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工学系女子シリーズ(異世界・恋愛、仕事)

【工学系女子シリーズ⑦】建築教師の大人の恋~研究室と個展の攻防~(アリシア×ルーカス/ノエラ×ゼイン)

作者: コフク
掲載日:2026/03/09

ギイ……。

 研究室の扉が開く音がして、ノエラとゼインは書庫の中で、息を止めた。

 近すぎる――。

さらに、ゼインの手が、ノエラの口元にそっと添えられた。

暗い書庫で、鼓動だけがうるさい。

そして廊下からは、聞き慣れた低い声。

「アリシア先生、少しよろしいですか」

——大人の恋が、研究室に入ってきた。


◇ ◇ ◇


王立工学学院・建築研究棟の廊下は、夕方になると一段と人が減って静かになる。

三月のはじめ。冬が名残を引きずるように、廊下の空気はまだ冷たく、石造りの壁に差し込む夕方の光は角度が低くて弱い。

ノエラが学院に入って、一年が経とうとしている。その日も講義が終わり、生徒たちが帰路につく頃、アリシアの研究室を訪れていた。ノエラは今も、憧れの建築家でもある教師アリシアの家に世話になっている。ゼインはその、アリシアの息子で二年生。そして、半年ほど前から「彼氏」でもある。


「書類、重いよ。無理しないで」

「一緒に片付ければ、早く帰れるから」

「ありがとう」

母アリシアの助手をしているゼインが、今日の授業で使った資料を片付けるのを手伝う。重い資料を持ち、二人で奥の書庫に入ると、研究室に、コツコツと軽い足音が近づいてきた。

「あ、アリシアさん、戻ってきたかな」

 ノエラが言って、書庫から顔を出そうとした時。


研究室の扉を少し開いたところで足音が止まり、もう一つ近づく別の重い足音が近づいてきた。

「アリシア先生、少しよろしいですか」

聞き覚えのある低い声がして、ノエラとゼインは動きを止めた。

ルーカス・ヴァルトハイム。アリシアと同じく建築科の人気教師だ。

「……何でしょう」

「お食事でも、と思って」

二人は顔を見合わせた。今出て行けば、鉢合わせる可能性がある。


 足音が近づき、アリシアの研究室の扉がさらに開いた。

(入ってくる!)

ノエラは慌てて、書庫の扉を引いた。


書庫は狭かった。天井まで届く本棚と、その前にも資料が積まれた、人が二人入るだけの空間。扉を閉めると視界が暗くなり、代わりに外の声だけが鮮明になった。

ゼインの胸に、背中が触れた。反射的に、彼の手がノエラの腕を支える。

「気を付けて。動くと音が」

「わかってる」

ゼインの声が、耳元にかかった。

暗い書庫の中、二人の距離はほとんどない。ゼインの呼吸が、かすかに首のあたりに触れる。冬の名残の冷気が足元に漂っているのに、耳のあたりだけが妙に熱い。

(ゼイン、なんかちょっと、成長した? 近すぎる――)

 と、頭上で、す、と紙の擦れる音がして、本が一冊棚から落ちてきた。その瞬間――

 ゼインが素早く本を受け止めた。だが、止めきれずに、本の表紙が棚にあたって「コツ」と小さな音がした。

「……っ!」

 ノエラが反射的に声を漏らしかけ、ゼインのもう片方の手が、ノエラの口元にそっと添えられた。

 ノエラは息を止めるが、鼓動は止められない。

(どきどきさせるのは、私のはずなのに……)

 ノエラはゼインの手首をそっとつかみ、ゼインの指先に、ほんの一瞬だけ唇を触れさせた。

 ちゅ、と音にならない程度の軽さ。


 ゼインの体が、びくりと固まる。

 ノエラは動揺するゼインの耳元に、囁く。

「……今、声出したら、ばれるよ」

 ゼインは何も言えず、ただ頷いた。きっとまた、真っ赤になっている――


研究室の部屋に入る二人の、大人の会話は続く。

「……ヴァルトハイム先生は、若い学生に人気があるでしょう。そちらに声をかければいいんじゃないですか」

「子どもに興味はありません」

「学生が聞いたら傷つく」

「事実ですから。それより、『ルーカス』と、呼んでください」


ノエラがポケットから手帳を出して、暗い中さらさらとメモを取り始める。

ゼインが目で問う。

「勉強になる」とノエラ。囁くように。

「ああいうのが、良いの?」

「参考にしたいなと思って。ああやって、口説くのねって」

「あれを参考にするのはやめて」

ゼインが顔をしかめた。


 ルーカスが、声を低めた。

「年齢のことを気にされていますか」

アリシアの返事が、わずかに間があった。

「……私はあなたより上よ」

「ですが、五歳ほどだけ。まだ子どもも産める年齢ですよね」

ノエラとゼインが、同時に固まった。

ルーカスは続けた。声が落ち着いている。

「産まなくても、私は構いませんが」

沈黙。研究室の空気が止まった。


ノエラが、ゼインの袖を引いて、耳元で、かすかに言う。

「……弟か妹できちゃう?」

(ゼインに似てたら絶対に可愛い)

