うと、不景気だなんだといって、濁されていました。その時は納得していたんですが」
さもありなん。世の中の景気は底抜けに悪いらしい。
圓は神妙にして頷いてみせた。
「今年の正月はとうとう実家に帰って来ませんでした。我々農家にとっても厳しい世の中ですしね。無碍に詰ってもどうかと思いましたし――今から思えば、きちんと話をしていればと悔やまれます。現に兄さんは行方不明になっちゃうし。いやね、よくよく思い返せばやっぱり言動も可笑しかった。ようやく連絡がついても義姉さんはいつでも不在だったし」
一旦言葉を切った上田は、傍目には真摯に傾聴する圓を見やった。圓は是非もない目交いを向けた。
「離婚、してたみたいです。私も四日前に上京してからその事実を知ったんで、詳しい経緯は分かりませんが」
嘆息した上田は冷めた茶を喉の奥に流し込んだ。
「推察するに半年前、ということでしょうか」
「多分。兄と連絡がつかないと言っても、後日必ず向こうから電話は寄越していたんですが、一か月前からでしょうか、全くの音信不通に。これは拙いと兄の住むマンションに行ったまでは良かったんですが、引っ越しした後でした」
「失礼ですが」と口を挟んだ圓は、早々に口を噤んだ。途端に目を見開いた上田はガラステーブルに両手を叩きつけて身を乗り出した。
「勿論行きましたよ! 兄の就職先にね! でも当の昔に解雇されてましたよ! 辞めた人間に対しては、冷たいもんですよ、まったく。ついでに別れたとは言え、一度は身内だった義姉さんにも連絡してみました! が、別れてからのことは知らないと情もなにもあったもんじゃない。仕方がないので役所にも出向きました。転出届を確認すればいいだけですからね! でも兄は手続きしていませんでした。途方に暮れるって、ああいうことを言うんですね。素人の私では探しようもないので、警察にも届け出ました」
瞬時に現れた激情は会話が終わるにつれ先細りしていき、しまいには非礼を詫びるようにして項垂れてしまった。
「幸いにも担当してくれた刑事さんのおかげで新しい転入先はすぐに知れました。立派とは言い難い古いアパートで独り暮らしをしているようでした。そこでも兄の行き先を知る手がかりはありませんでした」
ゆるゆると面を上げた上田の顔は、眉毛をハの字に下げて泣きそうに歪んでいた。八方塞がりを体現しているようだと、余計なことを頭に掠めながらも圓は大きく頷いた。
「届け出をなされてから――二日ですか。その間にお兄様との連絡は」
「何度も携帯にかけていますが、一度も繋がりません。解約されていないとしても、バッテリーは切れているだろうから」
「預金通帳の有無やATMの利用状況はどうでしたか」
「どうとは?」
感情を押し隠しているのか、それともある種の器官が振り切れて無感動になってしまったのか、拓郎は虚ろな目で見返してきた。
「普段利用しない場所で引き出されていたり、金目のものが紛失していたりということです」
「あぁ……刑事さんも同じようなこと言ってましたね。確認した限りでは不明な点はなかったようです。最後に引き出しがあったのは去年の年末ですね。それ以降、今日まで引き出されてはいないそうです。ちなみに、部屋は荒らされてはおらず、通帳などは部屋に残されたままでした。財布は見当たりませんでしたが、出かける時に持って出るでしょうからね。今のところ事件性はないと刑事さんから言われました……それを聞いて、警察にはこれ以上は望むべくもないな、と」
上田はこれで全部だと言わんばかりに、上目使いで圓を見やった。
形通りとは言え、担当した刑事が余ほどの仕事熱心だったのか、日に何百といる失踪者の中のひとりを捜査してもらえただけでもましだろう。
圓は長考した。依頼を受けるのは簡単だが、しかし後に待ち受ける面倒を考えれば勇み足にもなる。様々な理由を抱えた大人の末路を辿るのは、正直気が重い。ある日を境にふっつりと消息を絶ってしまう大人たちは、選択した揚句の果てにある行為であることが往々にあり、今の世に溢れる神隠しは社会の木枠から抜け出すことを意味する。
「失礼ですが、お兄様のお写真などはお持ちでしょうか」
上田は肩にかけたままの鞄から手帳を取り出し、ページに挟んだ写真を圓に差し出した。
「この手帳も兄のものです。部屋にあったものを持ってきたんですが」
「拝見いたします」
日付は二年も前だったが、被写体は仲睦まじい元夫婦の写真だった。
圓はじっと写真の男を見つめた。兄弟の顔はあまり似ていない。外見だけで職種を判じるのもどうかと思うが、細身で神経質な目と繊細そうな薄い唇の弟の拓郎に対して、恵一は大柄で、背広を着ればそれなりに貫禄を伴いそうだが、プライベートを加味しても俗にいう銀行マンにはない鷹揚な笑顔を向けていた。
圓は不意に目を眇めた。恵一の口元が動いたような気がしたからだ。一瞬ではあったが、確かに口元が笑っていた。しかも女の口元のように真っ赤だった。続いて目が、鼻が変わり、顔の骨格すら変容した。
まだ酔っているのか。圓は自分の視覚を疑った。先ほどまでのドングリ眼が白目勝ちの切れ長の目に変わっていた。次々に顔の部品が切り替わる様は、まるでモンタージュ写真を見せられているようだった。ためしに隣の女性の顔を見るも、当然のように変化はない。再び恵一の顔に目を戻すと、死人のように色を失った恵一の口元が何事か喋っていた。
「できるだけ最近の写真を探してはみたんですが、兄のアパートにアルバムなどなくて……この写真は手帳に残されていた唯一というか。あ! 手帳もなにかの景品で貰ったもののようだし、大したものも記されてはいませんでしたよ。引き出しの奥に突っ込まれていたものでして」
拓郎の会話など耳に届いていない圓は、もはや恵一の原型すらない刻々と変化する何者かの顔を凝然と見つめながら、内なる知覚は警鐘を鳴らし始めた。
これは一体なんだ?
圓の機微を見抜いたのか、拓郎が心配そうに覗き込んできた。顔を上げた圓の視線の端にこちらを伺う甚雷の視線があった。勘働きの良い甚雷のことだから、圓の横顔に何事か察しているだろう。ただの人探しでないことを。