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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
五章 少女、寒桜を見る
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17.アリス

ちょっと流血気味













 大丈夫のはずなんか、なかった。

 気づけば城のアリスの部屋で、どうやって帰ってこられたのだろうと考える前に、後ろから首元に食らいつかれた。

 いつもの痛みを緩和する魔術もなく、まともに血肉をすすられたが、アリスはそれを割れるのではないかというほど奥歯を噛みしめ、耐えた。喰われている部分が耳に近いため、咀嚼音がダイレクトに耳に入ってくる。

 肩を、肌を血が滑っていくのがわかる。


「っ、」


 息を吐くことで痛みを抑えようとするが、うまくいかず息が吸えない。膝が折れる。その拍子に傷がエトヴァスの牙でえぐれた気がした。

 無意識で首元の傷を庇うように抑えるが、手で抑えれば当然酷く痛い。手の隙間から血が溢れる。

 それでもアリスはエトヴァスを見上げた。

 暗い部屋の中でもわかるほど明るい、金色の髪。翡翠の瞳はいつも平坦なのに、今はとても冷たい。それなのに、熱を帯びている。


「痛いだろう?」


 前にエトヴァスは人間と魔族で痛点の数が違うと口にしていた。

 人間の痛みなど彼にはわかりっこないのに、エトヴァスはそう問いかけてくる。つまり彼はアリスに“痛くしている”のだ。


「う、うん、痛い、ね」


 声は酷く震えていた。

 呼吸が整えられない。杖はエトヴァスに預けたので魔術で痛みを緩和することはできない。ましてや魔術に集中できないほどの痛みだ。どうせ杖があってもなにもできなかっただろう。

奥歯を噛みしめていなければ、泣き叫びたくなるほどの痛み。それでもアリスは眉間に皺を寄せ、こらえる。だがそれが気に食わなかったのだろう。

 乱暴に押され、うしろむきに倒れる。絨毯は柔らかだったが、衝撃が肩に響いてだめだった。


「っ」

 

 これ以上ないほど自分が険しい顔をしているとわかる。それでもアリスはエトヴァスを見上げる。彼はアリスにまたがると、アリスが傷を抑えていた左手を取った。


「まったく、泣きもしないのか?」


平坦な声だった。

左手についた血を舌でなめ取られ、そのまま彼が自分の上にのし掛かってきて、両手を絨毯の上に押さえつけられる。どうせ抵抗なんてしてもねじ伏せられて終わりだと知っているから、押さえつけなくても抵抗などしないのに、身動きひとつできないほどのしかかられている。



「っ、」


 絨毯に身を横たえるアリスの上に跨がったエトヴァスが、先ほどの右首元のかじりついた痕にまた牙を立てた。体がはねてびくともしない彼の体にあたる。奥歯を噛みしめ、悲鳴をこらえる。ざっくりいかれるたびに体が勝手に跳ねて、痛みと熱が宿る。

 やられた傷をさらに抉られるというのは本当に痛い。

 魔族なので痛みなどたいしてわかりもしないのに、本当に人間をよく知っていると感心してしまう。

 視界が涙でぼやける。

 

「おまえは存外我慢強いんだな」


 感心したように言われるが、声音は平坦だ。恐らく褒められてはいない。

涙が血のにおいのする舌に拭われていく。かわりに戯れるように、エトヴァスの指が首元の傷をえぐった。傷の痛みがアリスを現実に引き戻す。それなのに失血のせいか、頭がぼうっとしてくる。


「何か言い訳はないのか?」

「な、ない、よ。・・・エトヴァスの、いうこと、きかなかったから」


 アリスだって何故こうなったのか、わかっている。

 その聞き分けの良さが、気に入らなかったのだろう。エトヴァスが食らいついていた首元から口を離し、体を起こしてちらりと自分が握っているアリスの左手首を見た。それを軽く掴み上げる。


