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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪魔公爵は氷の乙女を笑わせたい

作者: 御守いちる



 


「ソフィア。悪魔公爵から、お前と婚約したいと申し出があった」



 父から冷たく言い放たれた言葉を聞きながら、私――ソフィア・フォスティーヌは、どうしてこんなことになったのかと思案していた。


 ♢


 私は子爵家である、フォスティーヌ家の長女として生まれた。

 一応貴族ではあるものの名ばかりで、家はとても裕福とは言い難い状態だった。


 そんなフォスティーヌ家の誇りは、私の妹、アンジェラだ。

 この世界には、魔力を持ち、魔法を使える人間が稀に生まれる。

 アンジェラは、街の人々から『奇跡の聖女』と呼ばれていた。

 彼女はどんな病でも治すことができる、特別な魔法が使えたからだ。


 お父様もお母様も、私の一族は代々魔法が使える血筋だった。

 それなのに、なぜか私は何の魔法も使えなかった。


 聖女と呼ばれ周囲の人たちから賛辞されている妹と比べられ、私は何の能力も持たないことから家族から「役たたず」と蔑まれながら育った。

 魔法が使えない私は、一族の恥だったようだ。


 甘やかされて育ったアンジェラは、私のことを召使いのように扱うようになった。

 父も母も、決してそれを止めようとはしなかった。

 妹に対しては優しい父と母も、私のことをあからさまに厄介者として蔑んだ。

 幼い頃は、それでずいぶん寂しい思いをした。


 私も魔法が使えるようにならないかと何度も訓練をしたが、私は十六歳になっても、いっこうに魔法を使えるようにはならなかった。

 そして家族に愛されずに成長していくうちに、私は心を閉ざし、表情を失っていった。


 私はいつしか周囲の人々から『氷の乙女』と呼ばれるようになった。

 おそらく私のアイスブルーの長い髪と瞳の色も、氷を連想させるからだろうか。


 だが周囲の人が何と言おうと、どうだってよかった。

 人々が私を「氷のように冷たい女だ」と言うなら、本当にそうなればいいと思った。

 悲しみも怒りも、心を凍らせればきっとそのうち何も感じなくなる。


 ♢


「ソフィアお嬢様。旦那様がお呼びです」


 ある日自分の部屋で本を読んでいた私は、侍女からそう声をかけられた。

 珍しく父に呼びだされ、嫌な予感がした。

 妹のアンジェラならともかく、父が私と直々に話をしようとするなんて、この数年間一度もなかったことだからだ。


 父の執務室へ向かい、部屋に入る。

 すると、妙に機嫌の良さそうな顔のお父様が椅子に座っていた。

 そして私の顔を見るなり、父は言った。


「ソフィア! 悪魔公爵から、お前と婚約したいと申し出があった」

 その言葉に、私は眉を寄せた。

「悪魔公爵って……」

「ああ、もちろん悪魔公爵のダンタリアン・ヴィレノアール様だよ!」

 父はこぼれんばかりの笑顔でそう言った。


 ダンタリアン・ヴィレノアール。

 この国に住んでいるもので、その名を知らない人間はいない。


 この世界には、人間以外にもいくつかの種族が存在する。

 エルフや天使、ドラゴンや妖精など。

 それらの生物は通常めったに人前に姿を現すことはないが、唯一この国に広大な領地を有している種族がいる。


 それが悪魔だ。

 中でもその筆頭となっているのが、悪魔公爵であるダンタリアン・ヴィレノアールだ。

 もう百年近く前のことらしいが、悪魔たちを疎ましく思った王により、王家に仕える騎士たちが、悪魔たちを排除しようと争いを起こしたことがあるらしい。

 だが結果は散々なものだったようだ。強大な力を持った悪魔たちに人間の騎士たちは全く太刀打ちできず、惨敗したらしい。

 それ以降、王は決して悪魔たちを攻撃しないという条約を結ばされることとなり、悪魔と人間は互いに不可侵になっている。

 悪魔は人間を呪い、人間を殺め、人間を食べるなどと言われ、悪魔を恐れた人間たちはそれ以降決して悪魔の住まう領域に近づかなくなった。


 その悪魔公爵が、なぜか没落寸前の子爵家の娘である私と婚約を望んでいるそうだ。


 だが、実は数日前に父と執事が話しているのを聞いてしまったため、大体の事情は把握していた。

 悪魔公爵から私と婚約したいという申し出を受け、父と執事が応接間で声をひそめて話していた。

「悪魔公爵からソフィアに婚約の申し込みがあった」

 そんな声が聞こえ、偶然廊下を通りがかった私は思わず扉の近くで足を止めて彼らの話に耳をすませた。

 しばらく考えこむようにしてから、父は言った。


「おそらく悪魔は、アンジェラの聖女の力の噂を聞きつけて、アンジェラを手に入れようと婚約を申し込んだのだろう。だが、アンジェラとソフィアは背格好だけならよく似ている。聖女の力を持っているのが、ソフィアだと勘違いしたのだろうな」


