第88話 別れの空、再会の地
ワイバーンの翼が折り重なる山並みを越えた時、眼下にオーム領の街並みが広がった。石造りの城壁に囲まれた城下は、灯火が点々と輝き、人々のざわめきが波のように押し寄せてくる。
ひとりの兵がこちらを指さし、歓声が上がった。瞬く間にそれは広がり、街全体を包み込む。
「着いたね、バルトくん」
アストリッドが手綱を引き、ワイバーンは滑るように広場へと降り立った。
「……ただいま、ですか」
胸の奥に熱いものが込み上げ、言葉が途切れる。見上げる人々の目には安堵と喜びが浮かんでいた。だがその奥に、微かな影が揺らめいているのも気づいた。
彼らは歓迎してくれている。だが同時に、王都の追手に怯えている。
「笑顔の裏は不安、か。まぁ仕方ないわな」
アストリッドは肩をすくめた。
「けど、これが君の居場所なんやろ。守りたいもんがあるんやろ」
「……はい」
バルトが答えると、彼女はにやりと笑う。
「なら、ここからは君の物語や。うちは仕事に戻らなあかん」
「え?」
思わず振り返った。彼女は既にワイバーンの首筋を撫で、飛び立つ準備を整えていた。
「送るだけが役目やからね。安心しい、また必要になったら勝手に顔を出すわ」
「アストリッドさん……」
何か言おうとしたが、言葉にならなかった。彼女は軽く手を振り、星空へと舞い上がっていった。
残された風だけが、バルトの頬を撫でていく。
◇
程なくして、城門前に屈強な兵士が現れた。黒い髪を後ろで束ねた男――オーム警備隊副隊長、ファン・ダグラスだ。
その姿を目にした瞬間、バルトの胸にこみ上げるものがあった。
「副隊長さん!」
「バルト!」
二人は力強く握手を交わした。
以前と変わらぬ腕の厚み。しかし顔つきはどこか険しく、眼差しには深い影が差している。
「無事でよかった。君が帰ってきたと聞いて……胸が熱くなる思いだ」
「僕も、会えて嬉しい。一体どこに行っていたんですか?」
ファンは少しだけ口元を緩めたが、すぐに視線を逸らす。
「……言っても信じてもらえるかどうか、分からん」
「え?」
「じきに分かるさ。今は、それだけでいい」
含みを持たせた言葉に、バルトは問い詰めたい衝動を抑えた。彼が戻ってきただけで十分だったから。
◇
夜、領主館でささやかな宴が開かれた。焼いた肉や果実酒が並び、民は「バルトが帰った」と口々に喜んだ。
だがその一方で、陰では囁きが飛び交う。
「王都は必ず追手を差し向ける」
「反逆者を匿えば、領全体が危うい」
不安は酒の匂いに混じり、重く澱んでいく。
バルトはその空気を感じ取り、盃を置いた。自分がここにいるだけで民を怯えさせている――そう思うと胸が苦しくなる。
「顔が曇ってるな」
ファンが隣に腰を下ろした。
「気に病むな。民は恐れてはいるが、それ以上にバルトを求めてる。君がいなければ、誰が時代を変える」
「時代を、俺が……」
バルトは自分の拳を握り締めた。
◇
翌朝。
黒衣の騎馬隊が城門前に現れた。旗には王家の紋章。先頭の男が高らかに声を張り上げる。
「王命を伝える! 反逆者バルト・クラストを直ちに差し出せ!」
広場にざわめきが走った。兵士たちは互いに顔を見合わせ、民は子どもを抱き寄せて震える。
「拒めば、オーム領は王家に背く反逆者とみなし、討伐する!」
冷酷な声が響き渡ると、空気は一層凍りついた。
密使は一枚の羊皮紙を掲げ、王の印章を見せつける。誰もがその真実を否定できなかった。
命令を言い放った騎馬隊は砂煙を上げ、城下を後にした。残されたのは動揺と絶望だった。
◇
その夜、領主はバルトを密かに呼び寄せた。
重厚な扉の奥、ろうそくの光だけが揺れる広間で、領主は深く溜息をつく。
「バルトよ……お前を匿えば、領全体が処刑対象となる。だが、民を守るためにお前を売ることなど、わしにはできぬ」
苦渋の言葉に、バルトは答えられなかった。
ファンが一歩進み出る。
「領主様、ここで退けば我らは永遠に王都の人形です。バルトは希望だ。彼を渡せば未来は閉ざされます」
「……しかし」
領主は唇を噛み、視線を伏せる。
バルトは両の拳を握り締めた。答えはまだ出せない。
だが逃げることだけは、もう許されないのだと感じていた。




