四十三杯め 冷えたなら風呂で温まりなさい
巨大な空洞だった。霧が渦を巻き、規則的に膨れたり縮んだりしていた。
霧の奥に巨大な龍がいた。地面に伏せ、目を閉じていた。大部分が黒いモヤに包まれていた。頭のてっぺんや、背中の上の方に、微かに灰色の部分が見えた。もともと灰色の龍だったものが、地下から染み出る黒いモヤで染められているらしかった。
「ババ様、ドラグゼドルじゃ」と和服を着て顎髭を伸ばした壮年の男が言った。「会いにきたぞ」
しかし、龍は微動だにしなかった。霧が静かに渦巻いていた。気をしっかりと保っていなければ、吸い込まれてしまいそうだった。
しばらくのあいだ、ドラグゼドルは巨大な龍を見ていたが、俺たちの方を向き「ご覧のとおりじゃ」と言った。「しゃべることも、動くこともかなわん」
その時、どくん、という波を感じた。俺はその揺れを知っていた。リベリーを見ると、驚いた顔で自分の下腹部を触っていた。
「どうしたのじゃ、ひよこ丸?」
「胎慟か」とドラグゼドルが言った。「かように力強い胎慟は見たことがない」
どくん、どくん、という波がリベリーの下腹部から発せられた。それに呼応して、霧が、どくん、どくん、と揺れた。
そして、巨大な龍の口がかすかに動いた。「イン・ヴァンボ・アラ・キント・イズ・ウヌスクルト・ウント・カオス・クニンク……」
「ババ様がしゃべった!」とドラグゼドルは言った。「これは古龍語か。なんと言っておるのじゃ、リベリー」
「胎内の子は皆、無垢と混沌の王」とリベリーは言った。「ババ様はそうおっしゃっています」
「ババ様、我の声が聞こえたら返事をしてくれ」とドラグゼドルは言った。しかし、龍はそれっきり言葉を発しなかった。
ただ、霧が静かに渦巻いていた。
じっとしていると、足元から冷気が立ち上ってきた。絶対零度にも耐える氷魔法無効スキルがあっても、その冷気は体の芯を冷やした。それは、物理的な気温とは無関係の寒さだった。
「寒いな」と俺は言った。
「足元から立ちのぼってくるのは、何千年もの時間をかけて凝集した、闇と、拒絶と、恨みなのじゃ」とドラグゼドルが言った。「闇龍の暴走により、大陸が一つ海に沈み、世界の人口の9割が死滅した。それだけの力が発する闇、拒絶、恨みだ。封印だけで抑えきれるものではない」
俺たちは、黒いモヤに包まれた巨大な龍を見上げた。その腹の下に封印されているもののことを俺は思った。
「これ以上は危険じゃな」とドラグゼドルは言って、俺たちは巨大な龍のいる空洞をあとにした。
重さのある霧の中を俺たちは歩いた。俺の左右にリベリーとロブスがいて、手を引いてくれた。眠りそうになるたび、ロブスに殴られた。
霧が渦を巻き、規則的に膨れたり縮んだりしていたが、やがてそのリズムは小さくなり、そして感じられなくなった。
「胎慟とは何だ」俺はドラグゼドルに聞いた。
「胎児の発する強い魔力波じゃ」とドラグゼドルが言った。「龍の子ならば珍しいものではない。しかしあれほどの強さのものとなると……」
「ひよこ丸、強い子じゃの」とリベリーが言った。「さすがカフィ殿と妾の子じゃ」
「ババ様と響き合っていたようだが」
「わからん」とドラグゼドルが言った。「あるいはババ様の下にあるものに反応したのかもしれぬ」
「ババ様の下にあるもの」と聞いて、寒さを再び感じた。それは、地下の奥深いところから立ちのぼってくる、消えることのない、身体にまとわりつく冷気だった。
俺たちは歩き続け、大きな龍の透かし彫りのところまで戻ってきた。大きな龍が翼をたたみ、眼を伏せ、牙を地に預けた姿だった。
「龍は栄光を示さない」それを見上げドラグゼドルが言った。「我ら龍種の心の中に巣食う永劫の悔やみ。それがババ様の腹の下にあるものじゃ」
「心の中に巣食う永劫の悔やみ……」と俺は言った。「それはつまり……」