 執事がうろたえた様子で問う。


「しかし、いくら何でも悪魔の元へソフィア様を差し出すのは……。断ることはできないのですか?」

 執事の提言に対し、父は冷たく払いのけた。

「悪魔に逆らうことなどできるわけがないだろう。王家の騎士すら敵わないのだ。それに、悪魔といえど公爵は公爵だ。悪魔公爵は広大な領地と莫大な資産を持っていると聞く。こちらからしても、悪い話ではない」


 その言葉を聞いた私は、ショックで身動きができなくなった。

 悪魔たちが人間を殺めるという噂を知っているなら、普通の親は自分の娘との結婚など許さないはずだ。

 だがお父様は、悪魔公爵の財産目当てに娘を売り渡すことを決めたのだ。

 決して愛されているとは思っていなかったが、実の父親からそれほどまでに疎まれているとは思わなかった。


 父は最後に笑顔でこう続けた。

「婚約を申し込まれたのが、アンジェラでなくてよかった」

 私は踵を返し、自分の部屋へと逃げ込んだ。



 婚約の話はすぐに家の使用人たちに広がり、侍女たちが噂話をする声も漏れ聞こえた。


「いくらなんでも、娘を悪魔公爵の元へ捧げるなんてひどい話だわ」

「街の人からは『氷の乙女』と呼ばれているけれど、ソフィア様は表情が表に出ないだけで、お優しい方なのに」

「しっ、そんなことをアンジェラ様に聞かれでもしたら大変よ。クビになりたいの?」


 この家で、聖女の力を持つアンジェラの発言は絶対だ。

 アンジェラが気に入らないと言えば、私を庇う侍女を解雇するくらい簡単なことだ。


 私は自室で膝を抱え、深いため息をついた。

「私、悪魔に殺されるのかしら……」

 こんな時ですら、涙の一滴も出ない自分を残念に思う。

 私の心は、とっくに凍り付いているようだ。


 私は悪魔との婚約の話を受け入れるしかなかった。


 ♢


 部屋を出て廊下を歩いていると、私の姿を見つけたアンジェラが駆け寄ってきた。

「ソフィアお姉さま!」

 彼女は花が咲き誇るような満面の笑みを浮かべている。

「お姉さま、本当に悪魔公爵のところへ嫁ぐつもりなの?」


 私は彼女から顔を背けながら冷たく言った。

「ええ。仕方ないでしょう。嫌だと言っても、認められないのだから」

「噂で聞いたのだけど、悪魔は満月の晩、力が強くなるんですって。だからその時に、人間から全身の血を搾り取って、血肉を食べる儀式をするらしいわ! ああ、なんて恐ろしいのでしょう!」


