その愛をこの心へと願う
目の前の憔悴しきった男。
腹が立つのと。悲しいのと。
込み上げる感情を抑えることができなくて。気付いたら殴り飛ばしていた。
踏ん張ることもなくよろけて座り込むその姿に、ますます苛立ちが募る。
私程度の拳で倒れるような男じゃなかったのに。
もう本当に悔しくて。座り込んだ彼を押し倒して馬乗りになって、もう一度殴る。
「しっかりしなさいっ! ダリューン・セルヴァ!!」
叫ぶ私を呆然と見上げる銀灰の瞳。
あなたは。
私の惚れた男は。
こんなに弱くはないでしょう?
その日、うちには珍しいお客が来てた。
「アリー。久し振り」
「ナリスじゃない!」
私の大好きな友達、レムの旦那で元ギルド員。今はレムの実家の宿で働いてる。
「…皆、どうしてる?」
彼が今住むライナスは、私にとっても大好きな人がたくさんいる町。だけど。
「うん。向こうももう落ち着いてる」
まだ少し表情を翳らせて、ナリスが呟いた。
一月前、大きな不幸があった。
ライナス出身のギルドの英雄、ジェットが事故で亡くなった。
私のもうひとりの大事な友達、ククルの叔父で。レムにとってもずっと叔父のような存在で。ナリスにとっては師匠でありずっと共にパーティーを組んでた仲間であり、今はふたりにとって親戚でもあって。
もちろん私にとっても、たくさんの思い出がある大事な人。
知らせを聞いたときは、双子の弟のロイとふたりで泣きながら怒って。
ジェットの師匠だったおじいちゃんも、もう本当に長く塞いでしまって。
最近になって、皆ようやく前を向きだしたところだった。
「…レムが、ダンのところに行ってやれって。来させてくれた」
ナリスがさらに表情を曇らせる。
「…ダンは?」
無言で首を振るナリスに、私も息をつくしかなかった。
時間が悲しみを薄れさせて、皆が心にぽっかり空いた穴を思い出で満たしていく中。
未だひとりだけ、立ち直れないままの人がいた。
誰よりもジェットと長く共にいて。
誰よりもジェットのことをわかっていて。
誰よりもジェットとの思い出を抱えていて。
ただひとり、ジェットの最期を知っていて。
助けられなかったと、今なお誰よりも傷付いている人。
ギルド最強の、英雄の右腕。
ダリューン・セルヴァ。
私の、もうとっくに諦めると決めた、想い人。
叶うことがないと諦める決心をしたのが三年半前。おじいちゃんに鍛えられてきた私だから作れた最後の思い出は、ダンとの手合わせで。
最後の賭けだと思ってキスをしても、ダンはうろたえてもくれなかった。
私は髪に触れられただけでも動揺したのに。
十七歳も年下の私なんて、彼にとってはククルやレムと同じ、妹のようなものでしかないのよね。
だからもう諦めよう。そう思って。
そのとき知り合ったデュークが一年も諦めずにずっと口説いてくれたから。
私も好きになれそうな気がして。
素の私を受け入れてもらえる気がして。
付き合ってみたけど。
何度会っても。肌を重ねても。
大人っぽいと言われる外見に見合った振る舞いをしてきた私は、甘えて寄りかかりたい本当の自分をどうしても素直に見せることができなくて。
そんな私に気付いてもらえないまま、一年で私が疲れてしまった。
無理するから、とロイには呆れられたけど。
私を強い女だと思っているデュークに甘えることができなかった。
好きになる前に付き合って、結果的にデュークを傷付けてしまったから。
もう私は、誰かを好きになりたいなんて思わない。
ナリス曰くまだ保留にされているそうだけど、ギルドも辞めると言って家に籠もったままだというダン。
天涯孤独の彼を、今は彼を慕うギルド員たちが交代で様子を見に行っているらしい。
「もうほんとに…見てられなくて…」
視線を落として呟くナリス。その苦悩が滲む声音に、ダンが普通の状態じゃないことが痛い程わかる。
…仕方ないのかもしれない。
六年前に初めてダンを見たときのことを思い出す。
自分を助けて逝った仲間に祈りを捧げるジェットを、ダンはうしろからただ心配そうに見つめていた。
ずっとジェットの為にだけ生きてきたようなダンだもの。
そのジェットを目の前で亡くすことがどれ程のことか。多分私たちには想像もつかない。
ナリスも、皆も、わかっているから。