「父上」とリベリーが言った。「ババ様の下にあるのは闇龍なのじゃな」
「うむ」とドラグゼドルが言った。「正確に言えば、闇龍を封印した封印門じゃ。ババ様は自ら志願して封印門の封印を守る門番となられたのじゃ」
「上から蓋をしておかないといけない、ということか」
「そうじゃ。闇龍の力は強大じゃ。内部から封印門を破ろうとしておる。ババ様は一族の歴史の中で最も魔力の強い龍じゃが、少しでも気を抜けば突破されてしまうじゃろう。ババ様は長年にわたり、封印門を守ってきた。しかし時間はあまり残されておらぬ」
「黒いモヤがババ様を包んでおった」とリベリーが言った。「あのモヤが完全にババ様を包んでしまえば、もはや封印を守れなくなるということか、父上?」
「うむ」
「ババ様の代わりが必要になるということじゃな」とリベリーが言った。リベリーは自分の下腹部をさすった。その顔に覚悟のようなものが見えた。
「リベリー、お前まさか」と俺は言った。「ババ様の代わりに封印門の蓋になる気じゃないだろうな」
「妾しかおらんのじゃ」とリベリーは言った。「竜の里で一番魔力が強いのは妾じゃ」
「お腹の子は?ひよこ丸はどうするんだ?」
「この子を産むくらいの時間は残っておるじゃろうて」
「蓋になんかなるな」と俺は言った。
「らしくないの、カフィ殿」とリベリーは言った。「妾のことなど気にせず、前に進むがよい。それでこそのカフィ殿じゃ」
「俺の淹れたコーヒーを飲んでくれるんじゃなかったのか」と俺は言った。「飲んでくれる奴がいなきゃ、コーヒーの淹れ甲斐がないじゃないか」
「そうじゃな。カフィ殿のこーひーを飲むのは妾の夢じゃ。じゃがな、龍種として、やらねばならんこともあるのじゃ」
「リベリー……」
「アラビカを取り戻せ、カフィ殿。あの娘もカフィ殿のこーひーを飲みたがっておった」
「アラビカのことは救わない。それがあいつを救う一番の近道だ」
「ならば妾のことも救おうとせんことじゃ」
そう言われて、俺は何も言えなくなった。
「すまぬ」とドラグゼドルが言った。「我にもう少し力があれば」
「父上、よいのです。この身が里のためとなり、世界のためとなるのであれば」
「……すまぬ」ともう一度言って、ドラグゼドルは再び歩き始めた。
濃い霧の中を歩いていくと墓地があった。名前の刻まれていないたくさんの墓標が見えた。「我らは時とともに生き、名を残さずに死んでいく」というドラグゼドルの言葉を思い出した。
龍御殿に戻ってからも、体の芯に冷気が残っていた。
「冷えたであろう。風呂にでも浸かるがよい」とドラグゼドルは言った。「ヒルダはおるか?」
近くの障子が開いた。「はい、ここに」近習の女性、ヒルダが正座して座っていた。
「着替えとタオルを客人に」
「承知しました。風呂場にお持ちします」ヒルダの前の障子が閉まった。それを見てドラグゼドルは去っていった。
「風呂にゃ!」とロブスが言った。「早く行くにゃ!」
「妾も入るとするかの」とリベリーが言った。
「リベリー、お前……」
「今に生きるのがカフィ殿であろう?先のことより目先の風呂じゃ」そう言ってリベリーは俺の背を押し、男湯の扉を開いた。ロブスは「風呂にゃ!」と言って女湯に入っていった。俺はリベリーに向き直り、その体を抱きしめた。リベリーの体は冷えていた。しかし、震えていたのは、そのせいだけではなかった。
「ほんと、らしくないの」と言ってリベリーは涙をぬぐった。「さ、妾も体を温めるのじゃ。おお、寒い寒い」そう言って俺の手をそっと外し、リベリーは女湯に入っていった。
温泉に浸かった。霧に包まれた岩山のあいだを浮き岩がゆっくりと移動していくのを眺めた。このままではリベリーが蓋にされてしまう。世界を救うにはそれしか方法がないのだという。俺は湯をすくって顔にかけた。