 そう言って、彼女はわざとらしく震える真似をした。

 私を心配しているわけではないだろうと思っていたけれど、やはり嫌味を言いたかっただけか。

「かわいそうなお姉さま。もう二度と会うこともないでしょうけれど、お元気で」

 高い声を立てて嘲笑いながら、アンジェラは去って行った。


 ♢


 それから数日が経ち、悪魔公爵の元へ向かう日がやってきた。

 私は逃亡しないように両手を縄で縛られ、馬車にのせられた。

 こんなことをしなくても、最初から逃げるつもりなどないのに。


 馬車は悪魔の住む領域へ向かって走り出した。

 人里を離れてから、どのくらいの時間が経っただろう。

 長時間馬車に揺られているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

 気がつくと、馬車は明らかに異様な地に到着していた。


 周囲は一面闇に覆われ、空には暗い雲がかかっている。

 その中にひときわ目立つ、荘厳な城が聳え立っている。

 立派だが薄暗く古めかしい、いかにもお化けが出そうなお城で、なんとも不気味だ。

 あれが悪魔公爵が住まう城だろうか。


 馬車の御者はその城の前に私を放り出すと、慌てて逃げて行った。

 城の門前に放置された私は、手を縄で縛られたまま石畳の上に座り込んでいた。


 これから、どうしたらいいのだろう。

 そう考えていると、突然びゅうと強い風が吹きすさんだ。

 それまで周囲に人の気配などなかったのに、すぐそばで声が聞こえた。


「おや、レディに対してずいぶん酷い扱いじゃのう」


 目の前に、紫の煙が漂っている。

 そして煙の中から、何かが形を作っていく。

 最初はコウモリのように見えた。 


 だがそれはやがて、長身の男性の姿に変化した。


「こんな場所に人間が来るとは珍しいな。いや、我輩が呼んだ娘か」


 まるで老人のような喋り方だが、それに反していつまでも聞いていたくなるような、優美な声だった。


 男性はこちらを見下ろしている。

 彼の姿を見て、私は言葉を失った。

 恐ろしいほどに美しい人だ。

 陶器のように白い肌。肩につくくらいの長さの、ウェーブのかかった銀色の髪。

 そして何より印象的なのは、血のような真紅の瞳だ。

 彼が羽織っている豪奢な黒い上衣は、まるで闇を纏っているようだ。

 袖口や裾には、金色の繊細な刺繍が施してある。


 夜を統べる者という言葉がぴったりだ。


 本当に、悪魔は存在したのか。

 私はまるで夢でも見ているようだと考えながら、彼に問いかけた。


「あなたが、悪魔公爵ですか」


 彼はにやりと微笑んだ。


「いかにも。我輩が悪魔公爵、ダンタリアン・ヴィレノアールじゃ」


 悠然と私を見下ろし、彼は言った。


「その恰好では、話しにくいじゃろ」


 彼が小さく指を動かすと、私の腕を縛っていた縄が解ける。

 彼の魔法だろうか。


 私は立ち上がってスカートの裾をつまみ、頭を下げて彼に挨拶する。

「フォスティーヌ家の長女、ソフィアです。お目にかかれて光栄です」


 それを聞いた悪魔公爵は、声をたてておかしそうに笑った。

「お目にかかれて光栄、か。嘘つきじゃのう。怯えておるくせに」


 悪魔公爵とはどんな恐ろしい人物だろうと思っていたが、思いの外気さくそうに見える。

「あなたは、私のことを食べますか?」


 彼は考えこむように唸った後。

「そうじゃのう。それも良いかもしれんな」

 そう言って、長い指で私の顎を持ち上げた。


 私はじっと彼を見つめ返すことしかできない。


「……つまらん」

「えっ?」

「お主を食べてもつまらなさそうじゃ」

「つまらない……ですか」


 やはりここでもそう言われるのか……。


 笑わない。可愛げがない。いつも不機嫌そうだ。

『氷の乙女』は何を考えているのか分からない。

 妹のアンジェラは、コロコロと表情が変わって愛らしいのに。

 両親や周囲の人々に言われたそんな言葉たちを思い出し、私は暗い気持ちになった。


「おびえていない……わけではないな。震えておるからのう」


 たしかに、彼は恐ろしい。

 何しろ悪魔など、生まれてから一度も見たことがないのだ。

 止めようとしても、勝手に全身が小さく戦慄いている。

 だが、私の凍り付いた表情は、鏡を見なくとも何ら変化していないだろうと分かる。


「もっと泣きわめいたりせぬのか?」

「泣きわめいたほうがいいですか? そうしろと言われても、おそらくできないと思いますが……。申し訳ございません。感情を表に出すのが、苦手なんです」

「生まれつきか?」