「美味しそうだな」


 柔らかに肉のついた二の腕、吸い寄せられるように彼の薄い唇が寄せられる。


「ひっ、」


 悲鳴が勝手に口から漏れた。


「嫌なら、二度としないと誓え」


 低い声が一方的に要求を突きつける。

 多分、痛みを与えられた時点でアリスは泣いて許しを請うべきだったのだろう。だがアリスはできない。できないのだ。

アリスは首を振る。ふったつもりが痛みのあまり呻いただけだったが、それでも意志は伝わったらしく、エトヴァスが眉を寄せたのがわかった。


「二度と俺以外情はかけないと誓え。そうすれば、許してやる」


もう一度、はっきり要求がつきつけられる。

 これからされることを考えれば、みっともなく泣き叫んで、許しを請うてしまいたい。だがそんなことをしても、どうせ意味なんてない。そんな約束、守れっこない。

それがわかっているから、アリスは痛みのあまり開いてしまった口を閉じる。奥歯を噛みしめ、これ以上ないほどきつく目を閉じる。

 腕を落とされるよりはましだと思うしかないと、覚悟を決める。

 エトヴァスが、動く気配がした。


「っ」


 金槌を打ち付けられるような、一瞬痛覚が消滅するような熱が襲いかかり、すぐに痛みが来る。かわりにだんだん首が痛いのか、手が痛いのか、わからなくなってくる。

 うっすら目を開ければ、目の前に血で口元を汚したエトヴァスがそれを自分の袖で拭っていた。


「俺はどうしたらこの気分が晴れるんだ?おまえを殺せば晴れるのか?」


 莫大な魔力をもつアリスの血肉は、本来エトヴァスを満足させるはずだ。だが、これほど喰らってもいまだに彼は満足できないらしい。

頭が徐々にぼうっとしてきている。首の傷からも腕の傷からも血が止まっていない。

 だが返事しなかったのがいけなかったようだ。


「っ!」

「まだ気絶するなよ」


 容赦なく指で腕の傷が抉られる。痛みで頭がクリアになる。だがそれもすぐに限界が来るだろう。頭が揺れているような気もする。


「何を考えてる」


 涙で濡れた頬を大きな手が撫でていく。

 痛みと熱。そのなかで彼の体温の低い手が頬を撫でていく感触がどこかで望ましいもののように感ぜられた。この手が、痛みを与えるというのに。


「同情するなと言ったはずだ。俺の言うことより他人を優先して楽しいか」

「・・・」


 言われた。ヘルブリンディたちに情をかけるなと。でもアリスはエトヴァスの忠告を無視した。

 エトヴァスはもしかするとアリスがヘルブリンディとその息子を庇うともう予想していたのかも知れない。そしてあれはきっと、容赦なく彼らを殺すという、意志表示だった。

 わかっていた。でもアリスは、あの人間の妃の悲しそうな笑みを、息子とヘルブリンディにかけた感情をなかったものにはしたくなかった。

 人間など短い人生だ。

 魔族たちはきっと、百年たっても変わらない。アリスが死んであとかたもなくなっても、彼らは生き続ける。そこにアリスはいない。まるで自分だけが取り残されるような感覚。それでも、ヘルブリンディの人間の妃は子供という意味のあるものを残そうとした。

 ヘルブリンディを、そして息子を守ろうとした。

 アリスには、そんなものありはしない。きっと死んでも、エトヴァスに喰われて終わりだ。そんな自分は彼女の息子を守りたいという尊い願いに敵うほどの価値のある存在なのだろうか。


「俺はおまえを何より優先してるはずだ。なのにおまえは俺の言うことを無視する」


頭のなかでエトヴァスの言葉が回る。彼の言葉は正しい。でも間違っている。


「・・・わ、わかんな、よ」


 頭がもう、うまく働かない。


「わたし、は、エトヴァスの食糧で、しょう?だから、エトヴァスは、わたしを、ゆ、優先するんでしょう?もう、わたしのからだは、あげてる」


アリスはエトヴァスの食糧だ。そしてエトヴァスはアリスが快く血肉を差し出してくれるように、アリスを甘やかし、ほかの生きものより優先していたはずだ。

だから、アリスはもう自分の体という対価をさしだしてる。


「な、なんで、エトヴァスは、わたしの気持ちを、じ、じゆうにしようとするの?」


 へんだと思う。誰より自分を優先しろというのは、おかしい。

 仮にこれが「その身を危険にさらすな」と怒られるならわかる。でも、彼が怒っているのは、アリスが「俺の言うことより他人を優先」したことだ。そう、彼はアリスの情を意のままにしようとしている。

 そして意のままになるように誓えと言っている。


「きもち、は、勝手に出てくるもので、変えられないの」


 同情するななど、無理だ。

 ヘルブリンディの人間の妃に対する同情も哀れみも、ヘルブリンディの息子を助けたいと思ったその感情を、アリスはエトヴァスの言うことによって押さえ込むことはできない。

 魔族は食欲や性欲を制御できない。同じように人間は感情を、ましてや情をかけるという行為を制御できない。

 だが、エトヴァスの眉間に皺が寄って、さきほどより険しい表情になった。


「わ、たしが、あげられるのは、エトヴァスが好きだって、一緒に、いたいって、気持ちだけ。気持ちの、ぜ、んぶは、むりなの」

「意味がわからん。俺はおまえを優先している」

「・・・むり、なんだ、よ」


 アリスはそう言いながら意識がぼやけるのを感じた。うまく考えることが出来ない。

 自分が何を言っているのか、どんな表情をしているのか、よくわからない。現実が遠い。だが、また今度は首元の傷を抉られた。


「っ!」

「調子に乗るなよ」


 平坦ではない、どこまでも冷たい、低い声が響く。


「おまえは、俺に生かされてる。おまえに選択権はない」


 アリスは、エトヴァスに生かされている。奪われ、搾取される存在だ。だがそんなこと、いまさら言われなくともわかっている。


「う、うん、し、しって」


知ってる。そんなこととっくに。でも無理なものは無理なのだ。

 きっとエトヴァスはアリスの先ほど言ったことが理解できなかったのだろう。だが言葉を尽くすことすら、アリスはもう限界だ。どれほど傷を抉られ、起こされても、だんだん限界が近づいている。


「なら覚悟もできているだろう」


 どのくらい長い夜になるのだろうか。アリスはそれを覚悟し、目を閉じた。


『大丈夫、大丈夫だ。ビューレイストは俺よりずっと賢い』


 アリスはその言葉を信じるしかなかった。



・エトヴァスさんにとっての一つ目のターニングポイント

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