第91話 選択の刻
戦の始まりは、僕らの方が押していた。
ファンの采配で盾を組んだ兵たちが、矢の雨を浴びながらも敵を押し返す。僕も剣を振るい、ただ無我夢中で敵を斬った。血の匂いにむせび、腕はすぐに痺れたけれど、不思議と恐怖はなかった。ただ「ここで退けば全てが終わる」という思いだけが、体を動かしていた。
だが、優勢は長くは続かなかった。
白銀に輝く鎧の列が霧を切り裂き、轟音のような鬨の声が戦場を震わせた。八百の聖騎士団。その先頭に立つのは、冷たい光を宿すユーア王子。馬を駆り、抜き放った剣に朝日を浴びせていた。
その瞬間、戦の空気が一変した。
重装備の聖騎士が壁のように押し寄せ、我らの陣形を簡単に引き裂いていく。矢を浴びても怯まない。槍で突いても倒れない。盾は弾き飛ばされ、兵が次々と地に転がった。
「くそっ……!」
僕は必死に剣を振った。だが、重さも速さも敵わない。かろうじて体を動かし続けることだけで精一杯だった。
気がつけば、領民を匿った城門のすぐそばまで王国軍の旗が迫っていた。
――もう持たない。
そんな言葉が、胸の奥で呟かれた。
その時だった。
「バルト!」
土埃を巻き上げ、一騎の馬が駆けてきた。
外套に覆われた騎士――顔を見て、僕は息を呑む。
「……エリク大尉」
かつて同じ隊で汗を流した戦友。今は王都の軍に仕えているはずの彼が、どうしてここに。
「まだ、一つだけ道がある」
彼は短くそう告げると、僕とピグレット伯爵の前で馬を止めた。
「バルト……お前だけなら逃せる。隣国のシャイン大帝国へ。海路はまだ封鎖されていない。俺の伝手を使えば必ず逃げられる」
耳を疑った。
「僕だけ……? みんなを置いて?」
「ここでバルトが死ねば、この戦は終わる。領も、民も、未来も失われる。生き延びなければ意味がない」
僕は何も言えなかった。
剣を握る手の中に、汗が滲む。
――逃げる? 僕が? そんなことをすれば、裏切り者じゃないか。
僕のせいで皆が戦っているのに。僕が背を向ければ、それは全部無駄になる。
その時、背後から声がした。城壁に避難していた領民が、幾人も身を乗り出して僕を見つめていた。涙に濡れた顔。けれどその瞳は、揺るぎなく僕へ向けられていた。
「この戦いは、君だけのためじゃない!」
「あなたが生きなければならぬ! それが私たちの願いだ!」
胸を殴られたような衝撃だった。
僕は呆然と民を見返した。責める言葉など一つもない。誰も僕を裏切り者と罵らない。むしろ――「生きろ」と背を押している。
ピグレット伯爵が苦渋の表情を浮かべながら僕に視線を向けた。
「……選ぶのはお前だ、バルト。生きるか、ここで死ぬか」
僕の心臓は激しく脈打ち、全身が熱に包まれる。
戦場の喧噪が遠のき、血と炎の匂いさえ霞んでいく。
――僕が生き延びることが、この戦の意味。
――僕が死ねば、全ては消える。
わかっている。頭では理解している。
でも、足は地に縫い付けられたみたいに動かない。剣を握る手は震えて、今にも折れそうだ。
「僕だけが……生きるのか」
呟いた声は自分のものと思えないほどかすれていた。
それでも――皆が望むなら。
僕が逃げることで未来が繋がるのなら。
胸の奥で、熱い炎が燃え上がった。




