百夜奇談『憑く女』
木枠で和風にしつらえられた照明は畳の室内を煌々と照らしている。部屋の中では中央に置かれた木造のテーブルをはさんで2人の女性が座っていた。二人はお互いの表情を眺めながらひたすらに黙していた。そのうち変わらない面を見続けるのにも飽きたと見えて男物の和服に身を包んだ女性が口火を切った。
「そろそろお話を聞かせてもらえないかしら?」
対面座っていた、牛鍋が流行ったころならモダンと評されていただろう洋服を着た女性は微笑んで言った。
「すみませんが、お水を少々もらえませんか?喉が乾いてしまって話し辛いのです」
和服の女性も微笑で返した。
「それならもうご用意しておりますわ」
と言うが早いか襖が開かれティーカップを二つお盆に載せた洋装の召使いが現れた。慣れた手つきでテーブルの上にティーカップを置くと部屋の隅にちょこんと座った。
「生憎紅茶しかなかったものですから。冷たいもので良ければ他にご用意しますが」
と和服の女性がいうと
「いえ、紅茶は大好きです。お気になさらず」
と洋服の女性は遠慮した。
古い洋服の女・・・それは蒸し暑い夏の真っ盛りの真夜中に彼女は百夜の屋敷を尋ねてきた。この夜は熱帯夜であることが当然のように定着していた近頃では珍しく、涼しい風が吹く肌寒い夜であった。応対には夜勤していた下女虎樫春魅が出たが、ここの主人にお話がありますと言ったきりで黙っているものだから困りはてた。しかしそれから30秒と経たない間に白髪の少女と主人である百夜が現れた。百夜は新しく手に入れた山のような戦利品を読みふけっているところを下女の一人であるルゥに連れてこられたのである。春魅は用心して来訪の理由を尋ねるも相手はちょっと怪談を話したくてとしか口に出さないことを百夜に伝えた。百夜は訪問者の目を凝っと見詰めた。その目には意地でも家に上げてもらおうとする強い力が感ぜられた。百夜は一瞬笑うように目を細めると突如、怪談!この夏にはお似合いの趣向だわ!と手を叩いて喜んでみせてさっさと彼女を部屋に案内してしまったのだった。こうして今お互いに黙りこくっている。
洋服の女性が熱いお茶を冷ましながらゆっくりと飲んで喉を潤すのを見届けると百夜は、では・・・と改めて尋ねた。
「お話を聞かせてもらえないかしら?」
にこり。洋服の女性は微笑んだ。
「いいでしょうとも。そのためにわたしはやってきたのです」
とようやく話し始めた。
『憑く女』
「この世に”生霊”なんてものがありますように人の怨念というものは人を害するほどすさまじいものでございます。それなら、時として人を殺すことがあってもおかしくはございません。これから話すのはそんな類の話でございます。
さて、文明も開化した時勢。街には目に新たなものがたくさん現れ人々を賑わせました。そんな雑踏の中に一人の少女がありました。彼女は若い無鉄砲さと未来への希望があふれていました。
ところで女と言うものは噂話や流行のものには敏感な性質でございます。この少女も例に漏れませんでした。それ故外国から入ってきたガス灯、洋服、牛鍋、英語、外人、今までなら考えられなかった文化に触れ合い、それが彼女の考え方に大きな影響を及ぼしてもなんの不思議もございません。彼女は外国の溌剌とした女性たちに憧れました。ティータイムを気取って紅茶にクッキーを嗜んでみたり、洒落た洋服にかぶれてみたり。
しかし周囲の大人たちはその彼女の好奇心を快く思いませんでした。まぁ人生の大半を日本の文化に浸かって過ごしてきたのだからそれも仕方ないかもしれません。やがて彼女は当時はまだ根強かった男尊女卑の思想を排して一社会人として働きたいと想い、願うようになりました。
そして年を経て彼女は当時の女性の花形でありました新聞記者になったのでございます。彼女は日々を仕事に追われるようになりました。それは男顔負けの忙しさでありましたが、彼女は充実感に満ちておりました。女性として社会で働く者は今よりもずっと少ない時代ですので彼女は羨望の眼差しを一身に受けておりました。
そして時は過ぎ彼女も家族や親類に結婚を考えるように仄めかされる歳になりました。しかし彼女はそれを一向に介さず飄々としておりました。早く結婚して身を落ち着けろと急かされるあまり親子で喧嘩したり家出したりということも珍しいことではありません。どうして彼女はそうしていられるのでございましょう?
