五十杯め 拳を交えなさい、それから腰も
俺とアラビカは迷宮の第4階層にある円形闘技場に来ていた。観客は一人もいなかった。風が、アラビカの金色の髪と、俺の浴衣の裾を揺らした。
ドワーフやゴブリンたちに会って話をしたい気持ちはあったが、会えば、あれやこれやが始まって帰るのが遅くなってしまう。竜の里のことを考えると長居はしていられなかった。迷宮の魔核に頼んで、ドワーフの里の最下層からここに転送してもらったのだ。
「エリクサーありの一本勝負です」とアラビカが言った。「手加減なしでお願いします、ご主人さま」
「手加減してほしいのはこっちなんだが」と言いながら、俺は木剣を二本、アイテムボックスから出した。リベリーから龍の血をもらい、俺の肉体は強くなったはずだ。炎や氷への耐性もできた。しかし、いつも仲間に頼ってばかりいた俺は、戦闘スキルはゼロに等しかった。
「いざ!」アラビカが剣を構え、間合いを詰めてきた。上段に振りかぶった木剣を、俺は木剣で受け止めた。
ばん!という破裂音がした。物体の移動が音速を超える時に出るソニックブームというやつだ。衝突した2本の木剣は粉々に砕け散り、衝撃波が円形闘技場の壁に激突し、地響きを起こした。
「ここからが本番です」と言って、アラビカが拳を構えた。そして近づくと左ジャブを俺の顔面に放ってきた。俺は紙一重でよけた。龍の血のおかげで、動体視力も運動能力も上がっているらしい。音速を超えるそのパンチは、しかし、かすっただけで俺の頬を切り裂いていた。
「このパンチをよけますか」とアラビカが言った。「これならどうですか!」連打が来た。右フック、左フック、右ストレート、左ジャブ、左ジャブ……。顔面を連続で攻められ、俺は拳でガードした。腹のガードが開いた。そこに強烈な下からの右を食らった。俺は跳ね飛ばされ、地面に転がった。
「降参ですか」
「まだだ」
よろけながら俺は立ち上がった。守勢で勝てる相手ではない。俺から攻めることにした。素人ながら、俺のパンチは速かった。アラビカの髪の毛をかすった。
「踏み込みが甘いです、ご主人さま!」そう言って、アラビカはローキックを俺のふくらはぎに入れてきた。右膝ががくっと折れた。俺は慌てて後ろに跳んだ。
「鍛錬をサボっていたんじゃありませんか?もっと腰を落として!そう、そうです」そう言いながら、アラビカは容赦なく俺の顔面や腹を狙ってきた。俺は紙一重で交わし続け、アラビカが隙を見せると、そこに殴りかかった。
「今のは悪くありません!これならどうです」アラビカの膝蹴りが俺の腹を狙ってきた。のけぞってよけたら、足払いをされ、倒れてしまった。俺はバク転して間合いを取った。コーヒーにしか興味のない俺が、バク転なんかできるようになったのか。ちょっとうれしかった。
「楽しいですね、ご主人さま!」とアラビカが言った。
「来い、アラビカ!」
こうして俺たちは5時間くらいぶっ通しで戦った。龍の血のおかげですぐにバテることはなかったが、アラビカのパンチやキックにより、俺はじわじわと削られていた。一方、アラビカは戦うほどにパンチの切れがよくなり、キックの破壊力が上がっていった。
そしてついに。
俺は背後を取られ、後ろから猛烈な手刀を食らった。その手が、俺の左胸から突き出ていた。
「負けました」
そう言って俺は気を失った。
* * * * *
気が付くと、俺は寝かされていた。洞窟の入り口だった。俺の上半身は洞窟の外にあり、下半身は洞窟の中だった。そして、アラビカが俺の上にいて、俺の胸の血を舐めていた。
俺は体を起こした。
「あ、気づかれたんですね、ご主人さま」
「おい」と言おうとして、口からゴフッと血を吐いた。肺に溜まっていた血だった。アラビカは俺の口に吸い付いて俺の血を吸った。
「そういうのはロブスの専売特許だと思っていたんだが」
「ご主人さまの出す汁は全部アラビカのものです」
「血を汁と言うな」
俺は座りなおそうとしたが、その途端によろけた。体が言うことを聞かなかった。
「まだ動かない方がいいみたいですね」そう言って、アラビカは岩を背にして座り、俺を後ろから抱きかかえた。目の前で焚火が燃えていた。
俺はしばらくのあいだ、ぱちぱちと爆ぜる焚火の火を眺めていた。焚火の火はゆらゆら揺れて、周りの石の影が伸び縮みした。
「気配遮断をかけたので、魔物の心配はありません」とアラビカが言った。
「狩猟魔法か。懐かしいな」