「いえ……」


 私は目を伏せ、理由を打ち明けた。

「幼いころから、魔法が使えない私は一族の恥と言われ、ずっと蔑まれてきました。いつしか、表情を表に出すことができなくなっていました」

 私は消え入るような声で、そう呟いた。


 今までは妹や両親の体裁を守るため、他人にこんなことを話すなんて絶対に許されなかった。

 けれど、もうそんなことを気にする必要はない。

 どうせ私は、この後悪魔公爵に食べられてこの世から消えてしまうのだから。

 彼は納得したように頷いた。


「ふむ。では、泣いたりわめいたりできるようになれ」

「え?」

「その時、お主を食べることにする」

「そう、ですか……」

「さて、いつまでもここにいても仕方ない。城へ行くぞ」

「あの、悪魔公爵様」


 そう呼びかけると、彼はいたずらっぽく微笑んだ。


「我輩には、ダンタリアンという名がある。そう呼ぶといい」

「はい。ダンタリアン様」


 彼の名を呼ぶと、ダンタリアン様は満足そうに頷いて、私に手を差し伸べた。


「うむ、いい子だ。おいで、ソフィア」


 私はおそるおそる彼の手を握り、城へ向かった。


 ♢


 ダンタリアン様のお城で暮らすようになってから、数日が経った。

 私はこの城で、毎日身の毛がよだつような恐ろしい目にあっている――ということは、まったくなかった。


 ダンタリアン様のお城での暮らしは、快適だった。

 どうやら悪魔の生活する領域では太陽が完全にのぼらないせいか、常に薄暗くはあったけれど、気になるのはそれくらいだ。


 彼が私を食べようとする気配は、一向にない。

 いつ私を食べるのだろう。

 そもそも、考えてみればおかしな話だ。


 彼は「泣いたりわめいたりできるようになれ。その時お主を食べることにする」

 と言ったが、そんなことを私に教える必要はないのだ。

 いつでも彼が望む時に、私を食べればよいのだから。


 その日、私は城内を箒で掃除していた。ダンタリアン様はそんなことをしなくてもいいと言うし、実際お城の中は綺麗なのだけれど、何もしないと手持無沙汰なので掃除させてほしいと頼んだのだ。

 私は椅子に座って眠そうにしているダンタリアン様に問いかけた。

「ダンタリアン様は、ずっと一人でここで暮らしているのですか?」

「そうじゃのう。もう何百年か前からここにいるぞ」

「さみしくないですか?」

 するとダンタリアン様は少し考えこむように首を傾げた。

「あまりにも長い間ここにいて、忘れてしまったが。退屈ではあるかもしれんのう」


 それから、昔を思い出すように目を細める。

「そういえば、もう何十年も前のことになるが」

「はい」

「一時期、黒猫がこの城で暮らしていたことがあるのじゃ」

「猫、ですか」

 私の声が明るい響きになったのに気づいたのか、彼は薄く微笑んだ。

「動物は好きか?」

「はい。好きです」

「我輩も、その猫にミネットという名をつけ、かわいがっておったのじゃが」


 私は彼の言葉の続きを察した。

 何十年も前のことだと言っていた。

 おそらく、寿命で死んでしまったのだろう。


「ダンタリアン様……」

 悲しいことを思い出させてしまった。

 反省した私が、彼を励まそうとしたその時だった。ダンタリアン様の後ろから、にゃあという鳴き声が聞こえた。


「あ、あの、ダンタリアン様。今、気のせいかもしれませんが猫の鳴き声が……」

「うむ。これがミネットじゃ」

 彼の肩に、半分身体が透けている黒猫が飛び乗った。

 私は驚いてその黒猫をまじまじと見つめる。


「猫の……幽霊? ですか」

「うむ。最初は普通の猫だったんじゃが。この土地の瘴気にあてられたのか、寿命で死んだ後、気がついたら幽霊になって戻ってきた。それ以来、ずっとここに住んでおる」

 私は嬉しくなり、ミネットに挨拶をした。

「初めまして、ミネット」


 私の言葉が分かるのか、ミネットはにゃあと返事をしてどこかに歩いて行った。

 ダンタリアン様は、興味深そうにこちらを眺めていた。


「どうなさいましたか?」

「いや。数日前より、ほんの少しだけじゃが……お主の表情がやわらかくなったと思ったのじゃ」

 私は自分では気づかなかった変化に驚いた。

「そうでしょうか?」

「さっきの話じゃが、お主は寂しいと思ったことはあるか?」


 私は両親や妹のことを思い出しながら答える。


「私が今まで暮らしていた場所には、たくさんの人がいました。両親と、妹と、侍女と執事と。だけど……その中に私を大切に思ってくれる人は、誰一人としていませんでした。周囲にたくさんの人がいても、一人きりだと寂しいです」


