【工学系女子シリーズ⑦】建築教師の大人の恋~研究室と個展の攻防~(アリシア×ルーカス/ノエラ×ゼイン)
ギイ……。
研究室の扉が開く音がして、ノエラとゼインは書庫の中で、息を止めた。
近すぎる――。
さらに、ゼインの手が、ノエラの口元にそっと添えられた。
暗い書庫で、鼓動だけがうるさい。
そして廊下からは、聞き慣れた低い声。
「アリシア先生、少しよろしいですか」
——大人の恋が、研究室に入ってきた。
◇ ◇ ◇
王立工学学院・建築研究棟の廊下は、夕方になると一段と人が減って静かになる。
三月のはじめ。冬が名残を引きずるように、廊下の空気はまだ冷たく、石造りの壁に差し込む夕方の光は角度が低くて弱い。
ノエラが学院に入って、一年が経とうとしている。その日も講義が終わり、生徒たちが帰路につく頃、アリシアの研究室を訪れていた。ノエラは今も、憧れの建築家でもある教師アリシアの家に世話になっている。ゼインはその、アリシアの息子で二年生。そして、半年ほど前から「彼氏」でもある。
「書類、重いよ。無理しないで」
「一緒に片付ければ、早く帰れるから」
「ありがとう」
母アリシアの助手をしているゼインが、今日の授業で使った資料を片付けるのを手伝う。重い資料を持ち、二人で奥の書庫に入ると、研究室に、コツコツと軽い足音が近づいてきた。
「あ、アリシアさん、戻ってきたかな」
ノエラが言って、書庫から顔を出そうとした時。
研究室の扉を少し開いたところで足音が止まり、もう一つ近づく別の重い足音が近づいてきた。
「アリシア先生、少しよろしいですか」
聞き覚えのある低い声がして、ノエラとゼインは動きを止めた。
ルーカス・ヴァルトハイム。アリシアと同じく建築科の人気教師だ。
「……何でしょう」
「お食事でも、と思って」
二人は顔を見合わせた。今出て行けば、鉢合わせる可能性がある。
足音が近づき、アリシアの研究室の扉がさらに開いた。
(入ってくる!)
ノエラは慌てて、書庫の扉を引いた。
書庫は狭かった。天井まで届く本棚と、その前にも資料が積まれた、人が二人入るだけの空間。扉を閉めると視界が暗くなり、代わりに外の声だけが鮮明になった。
ゼインの胸に、背中が触れた。反射的に、彼の手がノエラの腕を支える。
「気を付けて。動くと音が」
「わかってる」
ゼインの声が、耳元にかかった。
暗い書庫の中、二人の距離はほとんどない。ゼインの呼吸が、かすかに首のあたりに触れる。冬の名残の冷気が足元に漂っているのに、耳のあたりだけが妙に熱い。
(ゼイン、なんかちょっと、成長した? 近すぎる――)
と、頭上で、す、と紙の擦れる音がして、本が一冊棚から落ちてきた。その瞬間――
ゼインが素早く本を受け止めた。だが、止めきれずに、本の表紙が棚にあたって「コツ」と小さな音がした。
「……っ!」
ノエラが反射的に声を漏らしかけ、ゼインのもう片方の手が、ノエラの口元にそっと添えられた。
ノエラは息を止めるが、鼓動は止められない。
(どきどきさせるのは、私のはずなのに……)
ノエラはゼインの手首をそっとつかみ、ゼインの指先に、ほんの一瞬だけ唇を触れさせた。
ちゅ、と音にならない程度の軽さ。
ゼインの体が、びくりと固まる。
ノエラは動揺するゼインの耳元に、囁く。
「……今、声出したら、ばれるよ」
ゼインは何も言えず、ただ頷いた。きっとまた、真っ赤になっている――
研究室の部屋に入る二人の、大人の会話は続く。
「……ヴァルトハイム先生は、若い学生に人気があるでしょう。そちらに声をかければいいんじゃないですか」
「子どもに興味はありません」
「学生が聞いたら傷つく」
「事実ですから。それより、『ルーカス』と、呼んでください」
ノエラがポケットから手帳を出して、暗い中さらさらとメモを取り始める。
ゼインが目で問う。
「勉強になる」とノエラ。囁くように。
「ああいうのが、良いの?」
「参考にしたいなと思って。ああやって、口説くのねって」
「あれを参考にするのはやめて」
ゼインが顔をしかめた。
ルーカスが、声を低めた。
「年齢のことを気にされていますか」
アリシアの返事が、わずかに間があった。
「……私はあなたより上よ」
「ですが、五歳ほどだけ。まだ子どもも産める年齢ですよね」
ノエラとゼインが、同時に固まった。
ルーカスは続けた。声が落ち着いている。
「産まなくても、私は構いませんが」
沈黙。研究室の空気が止まった。
ノエラが、ゼインの袖を引いて、耳元で、かすかに言う。
「……弟か妹できちゃう?」
(ゼインに似てたら絶対に可愛い)
「やめてくれ……」