「今のご主人さまとアラビカなら、そのへんの魔物を恐れる必要もないのでしょうが」
迷宮の中なのに、星空が広がっていた。俺が倒れているあいだに夜になったのかもしれないし、迷宮の中なので昼夜は適当なのかもしれなかった。背中にアラビカの体温を感じた。「こうしていると、ご主人さまと二人だけで旅をしていた頃のことを思い出します」とアラビカは言った。
「お前、強くなったな」と俺は言った。
「おそらく、フライナ・フラインヴァルグの生命力を吸い取ったことと、死にかけた時にエリクサーをいっぱい飲んだおかげなのだろうと、賢明にして懸命なアラビカは考えます。第5階層にいるラテさんにも鍛えてもらえました。何度か死にかけましたが、最後は一発で倒せるようになりました」
「ラテを一発か。それはすごいな」ラテはティラノサウルス級の魔物だ。普通は素手で殴り倒せるものではない。「それだけ強かったら、スナに助け出してもらわなくても、フライナ・フラインヴァルグの城から自力で抜け出せたんじゃないか?」
「それはどうでしょう」とアラビカは言った。「フライナ・フラインヴァルグの生命力がきちんと体になじむには、それなりの時間が必要だったのでしょう」
目の前の焚火の火が、ぱちん、と爆ぜた。
「一人でさみしかったか?」
「いいえ」とアラビカは言った。「アラビカは、棺の中で体を鉄の皮膚で覆って仮死状態になっていたのです。知らない男にえっちなことをされたりしたらたまらないからです。そしてずっとご主人さまのことを考えていました。人も世界も救おうとしないご主人さまが、いったいどんな風にアラビカを救いに来てくださるのか、待つこともなく、アラビカは待っていました」
「そうか、悪かったな、お前を救い出したのが俺じゃなくて」
「いえ、アラビカがこうしてここに来れたのは、スナとの縁やエリクサーのおかげです。その元を作り出したのはご主人さまです。だからアラビカを救ってくれたのはやっぱりご主人さまなのです」
アラビカはそう言うと後ろから回していた手で俺の顎に触れた。
「勝利のご褒美をください」
そう言って俺を寝かせた。敷物が敷いてあった。アラビカは俺にキスしながら服を脱いだ。そして俺の浴衣も脱がせた。俺はアラビカのなすがままに身を預けた。
裸のアラビカが俺の上にまたがった。アラビカの指が俺を導いた。アラビカは静かに動き始めた。
それは龍との交わりとも違い、獣との交わりとも違い──
通常の人間の営みだった。ふつうに激しく、ふつうに気持ちよく、ふつうに一体となれた。
俺たちは同時に絶頂を迎えた。局部を凍らされることもなく、焼かれることもなかった。
その代わりに、アラビカは声をあげた。その声は、快楽の中から出てきた叫びであると同時に、悲し気に響いた。その声は、星空の下で、長く続いた。洞窟の奥で反響し、不思議な響きを奏でた。
アラビカの声がやんだ。洞窟の中の余韻が静かに消えていった。アラビカは、俺の上で、俺の胸に頭を乗せた。そして「ご主人さま」と言った。「賢明にして懸命なアラビカは、王宮に伝わる四十八手を試してみたいのですが、よろしいでしょうか」
「ほどほどにな」
そして夜は更けていった。
* * * * *
俺とアラビカはドワーフの里の最下層にいた。迷宮の魔核に念話で話しかけ、転送してもらった。目の前に翡翠色の巨大な鉱石があった。アラビカと二人で手を触れた。
「転移装置の使用には、たしか条件があるんだったな」
(①迷宮のクリア ②龍族の血 の二つだよ)と迷宮の魔核であり、迷宮創設者イリヴルク・ガルドルウィタのコピー自我が、少年の声で言った。
「じゃあアラビカはアイテムボックスに入っていくか」
(アラビカちゃんも両方ともクリアでOKだよ)
「ラテを一発でぶっ飛ばすくらいだから、①迷宮のクリアはOKなのはわかる。龍族の血はなんでOKなんだ?」
(覚醒した闇龍人の生命力を感じる。それに龍の血が少し混じってるみたいだ)
「ご主人さまの胸から噴き出た血を、隅々まで余さずぺろぺろ舐めたりしていませんよ?」とアラビカは言った。
「ふうん。ま、お前がいいと言うならいい、迷宮の魔核」
俺たちは翡翠色の巨大な鉱石に吸い込まれ、モニタースクリーンの並ぶ管理室を通り抜け、ラテにあいさつし、転移魔法陣の上に立った。抱きついてくるアラビカの腰に手を回した。転移魔法陣が光を発した。俺たちは光に包まれた。(またのお越しをお待ちしております)というアナウンスを聞き、気が付くと──