今はまだ見つかっていないが、きっといい方法がある。しかしどんな方法があるのだろうか。
浮き岩は、そんな俺を眺めながら、無言で通りすぎていった。
「パパ、考えすぎはよくないよ」
気が付くとルアックが俺の横で温泉に浸かっていた。
「台所でお酒を造っていたんじゃなかったのか」と俺は言った。しかしルアックはそれには答えず俺の顔を見て「パパ、顔色が悪いよ」と言った。
「お前は元気になったみたいだな。顔つきがしっかりしている。そういえば服はどうした。裸じゃないか。あの服、脱げたのか」
「パパ、どこに行っていたの?この世じゃない世界の匂いがする」そういってルアックは俺の膝の上に乗ってきた。
「こら、裸の時に膝の上に乗るんじゃない」
「温めてあげる」そう言ってルアックは俺の膝の上でくるりと向きを変え、俺と向き合う形になった。「パパの体、冷たいね。まるで黄泉の国から帰ってきた人みたい」
「たしかに死者の国みたいな場所だった」と俺は言った。「ババ様のところに行くっていうから、病室のベッドで寝てるお婆さんをお見舞いする、みたいなのを想像していたんだが、まったく違っていた。あんな怖いところだとわかっていたら、ルアック、お前を置いていかなかったのに。次に行くときはお前もついてきてくれるか?」
「パパの行くところにはどこにだってついていくよ」とルアックは言った。
「リベリーみたいなことを言うんだな。そういえば、毒舌キャラはやめたのか?」
「あれはマルメロ迷宮限定だよ、パパ。……パパの体、だいぶ温まってきたね。ルアックは戻るよ」
そう言って、俺の目とサングラスのあいだに入っていった。
「おい、服は着ないのか?次に出てきた時、裸だと困るぞ」
(そんな細かいことは気にしなくていい。ちゃんとするから)と俺の目の中でルアックは言った。
湯につかりながら、浮き岩がすーっと通り過ぎていくの見た。
救おうとしないでください。
いつか、どこかで誰かに言われた言葉を思い出した。
そうだな。俺は俺だ。コーヒーを求めて旅する男だ。
俺は湯から出た。体中から湯気が出ていた。体を拭いて浴衣を着て外に出ると、休憩室には誰もいなかった。俺は寝椅子に座ってリベリーとロブスを待った。そういえば今日はサウナに入らなかった。まあ、いいだろう。これだけほかほかになったのだ。また今度入ればいい。
がらがら、と音がして女湯の戸が開いた。リベリーとロブスは、洗い髪で浴衣を着て、湯気が出ていた。みんなで客間に戻った。
「今日のお昼は何かにゃ?お魚かにゃ?」とロブスが言った。すっかり旅館に泊まっている気分になっている。まあ、のんびりするのも悪くない。そう思っていたら、
(ざざざ……マスター、聞こえ……ざざざ……聞こえますか?)という念話の声が聞こえた。迷宮でテイムし、ハイゴブリンに進化したゴブリン集落のまとめ役、フラペチーノの声だった。
「雑音がひどいが聞こえてるぞ。どうした」
(たいへんなことが……ざざざ……今すぐ……ざざざ……ああ!)
ぷちん。念話が切れてしまった。
「どうしたのじゃ、カフィ殿」
「フラペチーノから念話が飛んできた。迷宮の中で何かが起きているらしい」と俺は言った。
「戻った方がええかの?」
「戻れるのか」
「わからん。ともかく父上に話すのがよかろう」
リベリーが立ち上がった。
「なんにゃ、メシの時間か?」
「ロブス、お前も来い」
俺たちは客間から龍御殿の廊下に出た。近習のヒルダが現れ、「いかがなされた?」と言った。「父上に、急ぎ話したいことがあるのじゃ」とリベリーが言うと、「こちらへ」と言ってヒルダが先導した。俺たちはその後について、廊下を歩いていった。
空では、霧の中を浮き岩が音もなく移動していた。
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