 そう言って目を伏せた私に、ダンタリアン様は言った。


「ふむ。今はどうじゃ?」

「今は……」


 私は彼の真紅の瞳を見つめながら言った。


「ダンタリアン様は、私を見てくれますから。さみしくないです」


 そう答えると、ダンタリアン様はにこりと微笑んだ。

「そうか。それならよかった」


 ♢


 その夜、私は夕食の準備をしていた。

 初めてこの城で食事をした時は、戦々恐々としていた。

 悪魔の食事とは、いったいどんなものを食べるのか。やはり人間を食べるのだろうかと。

 だが彼は意外にもパンやシチューや果物など、人間と同じようなものを食べた。


 ダンタリアン様は、私の用意した食事を嬉しそうに食べてくれる。

 パンを焼いたりシチューを作る時は、興味深そうにしながら手伝ってくれたりもする。

 悪魔もパンやシチューを食べるが、人間のものとは調理法が違うらしく、人間の料理の方がおいしいと言う。


 夕食が完成し、私は料理をテーブルに運びながら疑問に思っていたことを問いかけた。


「ダンタリアン様は、強い魔力を持っているのですよね」


「まあ、そうじゃのう。悪魔じゃから、人間の魔法とはまた少し性質は違うがな」

「どんな魔法が使えるのか、うかがってもよろしいでしょうか?」

 ダンタリアン様は椅子に座ったまま、軽く指先を動かした。

「たとえば、物を操ることもできるし」

 そう言った途端、私が運ぼうとしていたフォークとナイフが食器棚からふわりと浮かびあがり、綺麗にテーブルに並んだ。

「それから、炎を出すこともできる」

 ダンタリアン様がまた指を動かすと、今度はランプに火が灯った。

「使い魔のコウモリを呼ぶこともできるぞ」

 彼が指を鳴らすと、窓の外に現れた数羽のコウモリがチィチィと鳴き声をたてながら城の周囲を旋回する。

 彼がもう一度指を鳴らすと、コウモリたちはどこかに飛び去って行った。


「我輩自身が空を飛ぶこともできるぞ。今は食事中だから、やらないがのう。というわけで、たいていのことはできるのう」

 彼の魔法を見た私は、その魔力の強さに感動した。

「すごい……。そんなにたくさんの魔法が使えるのですね。普通、人間は一種類の魔法しか使えませんから」

 そう呟いてから、私は小さな声で付け加える。

「羨ましいです。私は何の魔法も使えないので」


 席についた私に対し、ダンタリアン様は信じられないことを言った。


「……いや。お主は魔力がまったくないわけではないぞ」

 その言葉に、私は思わず目を見開いた。

「えっ⁉ どういうことですか?」

「他人の力を増幅させるのが、お主の能力じゃ」

「他人の――力を?」

「ああ。お主だけでは、気づかなかったのだろう」

 ダンタリアン様は、もしかして私を励ますために嘘を言っているのだろうか。

 そう考えたのが伝わったのか、彼は自身の真紅の瞳を指さして言った。



「我輩はな、特別な眼を持っている」



「特別な眼ですか」

「そうじゃ。悪魔には、力の強い人間が分かるのじゃ。お主自身が何かの魔法を使ったことはなかったかもしれんが……お主の側にいるものに、影響を与えていたはずじゃ」

 その言葉に、鼓動が高鳴る。

「本当ですか?」


 私にも、魔力があるのだろうか。

「まったく気づきませんでした。もっと早く気が付ければよかったのでしょうか……」

 そうすれば、両親もアンジェラと同じように私を愛してくれただろうか。いや、今さら考えても意味のないことだ。


「余計なことを言ったかのう?」

 私は首を横に振る。

「いいえ、知ることができてよかったです。ありがとうございます、ダンタリアン様」


 ♢


 ダンタリアン様のお城で暮らすようになってから、二週間ほどが経った。

 やはり彼が私を食べる気配は一向にない。

 ある夜、彼は「月を見に行かないか」と誘ってくれた。

 私は喜んでそれに了承した。


 ダンタリアン様が空を飛べると言ったのは本当だった。

 彼は背中に黒いコウモリのような羽を生やし、私を抱きかかえて空に舞い上がった。


 彼は私を抱えたまま、どんどん空高く飛翔する。

 城の尖塔を超えるほど高く飛んでいく。今ダンタリアン様が手を離したら、私は死んでしまう。遥かに遠ざかっていく地上を見下ろし、私は顔を青くした。


「ダ、ダンタリアン様。怖いです」

 私が震えながらそう言ったのに気づくと、彼は私を大きな木の枝に座らせた。

「すまぬ、怖がらせてしまったか」

「高いところは、苦手で……」

 地上を見下ろすと、その高さでクラクラした。

「ほら、下ばかり見ていると余計怖くなるぞ。月を見るとよい」



 そう言われ、私は顔を上げる。

 すると、いつも地上で見ているよりずっと近くに大きな月が見えた。

 少しだけ欠けているけれど、あと四・五日もすれば満月になるだろう。

 私はふと、アンジェラの言葉を思い出した。

 悪魔は満月の晩に人を食べる儀式をすると。

 もしかしたら、ダンタリアン様もそうするつもりなのだろうか……。


 だが今はそれすら些末に感じるほど、月が美しいと感じた。

「月が綺麗ですね」

「どういう意味じゃ?」

 問いかけられ、不思議に思いながら答える。


「そのままの意味ですが……」

「そうか。いや、東洋の小国でそういう書物があってな。お主は知らぬか」

「ごめんなさい、知りません」

 ダンタリアン様がなぜか気恥ずかしそうにしているのが新鮮だった。


「でもこんなに美しい月を見たのは、生まれて初めてです」

 隣に座ったダンタリアン様は、優しい声で言う。

「少し笑っておるな」

 私はハッとして彼に謝った。


「ごめんなさい」

「なぜ謝る?」

「今まで、私が笑うと叱られていたので……。感情を表に出して叱られるのなら、心を殺した方がいいと考えていたのです」 

