三十六杯め フライナ・フラインヴァルグの回想①
最初の頃、暴力をふるう父ハルヴァルドの姿が恐ろしくてたまらなかった。暴力がもたらす痛みは耐えがたいものだった。しかし、何度も繰り返されるうちに、フライナは、痛みと自分を切り離すことができるようになった。父が殴ろうとしていることを察知すると、すべての感覚が麻痺した。恐怖すら感じなかった。痛みはそこにあったが、自分に属するものではなかった。フライナは自分を客観視することができるようになった。斜め上2メートルくらいのところから、男に殴られている少年を観察した。整理されていない人格が、「死なない程度に痛めつける」ことによって矯正され、整理されている人格になっていく様子を観察した。
父ハルヴァルドにとって、世界とは、測定可能であり、再現可能であり、対称的な形をした、安定したものでなければならなかった。感情、偶然、変化、老い、病、死などはすべて設計図から外れた「歪み」だった。彼にとっては息子の微笑みも、病弱な妻の咳き込みも、ノイズに過ぎなかった。ハルヴァルドは常にイライラし、不安を感じていた。常に何かに追い立てられてるような気がしていた。それらもまた彼にとっては無視すべきノイズだった。それらのノイズをかき消すため、彼は定規とコンパスで設計図を描き続けた。
父ハルヴァルドは息子フライナに、作業をする前に必ず手を洗わせた。それは整理整頓の一環だった。
父から虐待される日々であったが、フライナ少年には心の休まる時間があった。それは素材を整理している時だった。自分用の小箱を与えられた時はうれしかった。宝石、金属、紐、革などの素材を、決まった順番、決まった配置、決まった手順で扱う時、フライナは安らぎを感じた。フライナは素材ごとに箱を作り分類した。ある日、「金属のように見える宝石」が手に入った。それをどの箱に入れていいかわからず、「その他」という箱を作り、そこに入れた。整理はできたが、言い知れぬ敗北感を覚えた。フライナは、分類方法を一から変えることにした。まず、「役に立つもの」と「役に立たないもの」で大きく二分した。「役に立たないもの」は、分類不能なのではなく、分類不要なものなのだ。フライナにとって、それは革命的な発明だった。「役に立たないもの」の箱に入れたものは、忘れてしまうことにした。分類不要なものだからだ。「役に立つもの」の箱の中は、徹底的に細分化し、「その他」が生じないようにした。フライナはその箱を見て、満足した。それは、美しい世界だった。完璧に管理された美しい世界だった。
ある日、母が死んだ。
フライナ・フラインヴァルグの母、ミルドリン・フラインヴァルグは血を吐いて死んだ。流行り病に感染したことで、持病の肺病が悪化したためだった。
「きちんと手を洗わないでいると、お前もあのように汚い血を吐いて死んでしまうのだ」と父ハルヴァルドは息子フライナに言った。父は衛生観念について一般的な話をしただけだったが、その言葉は異様な印象をフライナ少年に与えた。死と、汚れと、愛する者とが、少年の中で結びついた。汚れは死をもたらす。しかし病によって汚れていたのは大好きな母だった。母と汚れを同列に置くことは、少年にとって耐えがたいことだった。そこで少年は「母はもともと清いものだったが、母が死んでしまったのは、手を洗うことを怠り、その結果、整理整頓された状態ではなくなってしまったためだ」という物語を作り上げた。その日から、少年は頻繁に手を洗うようになった。
父ハルヴァルドは、「墓地など汚い」といって、母の墓参りにフライナが行くことを許さなかった。あれほど整理整頓が好きだった父の仕事場が日に日に乱れていった。父は、フライナを死なない程度に痛めつけることもしなくなった。そして母の死から一年も経たないうちに、父ハルヴァルドも病気で亡くなってしまった。整理整頓を怠ったためだろうとフライナは思った。「墓地など汚い」という父の言葉を守り、フライナは埋葬に参加しなかった。
父母を失ったフライナは、生活のため、アクセサリーの露天商を始めた。市場に行き、敷物を敷いてその上にアクセサリーを並べた。客という他者は「汚れ」だったが、四角い敷物の上は清浄な空間だった。フライナはその上にアクセサリーを均等に並べた。その四角い布の上は、完璧に分類された素材箱と同様、フライナの作り上げた美しく完璧な世界だった。
露天商を始めた日、馬車が停まり、一人の若い女が馬車から降りてきた。後にわかったことだが、その女は男爵家の娘だった。女はペンダントトップを手に取った。他者の手によって、自分の完璧な世界が汚された気がした。「これ、きれいね」と言った。それは、いい石を使っており、フライナの商品の中ではもっとも高額の品物だった。女の表情を見て、後押しを欲しがっていることにフライナは気づいた。フライナは「さすがお目が高い。王都でもそのデザインは流行っているのですよ」と、罪のない嘘をついた。女は、それを聞き、その高価な品を3つ購入した。彼女はフライナの最初の客となった。フライナは、自分のついた嘘のおかげで、女が幸せそうな顔をしたのを見て、いいことをした、と思った。女が去り、フライナは敷物の上に商品を補充した。世界は再び完璧になった。自分の手元には数枚の銀貨があった。それを見て、自分の行為が、銀貨という数値に、つまり管理可能なものに変換されたのだ、と思った。それは奇跡のようなことだった。そのままでは管理の難しいものを、管理可能な数値に置き換えてくれるお金とは、なんと尊く、美しいものだろうと思った。