理由は明快。彼女には気にする必要は無かったのでございます。彼女には意中の男性が居りましたから。
彼女は強気な女でございました。それ故周りの反対を押し切り記者として活躍できたのでございますが、彼女にとって恋の場合も同じでございました。彼女はその男性に激しく詰め寄りました。自分は立派な社会人だ、お金の心配はないし自慢にもなる、私はあなたを愛する資格がある、苦労をともに分かち合うことができるのは共に働くことのできる私しか居ないのだから・・・。次々と彼女は言葉を並べ立て彼に迫りました」
洋服の女性は一旦話を止め、また水を要求した。和服の女性は指をぱちんと鳴らした。その音は鈴の音のように体を突き抜けていくような鋭さと心地よさを兼ね備えていた。指を鳴らしてから数秒のうちに襖が開かれた。そこには先ほどの下女と同じ格好をした背の低い2人の少女と背の高い女性のアンバランスな組み合わせが、それぞれ毛布とティーポットを持って立っていた。大きいほうは丁寧にお代わりを注ぎ、小さい二人は百夜に毛布を被せた。
「今日は夏だというのに少し肌寒いわ。こんな夜も乙なものだけれど」
「ええ。まったく。こういう夜があるからただの夜にも楽しさがあります」
新たな下女3人は2人が話している間に部屋の隅に並んで座っていた。
「・・・では続けますね」
「しかし彼は思慮深い人でございました。彼女と結婚することに何か不安な点を感じた彼は彼女がどれだけ迫っても誘っても彼は色よい返事をいたしません。
そのとき2人の間にひとりの女が割り込んでまいりました。女は古い屋敷の娘でありました。彼とは道の往来で目があった程度の出会いでしたが、二人はいわゆる一目ぼれ・・・あっという間に2人は出来上がってしまったのでございます。
彼女にとってこの女―――女が二人出てきてしまったのでこの女を娘と呼ぶことにしましょう―――は古い男尊女卑の思想に支配された女として映っておりました。自立をせず男に従うだけの姿勢が気に入らなかったのでございましょう。彼女は娘を軽蔑しておりました。
しかし世の男どもは彼女でなく娘を控えめだとか家庭思いだとか好意的に評価しました。それに反して彼女は羨ましがられたり尊敬されたりされるものの人があまりなつきませんでした。それは働く女性だからとかではなく単に性格の問題でありましょう。しかし彼女はそれに気づきませんでした。男の見る目が無いのだと決め付けてすましておりまし「あ」」
突然、百夜が小さな叫びを発した。その直後に豪快な腹の音が部屋に響いた。百夜は雪のように白い肌を仄かに赤面させた。
「ごめんなさいね。話の腰を折ってしまって」
照れながら彼女はまた指を鳴らした。すぐに襖が開かれる。そこにはまた3人、ルゥと長い髪の先端を切りそろえた気だるそうな春魅と優しげな雰囲気を纏った女とが皿にカステラを盛って入ってきた。優しげな方がをテーブルの2人に、後の2人は先に来ていた召使いたちにそれぞれカステラを配った。その後新しく入ってきた三人も和服の女性の背後に並んで座り、テーブルを中心に召使いで半円が出来上がった。彼女たちはそれぞれ思い思いにくつろいで洋服の女性を珍しそうに見つめている。
「食べてから続きを話してもらってもいいかしら?またお腹の音で興を削いでしまっても損ですし」
「私は構いません。・・・いただきます」
洋服の女性はフォークでカステラを口に運んだ。彼女は少し驚いたような表情をして紅茶に手を伸ばした。紅茶を飲むとまた目を大きくしていた。
「ふふ」
その様子をみて百夜は笑った。
「おいしいでしょう?紅茶に合うようにうちで手作りしてみたのよ」
「ええ・・・びっくりするほどおいしいです」
「そういってもらえると使われた材料とパティシエが喜ぶわ。ね、悠美?」
百夜の言葉に襖を背もたれにしてカステラを頬張っていた春魅が言葉を続ける。
「ほんとほんと。料理だけは上手いのよね」
彼女を発端に召使いたちが口々にしゃべり始めた。小さな2人組みが
「もし悠美が」「いなかったら」「たぶん毎日」「店屋ものだよね」
と器用にも交互に言葉を繋いで賛成を示す。最初に入って来た下女はしきりにうなづいている。真剣な目つきだ。それら賛美の声に悠美と呼ばれた下女は
「あらいやだ。もっと褒めて」
とまんざらでもなさそうに体をよじらせている。しかし
「でも、料理以外取り柄が無いけどな」
ルゥがそれが至極当然とでも言うようにこともなげに言った。
「あー」
背の高い女が納得したように言うと
「違う違う。取り柄が無いんじゃなく最悪なんだ」
などと最初に褒めていたはずの春魅がわざわざ悪いほうに訂正する。悠美は褒められていたときと違う種類の微笑を顔に貼り付けている。頬に手を当てながらまぁ悪い子と言ってルゥの肩を突き飛ばした。はじかれるように吹き飛ぶルゥに隣に座っていた春魅が巻き込まれる。からまり合い1つの肉塊と化した二人は障子を突き破り外の闇に姿を消した。庭木に何かが激突する鈍い音と木の葉のざわめきが聞こえてくる。