「我輩の前では、心を殺す必要などない」


 ダンタリアン様は、そっと私の頬を撫でた。

「言ったじゃろう。泣いたりわめいたりできるようになれと。

 もちろん笑えるなら、それでもいい」


 その言葉に、胸があたたかくなった。


「さて、あまり長い時間ここにいると身体が冷える。そろそろ帰るか」


 そう言って、彼はまた私を抱き上げ、城まで羽ばたいた。

 私は彼に身体を預けながら考える。


 ダンタリアン様は、人間ではないけれど。

 人間の家族よりも、今まで出会ったどんな人間よりも、なんて優しいのだろう。



 私は、ダンタリアン様のことが好きだ。



 ♢


 彼への恋心を自覚してからも、特に日々は変わりなく流れていく。

 満月の夜まで、あと数日。

 悪魔は満月の夜に人間を食べると言っていたアンジェラの言葉を思い出す。

 ダンタリアン様も、そうなのだろうか。

 けれど、それでもいい。

 ただダンタリアン様の側にいられるだけで、私は幸せだ。


 ♢


 その日の夕方、ダンタリアン様は珍しく外出すると言った。

 どうやら気の進まない用事らしく、行きたくないと何度も子供のように駄々をこねているのが少しかわいらしかった。



「いったいどんな用事なのですか?」

「悪魔の会合があるのじゃ。正直我輩は行かなくてもいいと思うのじゃが」

「ダンタリアン様は領主ですから、きっとダンタリアン様のご意見が大切なのでしょう」

「そうかのう。まあソフィアがそう言うなら、顔だけ出してくるか」

「はい。どうかお気をつけて」

「今日は少し帰りが遅くなるかもしれん」

 城を出る直前まで、彼は私のことを案じていた。

「一人で平気か?」

「もちろんです。それに、ミネットもいますから」

 私の傍らで、すっかり仲良くなったミネットがにゃあと鳴いた。

「ダンタリアン様の帰りをお待ちしております」

 それを聞いたダンタリアン様は、名残惜しそうに城を出て行った。



 ダンタリアン様が城を発ってから、数時間後。

 城の外から激しく扉を叩く音と、私を呼ぶ声が聞こえた。

 ダンタリアン様の声ではない。

 私は聞き慣れたその声に、耳を疑った。

 まさか。絶対に、こんなところにいるはずがない。


 だが扉を開くと、信じられないことに、やはり父が立っていた。

「お父様……? どうしてここに……」

 彼は馬車でここに来たらしい。

 お父様の後ろには馬車と御者、それに妹のアンジェラの姿まで見える。

「よかった、まだ生きていたんだな」


 彼らの姿を見て、私の後ろにいたミネットが毛を逆立てる。

 混乱している私に、お父様は言った。

「あの悪魔、全然城から出て行かなかったからな。お前が一人になる隙を見つけるのに、ずいぶん苦労した」


 ダンタリアン様がいなくなるまで、見張っていたということだろうか。

「どうしてそんなことを……」

 私は父を睨みつけて言った。

「今さら何をしに来たのですか?」

 父は焦った様子で叫んだ。

「お前を連れ戻しに来たんだ!」

「どうして今さら……」


「お前がいなくなってから、アンジェラの聖女の力が使えなくなった!」


 その言葉に、私は目を見開いた。


「聖女の力で今まではどんな病でも治すことができていたのに、今ではかすり傷ですら癒すことができなくなった。原因を考えたが、お前が悪魔公爵の元に嫁いでからだ。

お前のせいだ! そうだろう、ソフィア」


 ダンタリアン様の言う通り、私がアンジェラの聖女の力を増幅していたのだとすれば。

 私が側にいなくなって増幅の魔法がなくなり、アンジェラは聖女の力を使えなくなったということなのだろうか。

 いつの間にか、お父様の後ろにアンジェラが立っていた。

 アンジェラは、信じられないことを口にした。


「お姉さまが近くにいると、魔法が使いやすいとは思っていたけど。まさかこれほどだとは思わなかったわ」

「どういうこと? アンジェラは、私の力に気づいていたの……?」


 アンジェラは私自身ですら知らなかった、私の魔力に気づいていた。

 だが、それならなぜ私のことを庇ってくれなかったのか。

 いや、庇うどころか、アンジェラはいつも私のことを「役立たず」「無能力」「一族の恥」と貶め、虐げていた。

 アンジェラは開き直った様子で告げた。

「まさか、ここまで影響があるとは気づかなかったのよ。お姉さまがいなくても、私だけで力が使えると思っていたの」


 お父様は笑みを浮かべて言った。

「よかったな、ソフィア。お前にも利用価値があったということだ」



 怒りで、全身が震えそうになる。

 彼らはいったい何を言っているのだろう。


「とにかく悪魔が再びこの城に戻る前に、行くぞ!」

 そう言って、彼は私の腕を強く引く。


「この城でさぞかし恐ろしい思いをしていたんだろう」


 ――白々しい。婚約が決まってから、一度も私の身を案じたことなどなかったくせに。


「家に戻れば、また前のような生活ができるんだ」


 私は家にいた頃の生活を思い出す。

 またあんな風に虐げられ、誰にも気にかけてもらえない、惨めで苦しい思いをする生活に戻れと言うの?

 私はお父様の手を振り払って叫んだ。


「嫌です!」

「何を言っているんだ?」

「私は二度と、あなたたちの元へは戻りません!」


 予想していない言葉だったのか、お父様の顔が歪む。

「馬鹿を言うな! ここにいても、あの悪魔に食われるだけだぞ!」

「食べられたとしてもかまいません! あなたたちのところにいるより、その方がずっといいわ!」

「お前は騙されているんだ! あの悪魔にどれだけ恐ろしい噂があるのか、知らないだろう」


「私には今までずっと、あなたたちの方が悪魔のように見えていました!