龍御殿の天守閣にいた。
みんな揃っていた。
最初に口を開いたのはロブスだった。「アラビカにゃ!交尾の匂いがするにゃ!」
それを聞いて、見た目は武人、中身は男子中学生のグルオガがショックを受けた顔をした。グルオガはアラビカを凝視した。
ルアックが「アラビカさん、ずるい。次はルアックの番だったのに」と言った。
リベリーはそっと涙をぬぐった。そして「おかえり、カフィ殿、アラビカ」と言った。
ロブスとルアックとリベリーが来て、俺とアラビカに手を回した。
「ただいま、みんな」と俺は言った。
ドラグゼドルとセステルはやさしい目で、そんな俺たちを見ていた。グルオガが「カフィ殿、見損なったぞ!そんなきれいな子まで毒牙にかけよって!許せん!うらやましい!」と言って部屋を出ていった。グルオガはなぜか前かがみになっていた。
俺はみんなを下がらせ、魔断岩の巨大な岩を出して転送魔法陣に蓋をした。それから何があったか簡単に説明した。フライナ・フラインヴァルグの城がもぬけの殻だった、という話をアラビカがした時、リベリーが「あの闇龍人はいったいどこに行ったんじゃろうな」と言った。俺は答えを持っていなかった。アラビカにもわからなかった。
話が終わると、ドラグゼドルが「おぬし、風呂にでも浸かってきたらどうじゃ」と言った。俺の着ていた浴衣は血まみれで、胸には穴が開いていた。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
俺は風呂場に向かった。みんなついてきて、当然のように男湯に入った。
かこーん、と鹿威しの音が聞こえた。岩山はくっきり見え、浮き岩は飛んでいなかった。
ルアックが俺の膝の上に乗った。そして「ここはルアックの特等席。誰にも渡さない」と言った。「それならミィのペット枠も誰にも渡さないにゃ」とロブスが言った。ロブスは仰向けで湯に浮かんでいた。「妾はカフィ殿の行くところ。どこにでもついていくだけじゃ」と言った。そして俺の左手に手を回し、「さみしかったのじゃ。何も言わずに消えたりしないでたもれ」と言った。
アラビカは俺の右手に手を回した。そして、ルアックの古代中国女帝がつけるような髪飾りの房を指でしゃらりとなでた。
「ルアックはずいぶん見た目が変わりましたね。アラビカは最初、わかりませんでした」とアラビカが言った。
「ルアックはアラビカさんが普通に帰ってきたのが意外。アラビカさんは敵に洗脳されて、次に会う時は敵だと思ってた」
「アラビカは、あの白い男にえっちぃことは、されなかったにゃ?」とロブスが言った。
「はい、アラビカは棺の中で鉄のようになっていましので」
「あの状況で手を出さないなんて、あの白い男もヘタレにゃ。ここに来てからのボスみたいにゃ」
「ロブスはいつの間にペット枠におさまったのですか」
「リベリーに折檻された後にゃ。あの時はほんとうに怖かったにゃ」
「その後、妾が女子会でロブスに負けてペット枠になるところじゃったのじゃ」とリベリーが言った。俺は「そんなこともあったな」と言って、アイテムボックスから猫耳カチューシャを出してリベリーの頭に載せた。
髪を後ろでまとめていたので前回とは印象が違ったが、白いうなじや、湯に浸かる裸体とあいまって、猫耳のリベリーからは後光が感じられるほどだった。
「「「おお!」」」ロブス、ルアック、アラビカがリベリーの発する尊さに圧倒された。
「やるにゃ。でもペット枠は譲らないにゃ」
「飛び道具。ずるい」
「それでご主人さまの性欲が高まるなら、アラビカにもぜひ!」
俺は猫耳をアイテムボックスにしまった。「これは破壊力がすごいから、いざという時にしか使わないんだ」
みんな、首まで湯に浸かった。
かこーん、と鹿威しの音が聞こえた。
俺はこういう一家団欒が欲しかったのだ、と思った。アラビカが戻ってきて、俺たちはようやく欠けていたピースを取り戻すことができた。拳で語り合うのも悪くはないが、心からのんびりできるような、こういう日が続けばいいのに。
そう思った時、温泉に浸かっているのに、一瞬だけ寒気に襲われた。それは、封印門の洞窟で感じた、地下から這い上がってくるような冷気だった。
今こうしている時にも、封印門の中の闇龍はその破壊力を増し、より危険な存在に変貌している。残された時間には限りがある。
でも、だからこそ、こんな、何でもないような時間を大切にしたかった。
毎日10時、16時に投稿します。