だから誰もダンに強く言えないのよね。
今日帰るというナリスに、ダンの家を教えてと頼み込んだ。
私がダンを好きだったことを知ってるロイに聞くと、まだ諦められてないの、って言われるから聞けずにいたんだけど。
ナリスなら。私がダンにキスしたことは知ってるけど、気持ちには気付いていなかったはずだから。
ナリスは少し驚いていたけど、ためらわずに教えてくれた。
「…時々でいいから、様子を見てくれたら嬉しい」
本当に心配そうなナリスに、ちゃんと様子を知らせることを約束して。
私の言葉なんてダンには届かないかもしれないけど。それでも声をかけたかった。
もう諦めた相手だけど。
この気持ちを差し引いても、私はダンを大切な人だと思うから。
ダンの為にも。ライナスの皆の為にも。
立ち直ってほしかった。
その日の午後、私はダンの下を訪れた。
家を訪ねる程親しいわけじゃないから、少し緊張しながら扉を叩く。でもすぐには出てきてくれなくて。
しつこく何度も叩いてたら、ようやく扉が開いた。
顔を出したダンの姿に胸が詰まる。
ロクに食べても寝てもないとわかる程にやつれて。銀灰の瞳もすっかり翳って覇気もない。
…こんな姿、見たくなかった。
込み上げる嘆きを呑み込んで、追い返されないうちにダンの横をすり抜ける。
ナリスが片付けただろうから散らかってはないけど、生活感も全くない冷え切った部屋。
こんな寒々しいところにひとりきりでいるなんて。ますます気が滅入るに決まってるのに。
そんなことを思いながら部屋を進むと、テーブルの上に無造作に置かれた包みが目に入った。
うちにもナリスが持ってきてくれたからわかる。ククルが、ダンの為に作った焼き菓子。
開けてもいない放ったらかしの包みを見たら、どうしようもなく悲しくなった。
いつものダンなら、こんなことしない。
ククルの気持ちを蔑ろにするような、こんな真似はしない。
悲しいのも傷付いてるのもわかるけど。こんなのいつものダンじゃない。
私の知ってるダンは、寡黙だけど人のことをよく見てて、いつも誰かを気遣ってる、そんな人なのに。
こっちが心配するくらい、人のことばっかり助けている人なのに。
そんな、人のことがわかるあなたなのに、どうして今はあなたを心配する皆の気持ちがわからないの?
どうしてあの町で待ってる皆の気持ちが伝わらないの?
そう思ってダンを見るけど、その表情は変わらない。
何もかも諦めたような顔を見て、怒りが増した。
「どうしてライナスに行かないの?」
尋ねても、ダンは何も答えない。
ダンだってあの町が大切なんでしょう?
ジェットの故郷ってだけじゃない。あなたにとっても故郷のようなものなんでしょう?
行きたくないはずがないのに。
ダンを心配する皆がいる場所なのに。
どうしてそんな諦めた顔をしてるの?
―――悲しくて、腹が立って。
そんなダンを見ていられなくて。
気付いたときにはダンに殴りかかっていた。
手合わせのときは一撃もまともに入れられなかったのに、今、私の拳は遮られることなくダンの頬に届いて。
数歩よろめいて座り込むダン。
その体たらくに、もう苛立ちしかなかった。
悔しいけど、私がまともに戦っても勝てる相手じゃなかったのに。
心も、身体も。誰よりも強かったダンの姿はもうここにはなくて。
それが、堪らなく悔しかった。
動かないダンを押し倒して、馬乗りになってもう一度殴る。
抗いもしないダンが、本当に悔しくて。
「しっかりしなさいっ! ダリューン・セルヴァ!!」
泣きそうになるのを、必死に堪えた。
呆然と私を見上げる銀灰の瞳に訴える。
ジェットのことを一番わかってるのはあなたでしょう?
ジェットの思いを皆に伝えられるのはあなたしかいないでしょう?
そんなあなたにジェットが最期に何を遺したのか。誰にも話さずにいるつもりなの?
馬乗りのまま苛立ちに任せてダンの胸を叩いて。
私が惚れたあなたなら。どこまでも優しくて強いあなたなら。
わかるはずだと、込み上げる涙を呑み込んで。
一方的に言いたいことを言い切ってから、見下ろしたダンの瞳に。
悲しみの奥、葛藤が見えた。
初めて見せた感情の揺らぎに、もしかしてと思う。
ダンも本当は足掻いているの?
