第85話 叛逆の剣
魔族との契約を受け入れる声が日に日に大きくなり、逆らう者は「国を乱す逆賊」として糾弾されていく。王子派の影は、もう王都の隅々にまで及んでいた。
そんな中、僕に下された命令は――反王子派の貴族の屋敷を捜索せよ、というものだった。
鎧の足音が夜の石畳を響かせ、僕らは屋敷に踏み込む。扉が破られ、甲冑のきしむ音が広間に満ちた瞬間、悲鳴が響いた。怯えた妻が幼子を抱きしめ、召使いたちは床に押さえつけられている。
当主は縄で縛られ、声を荒げた。
「我らはただ、王国の未来を案じただけだ! 魔族に魂を売るなど、あってはならん!」
その叫びは、兵士の拳に遮られて打ち砕かれる。
副長が冷徹な目で広間を見渡し、やがて僕を指さした。
「……その女を斬れ」
時が止まったように思えた。
視線を向ければ、妻が蒼白な顔で子を抱きしめ、震える声で命乞いをしている。
「お願いです……私たちは、何も……!」
胸の奥に冷たいものが走る。
僕の手は、条件反射のように剣の柄へ伸びた。
けれど、抜き放つことができない。
僕はただ立ち尽くし、柄を握りしめたまま震えていた。
副長の声が鋭く突き刺さる。
「見せしめだ! 王に背けばこうなると知らしめろ!」
剣を抜こうとして――僕はやめた。
一歩踏み出し、妻子の前に立ちはだかる。
その瞬間、自分の胸にあるものが何か、はっきりわかった。
「……僕はやらない」
広間にざわめきが広がる。
副長の顔が怒りに染まった。
「貴様、命令に背く気か!」
「騎士の剣は、弱き者を守るためにある……僕はそう信じてきた。無実の人を斬るなんて、僕にはできない!」
兵士たちが一斉に剣を抜き、僕を取り囲む。
息を呑む音、金属の擦れる音――広間全体が爆ぜる直前のような緊張に包まれた。
その刹那、イシュクルテが間に割って入った。
冷たい眼差しで副長を射抜き、低く言う。
「ここで騎士同士が剣を交える気ですか? ……団の恥になりますよ」
張りつめた沈黙が続いた。
やがて副長は舌打ちをし、剣を収める。
しかし、彼の視線は僕に釘を刺すように突き刺さっていた。
結局、妻子は捕らえられ、屋敷は荒らされた。
だけど、僕が命令を拒んだ事実は消えない。
その瞬間から――僕は近衛騎士の中で「裏切り者」となったのだ。
◇◇◇
翌日、王都は血の匂いに包まれていた。
シュリア王女が密かに束ねていた反王子派の組織――その拠点となっていた貴族の屋敷が、夜明けとともに急襲されたのだ。
炎が夜空を焦がし、悲鳴が城下に響き渡る。
僕は遠くからその光景を見て、拳を握りしめるしかなかった。
非公式の仲間たちは捕らえられ、断罪され、そして……シュリア王女は別塔へ幽閉された。
彼女の青ざめた顔が窓越しにちらりと見えた気がして、胸の奥を締めつけられる。
僕は何もできなかった。
――そして、その日のうちに僕自身にも裁きが下った。
近衛騎士団の兵舎。
石造りの冷たい部屋で、僕は鎖に繋がれ、鋭い視線を浴びていた。
「貴様の罪は明白だ。命令に背き、逆賊を庇った」
兵の声が冷たく響き、兵士たちがざわめく。
僕の胸から称号を示す銀の徽章が無理やり剥ぎ取られる。
「これよりお前は騎士ではない。ただの裏切り者だ」
徽章が床に叩きつけられ、乾いた音を立てた。
それが僕の終わりを告げる鐘のように聞こえた。
次の瞬間、革鞭や鉄具が運び込まれ、兵士たちの目に残酷な光が宿る。
背筋を冷たい汗が伝った。
これから拷問が始まる――そう悟った瞬間。
轟音が部屋を揺らした。
壁が割れ、煙が立ちこめる。その隙間から飛び込んできた影――それは、イシュクルテだった。
「立って! ここから出るわよ!」
迷いのない剣さばきで兵士たちをはじき飛ばし、僕の鎖を断ち切る。
彼女の目は、悲壮な決意に燃えていた。
「イシュクルテ……どうして」
「お父様からよ」
彼女は短く答え、僕の手を引いた。
暗い通路を駆け抜け、ようやく外に出たとき、彼女は一通の封書を押しつけてきた。
「それじゃあ、元気で」
振り返ることもなく、彼女は背を向けた。
彼女自身は逃げられない――父である団長の計らいで、僕だけが生かされたのだ。
別塔に囚われると知っていながら、なお僕を救い出してくれた。
手の中の封書を震える指で開く。
中には、短いが力強い筆致で書かれた言葉が並んでいた。
『オーム領の警備隊副隊長〈ファン・ダグラス〉が戻ってきている。何か掴めるかもしれない。行ってみると良い。だが、くれぐれも捕まるな』
懐かしい名に、胸の奥が熱くなる。
僕の故郷――オーム領。
そこに、まだ答えがあるのだろうか。
夜霧に包まれた王都を背に、僕は外套の裾を握りしめた。




