15.トール
トールはさきほどからずっと、頭をまわっている言葉があった。
アリスはトイレから戻ってこない。エトヴァスは出て行ってから戻ってこない。ふたりはヘルブリンディの本体と会っているのかも知れないが、その様子は魔力探知などの手段にたけていないトールには何もわからない。
ただアリスがトイレに行く前に耳打ちした言葉がぐるぐると頭のなかでまわる。
『ねえ、トールさんは、ヘルブリンディの大事なものを拾ったら、守ってくれる?』
それにトールはわからないが、もちろんだと答えた。
『じゃあ、わたし、全力で拾うね』
どういう意味だったんだろう。
アリスはトイレに行ったというのに、あれから戻ってこない。エトヴァスもだ。彼はヘルブリンディがアリスを狙っていて、だから殺すみたいなことを言っていた。そして同時に、エトヴァスはアリスも戦犯だと言っていた。
それがどういう意味なのか、トールにはまったくわからない。だが、頭のなかでアリスの言葉がずっとまわる。
トールはあまり賢くない。だから考えるのは苦手だ。けれど考えなければ、考えなかったから自分はヘルブリンディを失った。考えないといけない。でも考えるのは苦手で、考えが続かない。
トールは頭を抱え、そして隣にあるソファーで座っている男に目を向けた。
大柄で赤毛に若草色の瞳をしている自分とは異なり、小柄で細身で人形のように整った顔をした、白銀の髪に琥珀色の瞳の自分の異母弟。トールの父親オーディンと、一番寵愛された人間の妃との息子。
バルドルは、頭が良い。それは魔族の将軍のなかでも有名な話だった。
「・・・なあ、バルドル」
「なんだい?」
バルドルが琥珀色の瞳をこちらに向けてくる。
安易な方法だというのはわかっているし、彼が自分を好んでいないことも知っている。過去の因縁を考えれば好みようもない。だが、彼はきっとエトヴァスに匹敵するくらい頭が良い。
だからトールは素直に問うた。
「あのさぁ、俺馬鹿だからわかんねぇんだけど、アリスにさ、さっきヘルブリンディの大事なものを拾ったら、守ってくれるかって聞かれたんだ」
「・・・」
「どういう意味だと思う?」
バルドルがその細い眉を寄せる。
「君は何て答えたんだい?」
「もちろんって答えた。だって、もしヘルブリンディのことでできる事があったら、俺何でもしたいし」
それはトールの本心からの言葉だ。するとバルドルは訝しげに眉を寄せ、また質問をしてきた。
「・・・アリスは他に何か言ってた?」
「全力で拾うって言ってた」
アリスは、全力で拾うと言った。そう、覚悟を決めた目で言った。それがどういう意味だったのか、トールにはわからない。だがあの目にこたえたいと素直に思う。だから素直に聞く。
「・・・アリスの魔力探知は精密だが、大事なものか・・・」
バルドルは腕を組み、少し考え込んだ。そして顔を上げた。何かに気づいたらしい。
「そういうことか。まずいな。アリスとエトヴァスはもう追えない」
バルドルが額を抑え、まずったなと口にした。
「そりゃそうだよ。アリスが理由もなくエトヴァスに逆らうはずがない・・・僕がアリスならトールの領地だ。ただエトヴァス相手ではうまくいく可能性は低いし、怒りも買う。でもシヴには先に連絡すべきか?」
「ど、どうしたんだ?」
一気に話し出したバルドルに、トールは戸惑う。
「ついて行っておくべきだった。もうこっちが焦っても仕方がないし、できることは少ないな・・・、」
バルドルは眉を寄せたまま焦る自分を落ち着けるように静かに息を吐き、トールに視線を向けてきた。
「どういうことだよ?」
「・・・多分、アリスは、ヘルブリンディの大事なものを助けたがってる」
「・・・なんだよそれ」
「多分、・・・妃は死んでいるから、子供・・・子供だろうね」
「子供ぉ?」
トールは彼の言葉を反芻し、首を傾げる。
彼には子供はいなかったはずだ。妊娠中の妃は殺されたと聞いている。子供とはどういうことなのだろうか。
ただバルドルは恐らく、ヘルブリンディの大事なものは妃か子供で、三百年もの時を人間の妃が生きているはずはないと判断し、子供と考えた。
そして、バルドルはトールの気づいていないことを理解していた。
「アリスを狙ってる魔族は、ふたりだ」
「え?」
「それならすべてのつじつまが合う。飢えたヘルブリンディと、その子供。ふたりがアリスを食糧にしたいと思ってる」
「え?マジで?エトヴァス怒るに決まってんじゃん」
アリスはエトヴァスの食糧であり、妃だ。
上位の魔族同士では他人の食糧に手を出せば、殺されても文句は言えない。そんなこと、将軍職にあるヘルブリンディもわかるはずだ。
「三百年も食べていないんだ。飢えた純血の魔族にはそんな判別はつかないよ。何を喰っても助かりっこないけど、息子はそれがわからないだろうね」
アリスは莫大な魔力を持っている。上位の魔族にとっては喉から手が出るほど美味しそうな食糧だ。ただし、三百年も食べていなければ、あれほどの魔力は体に毒だ。吸収できるほどの体が、恐らくもはやヘルブリンディにはない。
それでも彼がアリスを求めるのは、食欲という本能だからだ。そして恐らく混血の息子は、魔族の本能を理解していない。