動きたくても動けない。足元が抜けて沈んで、諦めに呑まれるその中で。
戻りたいという気持ちがあるのなら。
まだ、手を伸ばしてくれるなら。
お願い、と祈る。
あなたが私の手を掴んでくれるなら。
私のすべてにかけて、必ずあなたを引き上げてみせるから―――。
私を見るダンが、少しだけ、迷いを見せた。
「……自信が………ないんだ……」
思わず口をついて出たかのような、小さな呟き。
驚きもそこそこに、ダンから伸ばされた手を必死に掴みにいく。
「…やっと口を利いてくれたわね」
よかった。
ダンが全部諦めてなくて、本当によかった。
ようやく届いたその手を。
絶対に、放しはしない。
何故かものすごく驚いた顔で私を見上げているダン。
さっきまでかなりキツい言葉をぶつけていたから、きっと詰られるとでも思っていたのね。
「…何の?」
そんなことはしないからと示すように努めて優しい声で返すと、ダンが深い息を吐いた。
覚悟を決めるように一度瞳を閉じて。改めて私を見つめる。
「…あのときの俺の判断は、本当にジェットの望むことだったのか。…間違えてたんじゃないのか、と…」
「ダンがジェットの気持ちを読み違えることなんてあるわけないでしょう?」
即答すると、呆気にとられたように私を見返してくるダン。
そんな当たり前のこともわからなくなるくらい傷付いていたのだと、私もようやく理解する。
私が考えていたよりも、もっとずっとダンは追い詰められていたのだと。
あの事故の日、ダンとジェットは警邏隊と一緒に消息不明の定期馬車を探していた。
途中で別れた警邏隊が救助信号の笛を頼りに向かうと、ダンはまず赤ちゃんを預けて、ジェットにも救助が必要だと言って戻った。
警邏隊が駆けつけたときには、折れた枝が脇腹に刺さった状態でジェットは亡くなっていて。
ダンはその前に座り込んだまま、雨に打たれていたという。
呼びかけても反応しないダンを何とか連れて帰り、何があったのかを聞いたものの。ダンの口からは状況の説明だけしか聞けなかった。
ギルドからの説明はそれだけだった。
ジェットの最期がどんな様子だったのか。
ダンは何か言葉を交わしたのか。
唯一それを知るダンが何も話さないままだから、誰もそれを知らなくて。
でも、誰も塞いでいるダンから無理に聞き出せなかった。
ダンを気遣ってのことだったんだろうけど。もしかしたら逆効果だったのかもしれないと、そう思った。
素直に甘えられない気持ちは、私だってよくわかるけど。
本当に、不器用な人。
とうに諦めたはずの想いに突き動かされ、思わず本当に手を伸ばす。
手合わせしたあの日のダンのように。今日は私がダンの髪に触れる。
指先が触れるなりびくりと身じろぐダンに、私も驚いて手を引っ込めた。
驚かせちゃったかしら。気を付けないと。
私を見上げるダンはまだどこかぼんやりとしてるけど、怯えてはなかったから。
大丈夫。まだ手は離れてない。
「間違ってなかったかどうか聞くのは、私より適任がいるけど。練習台くらいにはなってあげられるから」
改めて、安心させるようにまっすぐ視線を向ける。
「あのときのこと、話してみて」
遷ろうダンの眼差しが、ようやく私を捉えた。
「…ジェットに赤ん坊を託されて」
ぽつり、ぽつりと。ダンが言葉を紡いでいく。
「…リゼルと被ると、そう言ってた…」
ジェットが亡くなる一月前に生まれた、ククルの赤ちゃん。
でも多分ジェットなら、リゼルのことがなくても助けたでしょうけど。
「…自分まで行くと間に合わないから…先に赤ん坊を連れていけと……」
枝に深く刺さって動けなくなっていたのだと、ダンが続ける。
「…あの状態のジェットを置いていけば、どうなるのかなんて。少し考えればわかることだったのに…」
動けるように枝を切ったものの、連れてはいかなかったことを悔やむダン。
でも。
ダンの話を聞いて確信した。
やっぱりダンはジェットのことをちゃんとわかってる。
何も間違えてなんかいない。
もしそのとき無理にジェットを連れていってたら、なんて。仮定の話でしかない。
ジェットが助かったかどうかも、赤ちゃんが助かったかどうかも、そんなこと誰にもわからない。
でもね、ダン。
それでもひとつだけ、言えることがあるのよ?