本物の悪魔のダンタリアン様の方が、あなたたちよりずっと優しい心を持っています!」

「馬鹿なことを言いおって。あの悪魔に言いくるめられたのか。いいから来い!」


 お父様は乱暴に私の手を引き、無理やり馬車に押し込もうとする。

「いやっ! 離して!」



 その瞬間、周囲に全身が粟立つような殺気が漂った。


「ふむ。少し留守にしている間に、悪い虫が紛れ込んでおるようじゃのう」



 気がつくと、空からダンタリアン様が翼をはためかせ、舞い降りてきたところだった。


 お父様とアンジェラ、それに従者は強張った顔で彼を眺めている。


 ダンタリアン様は無表情で指を動かした。

 すると何もないのに、お父様とアンジェラと従者は透明な縄で縛られたかのように、動けなくなる。

 それから三人の周囲は、激しい炎の渦に囲まれた。


「ひいいい! 熱い、熱いっ!」

「助けて!」 

 お父様もアンジェラも顔面蒼白になり、ぶるぶると震えながら懇願する。

「た、助けてくれ!」 

「お願いです、助けてください!」 

「どうか、命だけは!」


 ダンタリアン様は静かな怒りの表情のまま、彼らを開放した。


「いいか、二度とここに訪れるな。今度もし、ソフィアに危害を加えようとしてみろ」


 彼の瞳には、激しい憎悪が灯っていた。


「命はないぞ」


 その言葉を聞くやいなや、彼らは馬車に乗って命からがら逃げ出して行った。

 私はその光景を、呆然と眺めていた。


 父とアンジェラがいなくなると、ダンタリアン様は私の方に駆け寄った。



「ソフィア、怪我はないか⁉」 

「はい」

 ダンタリアン様の顔を見て安心したからか、瞳から一筋の涙が流れる。



「どうしたのじゃ⁉」

「いえ……」


 私も自分が泣いていることに驚いた。今までどんなに辛いことがあっても、泣いたりしなかったのに。


「……怖かったです。二度とあなたに会えなくなると思うと、怖かったんです」

 そう言った私のことを、ダンタリアン様はぎゅっと抱きしめた。

「心配するな。お主はずっと我輩と一緒だ」

「はい」

 ダンタリアン様はまっすぐに私を見つめて言った。

「次の満月の夜。伝えたいことがある」



 ♢


 お父様たちがこの城に訪れた日から、三日ほどが経った。

 あれから、当然だがお父様たちが連絡してくる様子はない。

 きっともう二度と彼らと会うことはないだろう。


 今日は満月の夜だ。

 空には眩い大きな満月が浮かんでいる。


 ダンタリアン様が贈り物だと言って、箱をくれた。

 箱を開くと、真紅の美しいドレスが入っていた。

「素敵なドレス……!」

 まるで、ダンタリアン様の瞳の色のようだ。

 薔薇の花を模した装飾があしらわれ、華やかだ。

 自分にこんな素敵なドレスはもったいないと思いながら、そのドレスを身に着ける。


 応接間に向かうと、私の姿を見たダンタリアン様は嬉しそうに目を細めた。


「やはりソフィアに似合っておるのう」


 ダンタリアン様は私に手を差し伸べた。

「我輩と踊ってくれるか?」

「はい、もちろんです」


 ダンタリアン様の魔法なのか、城の中には優雅な音楽が流れだした。

 私たちはその曲に合わせ、二人でダンスを踊る。

 私は一度も行ったことがなかったけれど、舞踏会はこんな感じなのだろうか。

 満月がダンタリアン様を照らす光が、怖いくらいに美しい。


 踊りながら考える。

 きっと今日、私は食べられるのだろう。

 最初から覚悟してきたことだ。


 曲が終わり、ダンスを終えて、私はダンタリアン様を見つめて言った。

「最後に素晴らしい思い出ができてよかったです」

「最後とは、どういうことじゃ?」