ゼインが低く、絞り出すように言った。
アリシアがルーカスを静かに見て、言った。
「ふふ……大胆ね」
「本命に対しては、誤魔化しません」
ルーカスがまっすぐ返した。
アリシアが、落ち着いた声で言った。
「私を口説くなら、まずは設計の仕事で見せなさい」
「……それは難題ですね」
「それと、息子にも納得してもらわないと」
書棚の前で、ゼインがわずかに顔を上げた。
間を置いて、アリシアの声が、低く、はっきりと言った。
「ゼインの前で言う覚悟はあるの?」
「覚悟は、あります」
ゼインが頭を両手で抱えた。
「無理」
ノエラは彼の背中を、ぽんと一度だけ叩いた。
ルーカスが、少し笑う気配がした。
「では、両方攻略します」
ノエラはメモに一言書いた。
〈大人の恋は欲張りで、ちょっとずるい〉
◇ ◇ ◇
「……話は変わりますが、来週末、友人の個展があります。一緒に行きませんか」
ルーカスが、金髪をかき上げながら、さらりと言う。
「友人?」
「ロレンツォ・アルベリーニという若い画家です。港町ヴァレストの出身で、風景画が中心。最近王都でも名前が出てきています。招待状をもらっているので、一般公開前の時間に入れます」
アリシアが少し考える。
「……テーマは?」
「海と船が中心だそうです。建築とは少し違いますが、構造と美の話は通じるものがある」
また、少し間があった。
「……ゼインとノエラの分も、ありますよ」
書庫で、二人が顔を見合わせた。
「二人も行くのなら……」
「彼らにも、いい経験になるでしょう」
ノエラはゼインを見た。
ゼインは少し間を置いてから、小さく頷いた。
「……では、考えます」
「ありがとうございます。返事を楽しみにしています」
ルーカスが研究室を出て、足音が遠くなる。
ノエラとゼインは動かなかった。
しばらくして、アリシアが言った。
「……出てきていいわよ」
(ばれてた……)
ちょっときまり悪そうに、ノエラが出て行く。ゼインもその後に続く。
アリシアは図面に視線を落としたまま、耳がわずかに赤かった。
(あ、こういうところ、ゼインと似ている)
「聞いていたわよね。個展、行く?」
「私は行きたいです」
ノエラは、迷わず答えた。
「じゃあ、僕も……」
アリシアが、二人を見て、頷いた。
◇ ◇ ◇
当日は、よく晴れていた。
三月初めの空は高く青く、日差しは春の気配をほんの少し含んでいたが、路地に差し込む風はまだ冷たかった。
王都の裏通りにある小さな画廊は、白壁に蔦が絡まり、石畳の路地の奥に佇んでいた。
ルーカスが招待状を見せると、案内の人間がすぐに扉を開けた。
会場に入ると、絵が並んでいた。少し薄暗い中、それぞれの絵に照明があたっている。
「海だ」
「うん……」
大小さまざまな帆船が、波を割り、港に入り、光を受けて輝いている。
夕焼けの遠景から見た港町、早朝の甲板の上の人々、夜の灯台。
どれも、海を知っている人間が描いた絵だった。
ノエラは途中で足を止めた。
海辺の岩場に、猫が丸くなって眠っている絵。潮風に白い毛が揺れて見えて、本物のようだった。
「かわいい」
思わず声が出た。
ゼインが横から覗き込みながら、ささやく。
「ノエラの方が可愛い」
「……え?」
ノエラが反射的に彼を見上げると、ゼインは何でもない顔をしているが、耳だけちょっと赤い。
(今の、ちょっとずるい)
「言い逃げは、させないから」
「え?」
「照れてるゼインの方が、絶対可愛い」
ゼインの顔が、みるみる赤くなる。
「な……っ」
「ほら、また可愛い」
ノエラが追い打ちすると、ゼインは完全に言葉を失った。
アリシアが一枚の前で立ち止まった。
中型帆船が、夕暮れの港に滑り込む絵。
帆の角度、船体の曲線、水面の反射が正確で、設計図を思わせる精度がある。
「……船体の構造を理解して描いてる感じがする」
「ロレンツォは、描くために現物を調べる。港に何度も通って、設計図など構造についても学んだり、職人に話を聞いたと言っていました」
ルーカスが説明した。アリシアがその絵を見る。
「……良いものを作るためなら、どこにでも行く。そういう人なんですね」
「そうです。そういう姿勢は、建築にも通じるところかもしれない」
アリシアは少しの間、絵の前にいた。
ノエラは近くで二人のやり取りを聞きながら、声の温度が少し変わったことに気づいた。
会場を歩いていると、ノエラは入口近くで見知った顔を見つけた。
濃い藍色の髪を後ろで束ね、首を傾けて絵を見上げている。
「マレナ!」
マレナ・ヴェントラが振り返った。ノエラの同級生で、仲良し三人組の一人。