「ダン」
名を呼ぶと、そろりと視線が私を向く。
少し怯えが見えるのは、ジェットを置いていったことを責められるかもしれないと思っているからでしょうけど。
あなたには何の非もない。
それだけは言い切れる。
「…そのときのジェットの一番の願いは何だと思う?」
私にだってわかるんだもの。
あなたにも絶対にわかるはず。
私を見上げる銀灰の瞳から怯えが消えて。何かに気付いたように見開かれていく。
ダンがゆっくりと自分の手で顔を覆った。
「……赤ん坊を、助けること…」
「ええ。そうよね」
ダンが赤ちゃんを先に連れていったからこそ、ジェットは安心できて。
結果として命を落とすことになったけど、あなたに託せばもう大丈夫だと、不安も悔いもなかったのだと。
私はそう思うから。
「…ダンは間違いなく、ジェットが一番望むことをしたのよ」
顔を隠したままのダンは、もう何も言わずに動かなくなった。
ずっと馬乗りのままだったから、そっと降りて。
顔を見ないように背を向けたけど、離れてしまうのは少し不安で。ダンの腰の辺りに腕をくっつけたまま、落ち着くのを待っていた。
ダンが動いた気配がして。そのまま待ってると、起き上がったダンが私の名を呼んだ。
振り返ると、少し困った顔をしたダンが私を見ている。
「…すまない」
何度も口を開きかけては閉じて。結局ダンはそれだけ告げた。
ダンらしい、その様子に。
私はちゃんとダンを引き上げることができたのかしら、と思う。
思わずじっと顔を見て。唇の端が切れて赤くなってしまってることに今更気付いた。
「ごめんなさい、殴ったときよね」
手を伸ばして頬に触れてしまってから我に返る。
驚いた顔のダンと視線が合った。
あんなに思い詰める程悩んでいるのに、誰にも甘えられない不器用な人。
自分のことばかり責めて、自分だけが傷付いて。それでもひとりで我慢して。
本当に。どこまでも優しい、ばかな人。
諦めたはずの想いが溢れて、止められなかった。
今度は逃げずにそのままいてくれてるダンに、引き寄せられるように近付いて。
そっと、唇を重ねる。
僅かに身体を揺らしたダンに、今度はうろたえてくれたのかと思いながら。
唇を離して。続けて引こうとした手を、頬の上で押さえるように掴まれた。
ダン?
私を見つめたままのダンが、ぎゅっと私の手を握る。
「……温めて………」
そう呟いたダン自身が、自分の言葉に驚いたように瞠目した。
「ア…」
開きかけたダンの唇をすぐにキスで塞ぐ。
やっと見せてくれたダンの甘え。撤回なんてさせない。
そのまま押し倒して。何も言わせないようにキスを続けながら、ダンのシャツのボタンを外していく。胸がはだけるくらい開けたところで一度起き上がって、自分の上も脱ぎ捨てて。
恥ずかしいなんて言ってられない。
何だってするって。決めてたもの。
素肌を重ね、またキスをする。
そのうちに受け身だったダンがキスに応えてくれるようになって。
頭と背中に回された手が強く私を抱きしめて、そのまま上下を返された。
私の上にきたダンに、あとはもう身を委ねる。
わかっているの。
ダンは『アリヴェーラ』に言ったんじゃない。
ダンに触れたのが私だったから。
私が女だったから。
ただそれだけの理由だってことは、わかっているの。
だから私にできることは、ただダンを受け入れること。
ダンへの気持ちを表に出さず、ただ彼を温める女の身体であればいい。
そう思って、感情すべてを呑み込んで。
私の熱を貪るダンが欲するままに受け入れる。
愛の言葉どころか、名前ひとつも呼ばれずに続く行為だけど。
でも。それでも嬉しいの。
たとえこんな形でも。
私は今、惚れた男に抱かれているんだから。
ゆっくりと、ダンが私の上から降りてくれた。
「…アリー……」
「誘ったのは私。謝らないで」
少し戸惑う口調のダンに先に釘を刺す。
ダンは困ったように私を見下ろしてから、身体を隠すように服をかけてくれた。
本当は余計な気を遣わせないように早く起き上がりたかったんだけど、まだもう少し動けそうにない。
ここで少し休ませてと言おうとしたら、ダンに抱き上げられて。
驚いて名を呼ぶけど答えてもらえないまま、連れていかれた寝室のベッドに降ろされる。
もしかしてと疑う暇もなく、服の上から上掛けをかけられた。
「…しばらく休むといい」
…そうよね。そんなはずはない。
それでも、こうして私のことを気遣ってくれるくらい自分を取り戻してくれたダンの姿に、本当によかったと思う。
「ありがとう」
私でなくてもよかったのかもしれないけど。それでも、その相手が私であったことが嬉しかった。
だからダンが気にしないように、いつものように笑う。
急に動きを止めて、ダンがじっと私を見た。
何か困らせるようなことをしたかしら? それともまた辛いことを思い出したのかしら?
「ダン?」
不安になって名を呼んだ直後。
ダンの手が私の頬に触れ、優しくキスされた。
頬に触れる手も。キスも。さっきと同じ人とは思えないくらい優しくて。
私を見つめる銀灰の瞳は、どこか甘くて。
何が起こっているのかわからないままの私の髪に、ダンが触れた。
「…やはり、長い髪も似合うな」
思わぬ言葉にうろたえる。
手合わせしたあのとき。ロイの振りをする為に髪を切った私に、長い髪も似合うだろうにと言ったダン。
まだ、覚えていてくれたの…?