嘘をつくのは悪いことだと教わった。しかしほんとうにそうだろうか。フライナのついた嘘は、女の購買行動を後押しし、女は幸せそうな顔になった。だとすると、ちょっとした罪のない嘘は、むしろよいものなのではないだろうか。
人々はいとも簡単に欲望をいだく。たとえばフライナの作ったアクセサリーを手に取り、「このペンダントを身に付けてみたい」という欲望をいだく。しかし、そのような欲望は、「こっちの方が似合うかもしれない」という逡巡や、「無駄遣いではないか」という躊躇や、「自分に似合うだろうか」といった疑問や、「虚栄ではないか」という倫理観や、「分不相応ではないか」という常識といったものによって邪魔されるような、不完全なものだった。それは整理整頓されていない、不浄な状態だった。しかし「王都の貴族と同じものを身につけている自分は、価値のある存在だ」という物語を信じてしまえば、客は、もはや悩む必要がなくなる。清浄な状態になることができる。
罪のないちょっとした嘘は、人々の迷いを拭い去り、人々の背中を押し、幸せそうな笑顔をもたらすものだ。それが悪いものであるはずがない。それは、死なない程度に痛めつけることによって人が整理整頓された清い状態になることや、父や母が死んでしまったのは整理整頓された状態ではなかったからだ、ということと同じくらい、自明のことだった。
罪のないちょっとした嘘。それは人々を清い状態に導くものであり、フライナはそれを「消毒済みの物語」と呼ぶことにした。
「消毒済みの物語」こそ、フライナがつかんだ「商売のコツ」だった。
フライナの露天は繁盛した。フライナはただ、「消毒済みの物語」を用意して、提示すればよかった。フライナの手元には金貨や銀貨が積みあがっていった。ある日、フライナは、自分が以前ほど頻繁に手を洗うことがなくなったことに気が付いた。
フライナは、あらためて世界を見渡した。世界には管理されていないものがたくさんあった。人々はつまらないことで言い争いをしたり、恋愛のような管理できない感情のために人生を台無しにしたりしていた。フライナは、世界がもっと管理可能な場所になればいいのに、と思うようになった。フライナの中で「世界を消毒済みにしたい」という人生の目的がはっきりとした形を取り始めた。
最初の客となった男爵の娘は、その後も頻繁にフライナの露天商を訪れるようになった。やがて男爵自身がフライナの客となった。フライナの言葉の巧みさに男爵は驚き、「今度屋敷に来なさい」と言った。屋敷に招かれたフライナは、男爵の話を聞いた。庶民出身の男爵が立派に領地経営をしていることに、フライナは感銘を受けた。しかし、男爵が「私のような庶民出身の者が領民を従えるなど、おこがましいと感じることがあるよ」と言った時、それは不浄な思いだ、と感じた。そのような不浄な思いは、「消毒済みの物語」によって置き換えられなければならない。フライナは領地の拡張を男爵に勧めた。フライナは「隣の領地の男爵家では20名の騎士を抱えているそうです。男爵様が40名の騎士を召し抱えれば、領民たちはどれほど誇りに思うでしょうか」と言った。男爵はフライナのいうとおりにした。領内の税金が跳ね上がり、領民の生活は苦しくなったが、それはフライナのあずかり知らぬことだった。40名の騎士の前で、男爵がうれしそうな顔をしているのを見て、フライナもうれしくなった。いいことをした、と思った。
ある日、男爵の娘が「お父様は最近おかしくなってしまったの」と言った。フライナと二人で食事をしている時だった。「あれほど領民思いだったお父様が、最近では隣の領主と張り合ってばかり。愛するお父様がダメになっていくのは見ていられない」と娘は言った。何とバカなことを言うのだろうとフライナは思った。愛などという不確かな、管理できないもののために、この娘は男爵がせっかく得た「消毒済みの物語」を台無しにしようとしている。フライナは「ぼくの工房を見に来ませんか」と男爵の娘を誘った。娘はついてきた。工房で、フライナはアクセサリー作りの道具を使い、娘を、死なない程度に痛めつけた。裸にされ、天井から腕をつるされた娘は、「ごめんなさい、許してください」と言った。父ハルヴァルドは偉大だった、とフライナは思った。やはり、死なない程度に痛めつけることによって、人はきれいな心を取り戻すことができるのだ。フライナは、自分の裡に新しい力が目覚めていることに気づいた。顔を上げることもできなくなった娘の頭を掴み「テイム」と言った。すると、娘は完全に消毒済みになった。
フライナは、男爵をテイムした。貴族社会に入り込み、次々に貴族たちをテイムしていった。愛や、迷いや、倫理観や、ひらめきといった、唾棄すべき不浄なものから、多くの人を解き放っていった。テイムのスキルにより、テイムした相手のスキルを奪うことを覚えた。フライナは、強力な魔法を会得した。特に、闇魔法はフライナの体によくなじんだ。フライナは、自分に闇龍人の血が流れていることを知らなかったが、その血はフライナの闇魔法に巨大な力を与えた。たとえば同じ攻撃魔法を使っても、フライナが使うと常人の何十倍もの威力があるのだった。
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