「ノエラ、来てたのね! 招待状、持ってたの?」
「ルーカス先生が。マレナは?」
「地元のセルジオ先輩から。ロレンツォさんと知り合いらしくて。目玉の絵のモデルが先輩の設計した船だから、って」
「え、あの中型帆船の絵?」
「そう! 先輩の設計そのままだって言ってた。あの絵、セルジオの船のきれいな曲線もちゃんと伝わった。見て、この帆の角度、完璧なの。帆走の理論を分かって描いてる……」
マレナの目が、輝いていた。
「この船、竜骨の位置が分かる。描き方が丁寧すぎる……どこまで調べたんだろう」
「船が好きなんでしょうね」
「好きで、ちゃんと勉強してる。それが一番すごい」
ノエラは笑った。
「マレナと話してると、専門が違うのに、いつもお互い似たようなことを言ってる気がする」
「そうかも。ノエラも、建物のこと話す時、周りが見えなくなるね」
「確かに」
でも、悪いことではない。二人は、また学院でフェレナも含めて一緒にランチをしようと言って、笑顔で別れた。
◇ ◇ ◇
会場をひとまわりしたところで、ルーカスが奥の小部屋から戻ってきた。
手に、小さな花束を持っている。
紫と白が混ざった、大ぶりで華やかな花だった。花びらの縁が白く、中心に向かって紫が深くなる。
ルーカスがアリシアに差し出した。
「……ダリアです。僕の故郷の友人で花を育てている人がいて、新しい品種を作ったと聞いたので。こちらに来る前に頼んでおきました」
アリシアが花を受け取る。
「……紫と白」
「白は感謝と気品。紫は優雅と尊敬。どちらも、あなたに合うと思って」
少しの間、見ていた。
「……きれいすぎるわ」
アリシアは、少しだけ肩をすくめた。
横でゼインが低く言う。
「……花言葉まで調べてきてる」
「準備がいいね」
ゼインはしばらく黙ってから、もう一度だけ言った。
「……きざだよね。大人のずるさだ」
ノエラが隣でそっと言う。
「でも、アリシアさん、嫌そうじゃないでしょ」
ゼインは答えなかった。
ただ、母親の横顔を、静かに見ていた。
アリシアが花を持ったまま、ゆっくりと歩き出した。
ルーカスがその横に並んだ。
二人が次の絵の前で立ち止まる。
何かを話している。声はここまで届かなかった。
ただ、アリシアが少しだけ微笑んだのが、遠くからでも分かった。
◇ ◇ ◇
帰り道。四人で石畳の路地を歩いた。
日が暮れると、三月の風はまだ冷たかった。
アリシアは花を抱えたまま、ルーカスの隣を歩いている。後ろでノエラとゼインが並んだ。
「楽しんでいただけましたか?」
「……そうね。色々、勉強になったわ」
「また誘いますね。レストランを開いた友人からも、誘われていますし」
「ご友人が多いのね」
「はい。良い刺激をもらえます」
アリシアが小さく息をついた。
「自分だけでは、決められないけれど……考えます」
「ありがとうございます。大人の事情も、引き受ける覚悟です。
あなたと並んで歩いて行きたい」
ルーカスが、ふわっと笑う。
後ろでノエラが小声で言う。
「……『考えます』って、だいぶ前向きだよね」
「……」
ゼインは少し黙って、前を歩く二人の後ろ姿を見た。
「……母さんが笑えるなら、それでいいかな」
ノエラはゼインの横顔を見た。
真っ直ぐで、少し不器用な言葉だった。
「……やさしいね、ゼイン」
「僕にはノエラがいるし」
「う、ゼイン、それは反則……私も、負けないから」
「どういう意味?」
ノエラは返事をせず、ゼインの手を握った。それから、少しだけ指先を絡める。
何も言わないが、ゼインの耳が赤くなる。そのまま二人は無言で歩き続けた。
◇ ◇ ◇
その夜。
アリシア邸の廊下を通りかかったノエラは、アリシアの部屋の扉が少し開いているのに気づいた。
通りがかりに、ふと目に入った――窓辺に置かれた、花瓶。
紫と白のダリアが、夜の灯りを受けて、静かに咲いていた。
ノエラは何も言わずに廊下を歩いた。
(……飾った)
ただそれだけのことが、少しだけ嬉しかった。
書斎ではゼインがまだ本を広げていた。
ノエラが隣に座ると、ゼインが視線だけ上げた。
「……飾ってたよ、花」
ゼインは少し間を置いてから、また本に目を落とした。
「……ふうん」
低い声。
「負けない。僕も、大人になる」
ノエラは小さく笑う。
「期待してる。でも、ゆっくりで良い」
ゼインの肩が、少し下がった気がした。
ノエラはその肩に、そっと頭を乗せてみた。
(私も、ゼインとこれからも、並んで歩いて行きたい……)
窓の外では、王都の夜が静かに広がっていた。
人の灯り、遠くの鐘の音。
この家の灯りも、その中にひとつ、混ざっていた。