「……また、そんなこと…」
嬉しい。でもどうしていいかわからない。
どうして今になって、そんなに優しい眼差しで私を見るの?
うろたえる私にキスをしながら、ダンが私を組み伏せる。
さっきのようにただ受け入れるだけの存在になろうと思うのに、私に触れるダンの手はどこまでも優しく、熱に浮かされたような眼差しが私を捉えて。余すところなく暴かれ見つめられる羞恥に、洩れる吐息を抑えきれない。
…もしかして、ダンは『アリヴェーラ』を抱いてくれてるの?
あなたを温める為の身体じゃなく、『アリヴェーラ』を求めてくれてるの?
そうだったらいいのに、と。
そんなはずがない、と。
揺れるふたつの思いの狭間で。
ダンのことを抱きしめ返してもいいのだろうかと、そんなことを考えていた。
あまり眠れていなかった様子のダンだけど、さすがに疲れたのか、私の隣で眠ってしまった。
その寝顔を見ながら考える。
一度目と二度目、あまりのダンの変わりようにもしかしてと思う。
もしかして、私はダンに愛してもらえたのかしら?
そうだったら、こんなに嬉しいことはないのに。
無理だろうと諦めたつもりでほかの人と付き合って。
それでもどこか忘れきれずにいた相手。
その人が。ダンが。私のことを好きになってくれたなら。
私はどんなに幸せか。
―――聞いてしまっていいかしら。
どんなつもりで私を抱いたのか。
私が好きだと言ったら、応えてもらえるのか。
そんなことを考えて。少しだけ未来に期待して。
私も休もうかと、目を閉じかけたときだった。
突然ダンが低く呻いて、その顔が苦悩に歪んだ。
うなされてる?
「ダン!」
慌ててダンを揺り起こす。
すぐに目覚めたダンだけど、荒い息をつきながら、怯えた目で私を見ていた。
まだ眠ってからそんなに時間は経っていない。
ダンが休めていない様子だったのは、もしかしてこうやってうなされるせいなの?
「……アリー…?」
小さく名を呼ばれて我に返った。
「大丈夫よ、ダン」
見つめながらゆっくり手を伸ばして、ダンの頭を胸に抱く。
「大丈夫。あなたはひとりじゃない」
言い聞かせるように呟くと、しがみつくようにダンが抱きついてきた。
少し落ち着くまで抱え込んだ頭撫でて。やっと力の抜けたダンを仰向けにして上に乗る。
こんな方法でしか慰められなくてごめんなさい。
そう思いながら、ダンにキスをする。
しばらくされるがままだったダンだけど、そのうちちゃんと応えてくれた。
また眠ったダンがうなされて起きて。その度に落ち着かせる為に抱かれて。
繰り返すうちに眠る時間が長くなり、明け方にはようやくうなされなくなった。
穏やかな顔で眠るダン。
ロクに寝てないと気付いていたけど、こんなに追い詰められていたとは思ってなかった。
もう大丈夫かと思ったのに。
ジェットを亡くした傷は、私の想像以上に深かったのだと痛感した。
今はこうして眠れているけれど、もううなされないわけじゃない。
とにかく今はダンに元の生活に戻ってもらうのが先決。私のことで煩わせている場合じゃないと心に決める。
期待しかけた未来とすっかり戻ってしまったダンへの想いを共に押し込めて。
大丈夫。
一度諦めた想いだもの。今度もきっと忘れられる。
一晩だけでもダンに抱かれて愛される、そんな夢を見させてもらって。
それでもう、幸せだと思えるから。
目が覚めたダンにお茶を淹れさせてと言って、寝室に一枚だけある服を掴んで部屋を出た。
態度に出すとダンが気にするだろうから、何でもないことのように出てきたけど。寝室の扉を閉めてから、恥ずかしさにうずくまる。
急いで服を着て、脱いだままのダンの服を畳んで。お茶を淹れているうちに着替えたダンも出てきた。
ふたりでテーブルについてお茶を飲む。
ダンは視線を落として何か考え込んでいた。そのうち顔を上げたダンと視線が合って。謝られそうな気がしたから、先に私が話しかける。
お腹がすいたと言い訳して、ダンの前にもククルのお菓子を置いた。
はっとした顔をしてから、ゆっくりと食べるダン。
ククルの気持ちが伝わってるといいんだけど。
片付けはすると言うダンは、昨日ここへ来たときよりもすっきりとした顔をしてるから。
まだ懸念はあるけど、少しは元気になったかしらね。
そう思い、今日はこれで帰ることにする。ダンは送ると言ってくれたけど断った。
帰り際にギルドとライナスに行くように念を押しておいたけど、ちゃんと行ってくれるかしら…?