「私を食べてください」



 その言葉を聞いたダンタリアン様は、驚いたように目を瞬いた。

 しばらく黙っていたけれど、やがて彼は微笑みながら言った。


「お主はずっと勘違いしておるようじゃが――悪魔は人間を食べない」


「えっ⁉」

 予想外の言葉に、驚いて硬直する。

「古にはたしかに、人間を食べる悪魔もいたそうじゃが。最近の悪魔はそこまで野蛮ではないぞ」


「でもダンタリアン様は、ここに来た時に私を食べると……」

「お主が勘違いしているのがかわいくて言い出せなかった」


 私は混乱しながら問いかけた。


「では、私に伝えたいことと言うのは何ですか?」


 ♢


 ダンタリアンは、彼女に初めて出会った時のことを思い出していた。


 ダンタリアンが初めてソフィアを見つけたのは、生贄として彼女が悪魔城に置いて行かれた時ではない。


 ソフィアがダンタリアンに捧げられる数か月前、ダンタリアンは人間の姿に変装し、人間の世界に訪れたことがあった。

 特に目的があったわけではない。ただの気まぐれだった。

 これまでも、たまに退屈しのぎに人間の世界に訪れたことがあった。


 その時、『氷の乙女』と人々がささやく声を聞き、ダンタリアンはその少女の方へ視線を向けた。


 そこに、彼女がいた。


 アイスブルーの長い髪。温度のない瞳。人形のような表情。

 たしかに氷のような印象を持つ少女だった。

 ダンタリアンは、しばらく彼女を見つめていた。

 悪魔は特別な眼を持っている。

 他の人間より強い魔力を持つ彼女は、まるで光を放っているように見えた。


 だがダンタリアンが彼女に惹かれたのは、それが理由ではない。


 少女の両親は、あからさまに彼女に対してひどい扱いをしていた。

 一緒にいるもう一人の娘の方には優しく声をかけているのに。

 どちらも娘であることには変わりないだろうに。人間とは不可解なことをする。

 ダンタリアンはそう考える。


 だが『氷の乙女』は、そんな薄汚い人間たちの中で誇りを失わず、凛と背筋を伸ばして立っていた。

 その姿が、なんと美しいのだろうと思った。


 ダンタリアンは、気高い魂を持った少女に興味を抱いた。

 氷の乙女は、虐げられているようだ。


 ――幸せでないのなら、自分のものにしたい。


 そうしてダンタリアンは、ソフィアの素性を調べ、彼女の父親に交渉した。

 彼女に初めて会った時のことを思い出していたダンタリアンは、ふっと微笑んだ。


 ♢


 ダンタリアン様は跪き、私の手を取って真剣な表情で告げた。


「我輩の妻になってくれないか?」


 あまりに予想外の出来事に、言葉が出ない。

 私が黙り込んでいるからか、彼は少し困ったように言った。


「やはり、悪魔からの求婚は迷惑かのう」


 私は大きく首を横に振る。


「いえ! 違うんです! あの……私……すごく幸せで嬉しいのに。どんな顔をしていいのか、分からなくて」

「心配しなくてもよい。ソフィアは世界一幸せな花嫁になる。だから、我輩の隣で笑っていてくれ」


 そう言って、彼は私を抱き上げた。


 ずっと凍り付いていた心が、あたたかくなった気がした。

 今なら、自然に笑える気がする。

 私は心からの笑顔で、彼に返事をした。


「はい。喜んで」


 彼と口づけを交わす。

 自然と笑顔がこぼれた。


 彼の言う通りだ。

 ダンタリアン様の側にいれば、きっと私は世界一幸せな花嫁になれる。

 心から、そう思った。





お読みくださりありがとうございました。


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