「もっと静かに食べなさい。紅茶がこぼれるわ」
百夜には部下が打撲傷で苦しむことより今紅茶がこぼれることの方が重要と見える。
しばらくの間各々が至極の菓子に舌鼓をうって過ごした。しばらくしてから夜の闇から這い上がってきた2人は正座させられている。全員が揃った頃を見計らって洋服の女性は話を再開した。
「この後、彼女に信じられないような事件が起こります。実は彼が娘と駆け落ちしてしまったのでございます。彼が彼女と出会って一月も経たない間にです。彼女は彼を失った悲しみも当然感じましたが、それよりはるかに大きく自分の全てを虚仮にされたような惨めさを感じました。今まで散々目の敵にしてきた思想の具現みたいな女に、自分の理想を砕かれたのでございますから、人生そのものを否定されたような気持ちになっても仕方がございません。
それから彼女は必死になって働きました。それこそ周りが心配になるくらい仕事を詰め込んで寝る間も惜しんで働きました。しかし仕事のミスは多くなり自信は萎えていくばかりでした。ついに疲労が祟って彼女は体を壊してしまい仕事を止めざるを得なくなりました。
彼女は嘆きました。自分の人生があの日以来無残なまでに壊されつくしたのでございます。泣きに泣いて涙が枯れても泣きました。彼女は痩せました。昔のような強気さは面影もありません。そして彼女は自分の人生を呪いました。
やがて彼女の胸のうちには娘に対する憎しみが沸いてきました。彼女の全てを奪っていった娘を殺したい気持ちに駆られました。しかしどこかへ姿をくらました娘相手にどうすることもできません。ならば彼女はどうしたのでございましょうか。
彼女は、丑の刻参りを始めたのでございます。全てが寝静まった音の無い深夜に彼女を姿を見ることができましたなら、きっと鬼を見たと勘違いしてしまうでしょう。しかし彼女は振袖を来た彼女をちらっと見たのみで詳しいことを知りませんでした。それでもあの女、古めかしい服に身を包んだあの女と呪い続けました。
結論から言って彼女の呪いは成功しました。夏の朝、夏らしくもなく冷えた風が吹く夜が明けたとと思ったら、彼の上で娘は冷たくなっていたのでございます。五寸釘で打ち付けられた藁人形の下、恐ろしい形相で息絶えていた彼女と同じように・・・。
この物語はこの2人の死によって終わるように思われました。しかし彼女の憎しみは晴れることなく地上に残りました。よく地縛霊とか残留思念とか言いますでしょう。彼女の強すぎる憎しみは、彼の愛を受けることで初めて晴れるはずだったのでございます。
彼女の亡霊は地上をさ迷い歩き、和服の似合う女ばかりを殺す幽鬼となりました。きっとまだ彼女を捜し歩いているのでしょう。彼女は決まって夏の夜に殺しました。彼女の出る夜は夏に似つかわしくない涼しい夜になるそうです。
彼女に襲われた女性は誰一人として生きておりません。彼女のことを知る人間ももう全て死に絶えております」
洋服の女性は沈黙した。
「それで終わり?」
「ええ、終わりです」
百夜はふぅーと長い息を吐いて座椅子にくつろいだ。
「なんというか、人を呪わば穴二つって言葉がお似合いね。というかそのままかしら」
洋服の女性は沈黙している。百夜は彼女がしゃべらないことを確認したうえで言葉を続けた。
「私はこの強気な彼女のことをどうも好きになれないわね。彼女が馬鹿にしていた男どもと同じだけれど」
洋服の女性はまだ黙っている。
「男女差別と日本の男尊女卑の精神を混同しているところとか、逆恨みで呪っちゃうところとか。特に彼女の強気さそのものが。なにか、窮屈なものを感じてしまうわ」
「窮屈?」
百夜の言葉が理解できないとみえて、洋服の女性は語り終えてから初めて口を開いた。
「ええ、窮屈よ。彼女ってどのへんからそうなったのかは知らないけれど、自分を尊敬してもらうために必死になっているような気がしてたまらないわ。ほんとのところは話してみないと解らないけれど、彼の愛が受けられ無くて成仏できないっていうのも納得できかねるわ。私の感じた印象だけが理由だけれど、愛がほしいから彼女を殺したっていうより、親の正論に返しきれなくて暴力にうったえる思春期の子供の癇癪じゃないかしら。それに彼と幸福になりたいというよりか、自分のステータスとして所有しておきたいって印象も受けたわ」
「・・・」
「彼女の必死さは束縛のために働いているような気がする。それじゃあ窮屈になるわ。ほんとかどうかは解らないから、私の勝手な憶測だけれど」
「・・・」
洋服の女性は百夜を見据えたまま何も答えない。しかし眉が微かに寄り、百夜に対する若干の嫌悪感を示していた。しばらくの間また沈黙が続いた。
「あの・・・」
部屋の隅から声がした。声の主はルゥだった。彼女はおずおずと質問した。
「この女性のことを知る人はもう居ない?」
「ええ」
洋服の女性はさらりと答えた。少女はおびえたようになってさらに尋ねた。
「じゃああなたは誰からこの話を聞いたんですか?」
「・・・・」
にこり。洋服の女性は微笑んだ。