どうしても心配で、その日の午後にもう一度ダンの部屋を訪ねたけど留守で。
次の日も、その次の日も、ダンは部屋にいなかった。
次の日にようやくダンに会えて。少し疲れた顔をしていたけど、当たり前のように招き入れてくれた。
ふたりでお茶を飲みながら、ギルドとライナスに行っていたことを話してくれたダン。
「…アリーの言う通りだった」
怒られてきた、と嬉しそうに笑うその顔に、ようやく皆の気持ちが伝わったのだと安心した。
しばらくは落ちてしまった体力を取り戻す為に本部で訓練をすると聞いたから、数日置きに様子を見に行くことにした。
食事を作って、一緒に食べて。お茶を飲みながら話をして。
煩わせる気はないから、気持ちは隠して取り繕う。
もしまたダンが温もりを求めるなら、いつだってどれだけだって応えるつもりでいたけど、ダンから私に触れてくることはなかった。
ダンとふたりの穏やかな時間に幸せを感じる一方で、やっぱりあの日愛されたと思ったのは勘違いだったのかと思うようになった。
ダンがもう立ち直ったなら、私がここに来る必要はないのかもしれない。
そんなことを考えながらも、でも会いたくて。何も言われないことをいいことに、ダンに会いに来続けた。
もしかしたらそのうちにダンが絆されてくれるかもしれない、なんて。
そんな私の甘い期待は長く続かなかった。
私にしては体調が悪いと思うようになって。
そのうちに、自分が妊娠しているのだと気付いた。
ダンに知られると絶対に責任を取ると言われることはわかってた。
間違いなくダンは、私もこどもも大切にしてくれる。
でもそれは私を愛しているからじゃなくて。その責任があるから。
そんな後付けの愛なんていらない。
そんな責任にダンを縛りたくない。
だから気付かれる前に。
これで最後だと思って会いに行った。
その日もいつものように迎え入れてくれたダン。
すっかり体力も戻って。やつれてた身体も元のように逞しくなった。
本当はまだ少し心配だけど。ダンが私を求めないのなら、もう私にできることはない。
それに、ギルドに戻ったダンはもうひとりじゃないものね。
私がいなくても大丈夫。
考え込んでいるのを気付かれて、大丈夫かと何度か聞かれた。
本当に優しくて、まっすぐで。だからこそ不器用で。
寡黙で言葉が足りないくせに、急にこっちが恥ずかしくなるようなことを真顔で言うところも。いつも周りを気遣ってばかりいるところも。
全部、大好きだった。
いつものように過ごして、帰り際。
気を付けて、と言ってくれるダンに微笑んで告げた。
「もう私がいなくても大丈夫ね」
ダンは呆然としていたけど、反応を待たずに背を向ける。
引き止められなかったことをほっとする反面悲しくて。
追いかけてきてほしいと思う気持ちは、涙と一緒に零れ落ちた。
誰にも気付かれないようにいられればよかったんだけど、ひどくなる悪阻にすぐに家族にばれてしまった。
両親にもおじいちゃんにもロイにも相手は誰なのかとしつこく聞かれたけど、絶対に話さなかった。
ギスギスする家族が悲しかったけど、ダンのことはどうしても話せない。
悪阻は治まらず、動くことも食べることもままならなくなった私に、お母さんとロイは折れてくれた。
お父さんは口も利いてくれなくなって。おじいちゃんは相手のことを話すまで来ないと言って顔を見せなくなった。
一日のほとんどをベッドで過ごしながら、ごめんなさいと何度も思う。
私の世話をするから、お父さんとお母さんたちまでギクシャクしてることはわかってた。
仲のよかったふたりなのに。私のせいで、今はあまり話もしてない。
家族の仲を壊してしまったことは本当に悲しい。
でも。ダンには知られたくないの。
ダンのこれからに私はいらないし、責任を取るなんて言われたくもない。
ダンの重荷になるのは耐えられない。
だから、認めてもらえなくていい。
授かったこの子とふたりで生きていけたらそれでいい。
わがままな娘でごめんなさい。
家族を悲しませても。
