序章
仕事に出かける前に、ついつい目にしてしまう占いコーナー。
ラッキーアイテムなるもので時に突飛なもの、ありません?
「自分の手持ちに、そんなものはありません」と朝から突っ込んでみたり。
昨日から続く平和な一日です。
「いらっしゃいまし」
案内看板の矢印に沿って合板の安っぽいドアを抜けると、部屋の四囲も見渡せない薄闇に包まれた部屋だった。右手に握りしめたままのビラを再度見ようにも、仄暗い中では文字を追うのも難しく諦めた。そして冷静になるにつれて「騙された」という一言が脳裏を飛来し、自然と舌打ちが漏れたところで、闇の向こうから忽焉と声だけが現れたのだった。
情けないほどに両肩が飛び上がり、半歩ほど退いてから本能的にドアに振り直った。降って湧いた直截な恐怖から逃れる唯一が、たった今潜り抜けてきたドアに他ならなかったからだ。が、凝然と見つめる先にはドアがなかった。木目のプリントになんの変哲もないドアノブがくっ付いた、確かに自分の手で開けて入ってきたそのドアが消えていた。
知らない場所にあって逃げる術も失い、混乱しないでいられる心臓に毛の生えた剛の人間がいるなら連れて来てほしいものだ。
「あなた様のお越しをお待ち申し上げておりました」
その声にはたと我に返り、しわの寄ったビラを再び見つめた。手のひらに収まるほどの小さなビラを手にしたのはほんの偶然だった。自宅アパートの郵便ポストに投げ込まれていたチラシは、常であれば目を通すこともなく即ゴミ箱行きだ。しかし目に留まるどころか、しっかりと焼き付いてしまった。「人生」と「占い」の言葉に。
あなたのこれからの人生を占います
ともすれば素気ないとさえ感じられる一行に最初は鼻で笑い、バカバカしいと精々嘯いてはみたが、三色刷りのビラを捨てる手は止まっていた。ビラの裏には住所と地図が印刷されてはいたが、電話番号は記されていない。営業時間なども記載されていなかった。もしかすると終日営業というやつだろうか。
毎日を無味乾燥に過し、なにかしらを感じる器官も損なわれ、人生の行き詰まりに鬱々としつつも、なにもできない。多かれ少なかれ、人の持つ感情だと誰かに慰めてもらうでもなく――孤独である自分がどうしようもなく哀れでならなかった。
要は救いを求めて喘いでいた。
占いに縋るなど噴飯だと、以前の自分なら一顧だにしなかっただろうか。そんなものはまやかしであり、単なる――単なるお為ごかしなのだと。
お為ごかしとのたまう自分の舌の根が乾かぬうちに、簡易地図に先導されて占い館の軒を潜った自分とは何者だろうか。はたまた、心の洞を満たすためだけに、遙々やってきた言い訳も見つからなかった。
疲弊した自分の人生に嫌気が差していたのは事実だ。こんなものは望んでいなかったとリセットボタンを押せないまでも、ただ単調に伸びる一本道をよくよく見れば、脇道があるかもしれない。あるいは、ベンチのひとつくらいは見つけられるかもしれない。自分で見つけられないなら赤の他人としての占い師からでもいい、指標というきっかけが欲しかった。
上着のポケットにビラを捩じ込み、声のする方に目を眇めると、薄っすらと人影を認めた。
ここまで来てしまったのだ。腹を括って占いとやらに興じよう。
今日の山羊座の運勢は最下位だった。ラッキーアイテムは万年筆だったが、万年筆を持っていない迷える山羊座の人々に代替え品はないのか。
ためしに事務机の引き出しの中を漁ってみた。いつの間に増えていくボールペンはそこら中に転がっていたし、蛍光マーカーも何色も揃っている。しかし万年筆だけがなかった。引き出しを開けたついでに仕切りを整え、少しだけ中のものを整理した。使い古しの付せんやら企業から貰ったままのメモ帳を右から左に、左から右に押しやってから引き出しを閉めた。壁掛け時計は正午を告げており、秒針が三十秒を指した辺りでチャイムが鳴った。
嘆息ひとつ、財布を突っ込んだバッグを片手に職場を後にした。向かった先は屋上の喫煙スペースで、寒空の下での喫煙はなにはなくともただ寒いだけだった。先客はおらず、灰皿が設置された脇のベンチに座りつつ、盛大に煙を吐き出した。
薄曇りの空を流れていく煙をぼんやりと眺めながら、吸い終わった煙草を灰皿に押し付け、休む間もなく二本目の煙草に火を点けた。
昼食を終えた何人かが、灰皿を囲むようにして並ぶベンチの、それぞれの所定の位置に収まった。毎日見る顔なので、互いに僅かながらに視線を漂わせるようにして素気無い目礼を交わし、黙然と煙草を吸う。食後の一服を終えたそれぞれは、携帯を取り出して己れの中に埋没するか、あるいは背中を丸めつつ、とっとと喫煙所を後にするか、とにかく昼休憩を漫然と過ごすいつもの光景だった。
二本目の煙草を吸い終えると、財布を取り出しカード入れの仕切りのひとつから名刺ほどの大きさの紙切れを眼前にかざした。
あなたのこれからの人生を占います
表に印刷されているのはたったの一行。裏に地図と住所は記載されているが、屋号の表示はない。紙切れを拾ったのはほんの偶然で、何日か前の昼休みの時間に、いつも座るベンチに置かれていたものを拾ったのだった。仕事柄、目にする機会も多い名刺大の紙切れに、誰かが忘れていったのだろうかと、拾い上げてみればただの広告だったが、広告の文句に捨てるのも憚れ、いみじくも今日まで後生大事にしまっていたのだ。
これからの人生を占ってもらう。なんとも漠然としていて、それでいて未来という門扉が薄っすらと開かれるような気がしてならない。
別に好きでもない仕事に従事し、特に不満もないが充足感もない。給料は人並みであっても、贅沢ができるほどの手取りもない。どこを掘り出しても切り出してもそこらへんに掃いて捨てるほどある普通という言葉は、怠惰な人生を穿つ強力な呪詛だった。
かと言って自分を変える努力の持ち合わせもなく、なんとなく適齢期を迎え、婚期を少々逸脱した年齢に差しかかってようやく焦りを覚え、無駄に足掻いた結果は余計な焦燥感を抱え込んだだけだった。目的も見出せず、茫漠であった自分を顧みるのは簡単だが、認めるのは嫌だった。
才能がないから、運が悪いからこんな自分に甘んじているのだ。才能さえあれば――。
そうやって言い訳を並べるだけ並べれば、自尊心だけは保たれる。
住所を見れば仕事場からも二駅と離れていない。が、料金はどれ位かかるのだろうか。下手に足元を見られ、正体不明の父だか母から祈祷料だなんだと、怪しさに紛れて吹っ掛けられる気もする。どうしたものか。