「やめてくれ……」

ゼインが低く、絞り出すように言った。


アリシアがルーカスを静かに見て、言った。

「ふふ……大胆ね」

「本命に対しては、誤魔化しません」

ルーカスがまっすぐ返した。


アリシアが、落ち着いた声で言った。

「私を口説くなら、まずは設計の仕事で見せなさい」

「……それは難題ですね」

「それと、息子にも納得してもらわないと」

書棚の前で、ゼインがわずかに顔を上げた。

間を置いて、アリシアの声が、低く、はっきりと言った。

「ゼインの前で言う覚悟はあるの?」

「覚悟は、あります」

ゼインが頭を両手で抱えた。

「無理」

ノエラは彼の背中を、ぽんと一度だけ叩いた。


ルーカスが、少し笑う気配がした。

「では、両方攻略します」


ノエラはメモに一言書いた。

〈大人の恋は欲張りで、ちょっとずるい〉


◇ ◇ ◇


「……話は変わりますが、来週末、友人の個展があります。一緒に行きませんか」

ルーカスが、金髪をかき上げながら、さらりと言う。

「友人?」

「ロレンツォ・アルベリーニという若い画家です。港町ヴァレストの出身で、風景画が中心。最近王都でも名前が出てきています。招待状をもらっているので、一般公開前の時間に入れます」


アリシアが少し考える。

「……テーマは?」

「海と船が中心だそうです。建築とは少し違いますが、構造と美の話は通じるものがある」


また、少し間があった。

「……ゼインとノエラの分も、ありますよ」

書庫で、二人が顔を見合わせた。

「二人も行くのなら……」

「彼らにも、いい経験になるでしょう」

 

ノエラはゼインを見た。

ゼインは少し間を置いてから、小さく頷いた。


「……では、考えます」

「ありがとうございます。返事を楽しみにしています」


ルーカスが研究室を出て、足音が遠くなる。


ノエラとゼインは動かなかった。

しばらくして、アリシアが言った。

「……出てきていいわよ」

(ばれてた……)

ちょっときまり悪そうに、ノエラが出て行く。ゼインもその後に続く。

アリシアは図面に視線を落としたまま、耳がわずかに赤かった。

(あ、こういうところ、ゼインと似ている)

「聞いていたわよね。個展、行く?」

「私は行きたいです」

ノエラは、迷わず答えた。

「じゃあ、僕も……」

 アリシアが、二人を見て、頷いた。


◇ ◇ ◇

当日は、よく晴れていた。

三月初めの空は高く青く、日差しは春の気配をほんの少し含んでいたが、路地に差し込む風はまだ冷たかった。


王都の裏通りにある小さな画廊は、白壁に蔦が絡まり、石畳の路地の奥に佇んでいた。

ルーカスが招待状を見せると、案内の人間がすぐに扉を開けた。


会場に入ると、絵が並んでいた。少し薄暗い中、それぞれの絵に照明があたっている。


「海だ」

「うん……」

大小さまざまな帆船が、波を割り、港に入り、光を受けて輝いている。

夕焼けの遠景から見た港町、早朝の甲板の上の人々、夜の灯台。

どれも、海を知っている人間が描いた絵だった。


ノエラは途中で足を止めた。

海辺の岩場に、猫が丸くなって眠っている絵。潮風に白い毛が揺れて見えて、本物のようだった。

「かわいい」

思わず声が出た。

ゼインが横から覗き込みながら、ささやく。

「ノエラの方が可愛い」

「……え?」

ノエラが反射的に彼を見上げると、ゼインは何でもない顔をしているが、耳だけちょっと赤い。

(今の、ちょっとずるい)

「言い逃げは、させないから」

「え?」

「照れてるゼインの方が、絶対可愛い」

 ゼインの顔が、みるみる赤くなる。

「な……っ」

「ほら、また可愛い」

 ノエラが追い打ちすると、ゼインは完全に言葉を失った。


アリシアが一枚の前で立ち止まった。

中型帆船が、夕暮れの港に滑り込む絵。

帆の角度、船体の曲線、水面の反射が正確で、設計図を思わせる精度がある。


「……船体の構造を理解して描いてる感じがする」

「ロレンツォは、描くために現物を調べる。港に何度も通って、設計図など構造についても学んだり、職人に話を聞いたと言っていました」


ルーカスが説明した。アリシアがその絵を見る。


「……良いものを作るためなら、どこにでも行く。そういう人なんですね」

「そうです。そういう姿勢は、建築にも通じるところかもしれない」


アリシアは少しの間、絵の前にいた。

ノエラは近くで二人のやり取りを聞きながら、声の温度が少し変わったことに気づいた。


会場を歩いていると、ノエラは入口近くで見知った顔を見つけた。

濃い藍色の髪を後ろで束ね、首を傾けて絵を見上げている。


「マレナ!」

マレナ・ヴェントラが振り返った。ノエラの同級生で、仲良し三人組の一人。

「ノエラ、来てたのね! 招待状、持ってたの?」

「ルーカス先生が。マレナは?」

「地元のセルジオ先輩から。ロレンツォさんと知り合いらしくて。目玉の絵のモデルが先輩の設計した船だから、って」

「え、あの中型帆船の絵?」

「そう! 先輩の設計そのままだって言ってた。あの絵、セルジオの船のきれいな曲線もちゃんと伝わった。見て、この帆の角度、完璧なの。帆走の理論を分かって描いてる……」