私は自分の気持ちを貫きたいの。
部屋の扉が叩かれる。
「具合、どう?」
様子を見に来てくれたロイに、大丈夫だと返す。お母さんが店に出ている間は、こうしてロイが頻繁に顔を出してくれていた。
心配そうに私を見てからロイが少し眉を下げる。
「……いつまで黙ってるつもり?」
何が言いたいのかはわかっていたけど。
「何のこと?」
気付かない振りをする私に、ロイは溜息をついた。
「何でもない。ちょっと出るけど、すぐ戻るから」
そう言ってロイは部屋を出ていった。
私が誰を好きだったかも、諦めの悪さも、頑ななところも知り尽くしているロイ。最初は気付いてなかったんだろうけど、今は多分、相手はダンじゃないかと疑われてる。
好きな相手にしか身体を許したりしないし、その辺の男に組み伏せられる私じゃない。可能性があるのはダンと、あとはデュークくらいだと、考えればすぐにわかるものね。
でもロイは、私が望まないことはしないから、勝手に誰かに話したりはしない。
黙っているのはロイだって辛いだろうけど。
巻き込んでごめんね、ロイ。
部屋の前に人の気配がしたのは、それからしばらくあとのこと。
ロイ程気配に聡いわけじゃないけど、さすがにわかる。
ロイと一緒にダンが来てる。
ロイはダンが来たことに気付いてたからあんなことを言ったのね。
ロイは離れていったけど、ダンは残ってて。扉を叩かれたけど返事をしなかった。
諦めて帰ってくれればいい。
そう思うけど、すぐに扉は開けられた。
私を見て驚いた顔をするダン。
だいぶ痩せたもの。当たり前よね。
ダンはダンで両頬が少し赤くなってて。多分ロイに殴られたんだろうけど。
「…何しに来たの?」
久し振りのダンの姿が本当に嬉しい。
元気そうでよかった。
そんな気持ちを覆い隠して。なるべく冷たく突き離す。
「見ての通りの体調だから、早く帰ってほしいんだけど」
「気付かなくてすまなかった」
開口一番、そう謝られた。
ざわりと胸が荒立つ。
「……何のこと?」
謝られたくなんかないのに。
だから会わずにいたのに。
「…俺の子、なんだろう」
認めるわけにはいかない。
違うと言い張るしかない。
―――でも、それが嫌だから。ダンの子じゃないなんて言いたくなかったから。だから知られずにいたかったのに。
お腹のこどもに謝りながら、何度も違うと否定する。
もう帰ってと言いかけた、そのとき。
「俺の子じゃなくてもいい。俺の子として産んでくれ」
まっすぐ私を見つめたまま、ダンがそう告げた。
何を言われたのかわからなかった。
ダンの子じゃないってあんなに言ったのに。
そんなに責任を取りたいの?
それとも私を憐れんでるの?
ダンはそんな人じゃないって、本当はわかってるけど。
バラバラの家族。思い通りに動かない身体。
手の届かない、愛しい人。
辛くて。苦しくて。
優しい言葉も素直な気持ちで受け取れない。
こんな自分が本当に嫌。
これ以上ダンにキツい態度を取って幻滅されたくない。
だからもう、何も言わないでほしい。
「……な、に、言って…」
そう思いながら、やっとの思いで呟いた私に。
「愛しているんだ」
ためらいもせず、ダンが言い切った。
……今、何て?
聞こえた言葉を疑いながらダンを見る。
ダンの眼差しは真剣で。もちろんからかうようなことを言う人じゃないこともわかってる。
だけど、待って?
気持ちが全然追いつかない。
ダンに会えて嬉しいのに喜べなくて。棘のある言い方しかできない自分が嫌で。本当のことを言えないことが悲しくて。
会ったら会ったでこんなに苦しいのに。
でも、目の前にダンがいることが、やっぱり幸せで。
こんなごちゃまぜの状態の私に、ダンの一言は、とても信じられなくて。
本当に?
聞き返せずにいる私に近寄って、ダンが手を取った。
「俺はアリーを愛している。こんな俺でよければ、これからは俺にふたりを守らせてほしい」
ふたり?
ダンを見て、握られた手を見て。またダンを見上げて。
私と、この子。
ふたりを守るって、言ってくれるの?
