愛の織布、最後の風通し
晴海埠頭 20:00**
晴海埠頭に、じわりと夜の帳が下りていた。東京湾の黒い水面がかすかにうねり、港の照明がその上を淡く照らす。
その場にいるのは、たった三人。
無職中年のシンジ。スカートの下がスースーしている女・彩香。そして、シャツの下までスカスカなすず。
時間はちょうど20時。時計の針が重なったその時。埠頭の奥の闇の中から、ギラリとライトが浮かび上がった。
巨大なトレーラーが、音もなくこちらに向かって滑り込んでくる。
「来たか……」
シンジが呟く。フレッシュ10袋、命がけの運搬、その終着点。だが、緊張のせいか、少しだけワクワクしている。いや、スケベ心も否定できない。
トレーラーが停まると、助手席側のドアが開き、黒づくめの二人が降りてきた。
一人は女。スーツ姿にガスマスク、背筋を伸ばし一歩ごとに風を切る。
もう一人は男。無骨な皮ジャンに同じくガスマスク。腕には、意味不明な漢字のタトゥー。
女が先に口を開いた。声はくぐもっているが、意志ははっきりしている。
「彩香さんは?」
「……私よ」
彩香が前に出る。すずの視線も、緊張と警戒で彼女の背に吸い寄せられる。
「私たちが落札した、“織布同盟”よ。取引終了まで、よろしく」
「こちらこそ。……早速モノを確認してもらうわ。こっちよ」
彩香はユアと名乗った女、そして無言の男・ケンをミラVANの後部へと案内する。トレーラーのライトが、バンの白いボディを浮かび上がらせた。
「ちょっと待って」ユアが止まる。「この車の中……最強レベルの“フレッシュガス”なんでしょ?開けた瞬間、拡散されて警察に通報されるかもしれないわ」
「じゃあ、どうするの?」
「私たちのトレーラーなら、車ごと飲み込める設計。中で降ろしましょう」
シンジが口を挟んだ。少し喉が渇いている。
「おいおい、ちょっと待てよ。その前に金を確認させてくれ。積んだ後に“すり替え”とか、マジで勘弁だからな」
ケンが初めて口を開いた。
「フフ……心配性だな。こっちへ来い」
ケンはミラVANの横を通り抜け、トレーラーの荷台部分を開けてみせる。内部は、ほのかに青い照明に照らされ、フレッシュとはまた異なる匂いが充満していた。
それはまるで、別系統のフレッシュ……いや、異なる“風”の香りだった。
「ここで、ずっと取引してるんだな……」すずが低く呟いた。
奥には、整然と並んだ黒いカバン。重厚で無骨、そして一切の隙がない。
「1つのカバンに1億円。全部で20億円だ。見るか?」
シンジが無言で一つのカバンに手をかけ、ファスナーをゆっくり下ろす。
パァンッ。
カバンの内側から、札束の圧がはじけるような錯覚。ギッシリと敷き詰められた一万円札が、まるで“厚み”そのもので殴ってくる。
「す、すげぇ……ガチだ……」
シンジは思わず彩香の方を向いた。
「どうする? 全部確認するか?」
「全部って……20億だから、20万枚数えるのよ? 何時間かかると思ってるのよ?」すずが眉をひそめる。
「パトカー来たら、即アウトだわ……彩香、判断して」
彩香は少し考えると、きっぱり言った。
「“織布同盟”は、フレッシュ界隈では有名で、信頼できる組織よ。『愛の織布.net』での評価は、18,580件の★5。悪い評価はゼロよ」
シンジ心の声:
《な、何だよ……一万八千件以上のパンティ取引って……正気じゃねぇ……》
だがシンジは口ではこう言った。
「……ああ、信用するよ」
「じゃあ、車をトレーラーに積んで」ケンが指示する。
シンジは、ミラVANの運転席に乗り込む。エンジンをかけ、バックでトレーラーの腹に吸い込まれていく。金属が軋む音が、夜の港に広がった。
完全に格納されると、トレーラーの扉がゆっくりと閉じる。カチャリ。内側の照明が明るく灯る。
シンジは車から降り、ケンとユアの方を振り返った。
「よし、これからリアゲートを開けるぞ。アンタ、ガスマスク大丈夫か? 漏れてねぇよな?」
「問題ない」ケンが短く答える。
「ユア、お前は……平気なのか? アレ嗅いで」
「ええ。何度も取引してるから。慣れてるわ」
シンジはうなずき、ゆっくりとミラVANのリアゲートのレバーを引いた。
ギィィィィ……
その瞬間。
もわっ……っ!
重く、濃厚で、妖艶な空気が、夜の密閉空間に放たれた。
袋から滲み出る、甘くも淫らな香り。鼻腔を突き刺し、脳を揺さぶり、記憶の奥まで染み込む――それがフレッシュガス。
ユア心の声:
《う……すごい……!この匂い……今までのどの取引とも違う……!匂いの層が、何重にも重なってる……!どんな熟成工程を経たら、ここまで昇華するの……!?》
ケン心の声:
《グ……っ!ガスマスクのフィルター越しに……分かる……エロい……濃すぎる……ッ!!》
シンジが得意げに叫ぶ。
「見ろよ……これが、オレたちの旅の結晶だ!ポリ袋一つ一つがな……命かけて運んだ“芳香の核爆弾”だぜ!」
ユアは、ほんの少しふらつきながら答えた。
「……見るまでもないわ。……降ろしてもらえる?」
その声には、明らかに酔いが滲んでいた。
シンジは、ひとつずつポリ袋を取り出し、床に並べていく。
その口からは、陽炎のようにゆらゆらと立ち上る爆淫香。
空気がよじれ、照明すら滲んで見える。
しかし――
その作業の途中、3枚のフレッシュが車内に落ちていたことに、誰も気づかなかった。
最後の袋を置いたシンジは、堂々と立ち上がり、トレーラーの中央に立つユアとケンに告げる。
「……全部、降ろしたぞ」
――次に何が起こるのかは、まだ誰にも分からない。
ただ、この夜の空気だけが、すでに狂い始めていた。