マレナの目が、輝いていた。

「この船、竜骨の位置が分かる。描き方が丁寧すぎる……どこまで調べたんだろう」

「船が好きなんでしょうね」

「好きで、ちゃんと勉強してる。それが一番すごい」


ノエラは笑った。


「マレナと話してると、専門が違うのに、いつもお互い似たようなことを言ってる気がする」

「そうかも。ノエラも、建物のこと話す時、周りが見えなくなるね」

「確かに」

でも、悪いことではない。二人は、また学院でフェレナも含めて一緒にランチをしようと言って、笑顔で別れた。


◇ ◇ ◇


会場をひとまわりしたところで、ルーカスが奥の小部屋から戻ってきた。

手に、小さな花束を持っている。


紫と白が混ざった、大ぶりで華やかな花だった。花びらの縁が白く、中心に向かって紫が深くなる。


ルーカスがアリシアに差し出した。

「……ダリアです。僕の故郷の友人で花を育てている人がいて、新しい品種を作ったと聞いたので。こちらに来る前に頼んでおきました」

アリシアが花を受け取る。

「……紫と白」

「白は感謝と気品。紫は優雅と尊敬。どちらも、あなたに合うと思って」

少しの間、見ていた。

「……きれいすぎるわ」

アリシアは、少しだけ肩をすくめた。


横でゼインが低く言う。

「……花言葉まで調べてきてる」

「準備がいいね」

ゼインはしばらく黙ってから、もう一度だけ言った。

「……きざだよね。大人のずるさだ」

ノエラが隣でそっと言う。

「でも、アリシアさん、嫌そうじゃないでしょ」

ゼインは答えなかった。

ただ、母親の横顔を、静かに見ていた。


アリシアが花を持ったまま、ゆっくりと歩き出した。

ルーカスがその横に並んだ。

二人が次の絵の前で立ち止まる。


何かを話している。声はここまで届かなかった。

ただ、アリシアが少しだけ微笑んだのが、遠くからでも分かった。


◇ ◇ ◇

帰り道。四人で石畳の路地を歩いた。

日が暮れると、三月の風はまだ冷たかった。


アリシアは花を抱えたまま、ルーカスの隣を歩いている。後ろでノエラとゼインが並んだ。


「楽しんでいただけましたか?」

「……そうね。色々、勉強になったわ」

「また誘いますね。レストランを開いた友人からも、誘われていますし」

「ご友人が多いのね」

「はい。良い刺激をもらえます」


アリシアが小さく息をついた。

「自分だけでは、決められないけれど……考えます」

「ありがとうございます。大人の事情も、引き受ける覚悟です。

 あなたと並んで歩いて行きたい」

ルーカスが、ふわっと笑う。


後ろでノエラが小声で言う。

「……『考えます』って、だいぶ前向きだよね」

「……」


ゼインは少し黙って、前を歩く二人の後ろ姿を見た。

「……母さんが笑えるなら、それでいいかな」


ノエラはゼインの横顔を見た。

真っ直ぐで、少し不器用な言葉だった。


「……やさしいね、ゼイン」

「僕にはノエラがいるし」

「う、ゼイン、それは反則……私も、負けないから」

「どういう意味?」

ノエラは返事をせず、ゼインの手を握った。それから、少しだけ指先を絡める。

何も言わないが、ゼインの耳が赤くなる。そのまま二人は無言で歩き続けた。


◇ ◇ ◇

その夜。

アリシア邸の廊下を通りかかったノエラは、アリシアの部屋の扉が少し開いているのに気づいた。


通りがかりに、ふと目に入った――窓辺に置かれた、花瓶。

紫と白のダリアが、夜の灯りを受けて、静かに咲いていた。


ノエラは何も言わずに廊下を歩いた。

(……飾った)

ただそれだけのことが、少しだけ嬉しかった。


書斎ではゼインがまだ本を広げていた。

ノエラが隣に座ると、ゼインが視線だけ上げた。

「……飾ってたよ、花」


ゼインは少し間を置いてから、また本に目を落とした。

「……ふうん」

低い声。

「負けない。僕も、大人になる」

ノエラは小さく笑う。

「期待してる。でも、ゆっくりで良い」

ゼインの肩が、少し下がった気がした。

ノエラはその肩に、そっと頭を乗せてみた。


(私も、ゼインとこれからも、並んで歩いて行きたい……)


窓の外では、王都の夜が静かに広がっていた。

人の灯り、遠くの鐘の音。

この家の灯りも、その中にひとつ、混ざっていた。


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