堪えきれずに涙が零れる。
家族をバラバラにしてしまった私は、この子とふたりで生きていく覚悟すらしていたのに。
泣き出した私に、ダンが優しく名を呼んでくれる。
「……どうして…」
私のことを愛しているというのなら。
「…どうして、あれから一度も手を出してくれなかったの……」
手を握り返すと、謝りながら抱きしめてくれたダンに。
もう私は必要ないのだと思ったこと。
責任なんか取らなくていいから私を好きになってほしかったこと。
泣きながらダンを抱きしめ返してそんなことを訴える。
言いたいことを言うだけ言ってあとは泣くだけの私に、ダンは伝えるのが遅くなってすまなかったと謝って。
「…俺はアリーより十七も年上で。そんな俺が、と、そう思っていた」
自分の中の葛藤を話してくれた。
ダンが年の差を気にしてたなんて、全然気付いてなかった。
「そうやって思ううちに、俺が何か言うとこうして来てもくれなくなるかもしれないと不安になって。関係を変えることが怖くなった」
私を抱きしめる手に力が籠もる。
「…アリーに気持ちを伝えても、応えてもらえる自信がなかった」
淡々と話したダンは腕の中の私を確かめるように、そのまましばらく抱きしめてくれていた。
私もダンの胸に頭を預けて、しっかり寄り添う。
ずっとずっと私が焦がれたこの人は、私の気持ちに気付きもせずに、自信がないだなんて。
「…ばかね」
そう言うと、ダンは笑った。
本当にばかな人。
そんなあなたの気持ちを汲めなかった私も。本当に、ばかだった。
私が泣きやんだことに気付いたダンが、私を離して涙を拭ってくれた。
見つめ合い、キスをする。
ダンが私を愛してくれて。私も自分に素直になって。初めてのキス。
また泣いてしまいそうなくらい嬉しい。
少し照れたような顔をしてから、ダンがまっすぐに私を見つめた。
「…俺と、一緒になってくれないか?」
向けられる優しい眼差し。もちろん答えは決まってる。
「ええ。喜んで」
私の返事なんてわかってるはずなのに、それでもダンは嬉しそうに私を抱きしめてくれた。
ダンを抱きしめ返しながら、これからのことを考える。
私とダンのことは、きっと簡単には許してもらえない。
だから。乗り越える為の力がほしかった。
「…ねぇ、ダン。お願いがあるの」
「何だ…?」
「抱いてくれない?」
耳元で囁いた私に、ダンが肩を掴んで距離を取る。
「何言って…」
本当に困った顔のダン。
「私のことを愛してくれてるあなたに。ちゃんと抱かれたいの」
あの日あなたに抱かれた私は、ただ女の身体で在ろうとした。
あなたを受け入れるだけで、何も返せなかったから。
「私も、あなたを抱きたい」
私からも。あなたを愛しているんだって。そう伝えたい。
私たちはお互い愛し合っているんだって。そう思えれば、この先もきっと乗り越えられるから。
ものすごくうろたえた顔で、こどもが、と心配するダン。
いろんな表情を見せてもらえることを嬉しく思いながら、あなたの子だからそんなにヤワじゃないと言うと。
驚いたあと、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
無理をするなと何度も言いながら、それでもダンは受け入れてくれた。
すっかり体格の戻ったダンに比べて、悪阻で痩せた自分の身体がみすぼらしく思えて。
抱き心地が悪いだろうと苦笑する私に、ダンは本当に不思議そうな顔をした。
「惚れた女を抱くのに、最高以外の何があるんだ?」
当たり前のように、そんなことをさらっと言うから。
恥ずかしくて顔を見れない。
目を逸らすと笑われて。拗ねて何と聞いたらかわいいと思っただけだと返されて。
私のことをかわいいだなんて言ってくれる人はほとんどいないのに。それをほかでもないダンから言われたことが、もう本当に嬉しくて。
この人の前なら、私は私を装わなくていい。
外見通りの私も、内面の私も、ダンならちゃんと受け止めてくれる。
私はようやく、私でいられる場所を見つけた。
照れる私の頬にキスをして、抱きしめてくれるダン。
ふたりでベッドに横たわり、寄り添って。
労るように私に触れるダンに、私も精一杯の愛を返した。
「…アリーは以前から俺のことを好いてくれていたのか?」
ちょっと疲れてしまったから、ベッドに並んで座るダンに寄りかからせてもらっていたら、不意にそう聞かれた。
ダンでもそんなことを気にするのかと、少し意外に思いながら。好きでもない男に身体を許したりしないと答えると、何だか嬉しそうな顔をして。
続けて、いつからかと聞かれた。
初めてダンを見た日からなのか、ライナスで再会してからなのか。そんなこと、私にもわからない。
初めから気になって。いつまでも心にいて。ずっと、忘れることができなかった。
だから、こう答えておくことにする。
「…ダンが思ってるより、もっとずっと前からよ」
どこかきょとんとした顔で私を見返すダンに笑いながら。
この先何があっても、私はもうあなたへの想いを諦めたりしない。
だから、これからもずっと。
私のことを愛してほしいと。
そう、願った。
読んでいただいてありがとうございました。
『その温もりを』はダン視点の同一話になります。
『丘の上』をお読みの皆さまへ。
アリー視点の後日譚です。時期は三八七年動の月の中旬(初旬と書いていましたが、中旬に変更しました)から、同年実の月の末頃の話です。
アリーとダンの手合わせ回『/本当の自分』に出ていた案内役の警邏隊員がデュークです。
まだゼクスとジャンの許しを得ていないのですが、これ以上は『丘の上』を読んでいない前提では書きづらく。できればまた短編を書ければと思います。