「これは僕の予想だが、アリスはヘルブリンディの子供だけでも助けたいんだろう」
「でもさぁ、エトヴァスは許さなくね?」
自分の食糧に手を出した魔族など、殺すに決まっている。それが誰であろうと関係がない。そのくらい頭の悪いトールにもわかる。
だが、「だからだ」とバルドルは言った。
「だからアリスは、エトヴァスに逆っても、ヘルブリンディの子供を守ることに決めたんだ。道理でエトヴァスに従順なアリスが、エトヴァスに黙って行くわけだ」
「なんでだよ。他人だろ、関係ないし、利益なんかねぇじゃん。なんで助けるんだよ」
ヘルブリンディも、その子供も、アリスにしては赤の他人だ。なのに、何故彼女が子供を守る必要があるのか、トールにはどうしてもわからなかった。
ヘルブリンディとその息子はアリスを喰おうとしている。敵だ。
アリスはエトヴァスの食糧で、エトヴァスはアリスを大事にしている。食糧を奪おうとする相手を許せないというエトヴァスの考えは、魔族であれば当然理解できる。
そしてエトヴァスの決定に逆らうことは、食糧である彼女にとって非常に危険な行為だ。
所詮アリスはエトヴァスの気まぐれで生かされている存在で、逆らえば殺されるかも知れない。それなのにアリスがリスクを張るのは何故だろうか。
エトヴァスに逆らってまで他人を助けるアリスがトールは理解できず、首を横に振る。
だがバルドルは琥珀色の瞳をトールに向けた。その明るい色合いの瞳はバルドルが一番彼の母親だった人間の妃から受け継いだ、そっくりな部分だ。
色合いや形まで酷くよく似ている。
「僕の母親も、君を助けただろ」
関係ない。利益なんてない。それでもバルドルの母親は、自分を殺そうとした女の息子であり、息子の異母兄であるトールを助けた。夫であるオーディンの怒りを買うなどわかっていて、それでもそうした。
「なんでだよ。わかんねぇ、わかんねぇよ」
そう、そうなのだ。人間はいつもそうだ。そして、トールに言葉にならない、よくわからない感情を残して、消える。
「恐らく、アリスは人間の妃に同情したんだろうね」
バルドルは琥珀色の瞳を伏せ、寂しそうに言った。
同情、同情とは何なのか、トールは知らない。感じたこともない。トールにわかるのは、アリスがヘルブリンディの大事なものを守ろうと命を賭けたことだけだ。
アリスはもしかすると、あの結界の成り立ちをどこかで理解していたのかも知れない。
トールにはぼんやりしかわからないが、エトヴァスが最初に破った結界は、人間の妃がその命を賭けて張ったものだった。
彼女が命を賭けて守りたかったのが、きっと彼女とヘルブリンディの間に出来た子供だったのだろう。そしてその子供を守るために、彼女は命を賭けて誰も入れないような結界を張った。
ヘルブリンディは自分の妃に害をなしたように、自分の子供を殺すかも知れない魔族を皆殺しにし、安全な結界のなかで子供と三百年、飢えに耐えながら過ごした。もしかすると単純に、人間の妃を失い、悲しみのあまり魔力のある生きものが喉を通らなくなったのかも知れない。
だが、重要なのは、これからだ。
「・・・なぁ、俺にはなにができるんだ?」
トールは情けなく弟に問うしかなかった。
トールはバルドルの母親に庇ってもらったとき、なにもできなかった。そのまま彼女は死んでしまった。
今も多分、トールはエトヴァスに勝てない。そもそもほとんどまともな魔術を使えないトールには、アリスとエトヴァスを追うような能力がない。
なくさないと決めたのに、何もできることが思いつかない。トールは戦いしかしてこなくて、目の前の敵を打ち倒すことはできるけれど、それ以外何もできないのだ。
バルドルは少し考え、息を吐く。
「君の領地に行こう。ヘルブリンディと仲が良かった君の領地ならヘルブリンディの屋敷から君の領地までの転移の魔術のマーキングがあるだろう?」
「え?あ、あるけど」
「もしアリスがうまくやれば、ヘルブリンディの子供は助かる。それを受けいれるのは君の役目だ」
バルドルが端的にトールの役割を告げる。だがトールはバルドルの楽観的な言葉に疑問しかなかった。
「・・・無理じゃね?あいつが見逃す?」
トールはエトヴァスがそう簡単に隙を狙えるような相手でないことを、自分の本能で理解している。
トールは基本的に極力エトヴァスと戦うのを避けている。それは単純に彼と戦うには自分が不利すぎるとわかっているからだ。確かにエトヴァスはアリスには甘いように見える。だが、それはあくまで彼にとって興味がない事柄だけだ。
アリスはエトヴァスの食糧で、今回の行動は間違いなく食糧を守ろうとするエトヴァスの逆鱗に触れる。そんなことは馬鹿なトールでもわかっていた。
エトヴァスはアリスへの警告のためにも、少なくともヘルブリンディとその息子、どちらも彼女の目の前で殺すはずだ。彼は感情の起伏に乏しいが、頭がいいので感情の利用には非常に長けている。
そしてアリスを檻の中に閉じ込めるはずだ。
アリスがどれほど莫大な魔力を持とうが、魔術に才能があろうが、そんなことで千年の重みを覆すことなど出来ない。ましてや相手はあのエトヴァスだ。恐らく今の彼女では死ぬ気でもエトヴァスの足止めは出来ない。
「それにさ、アリスはぜってぇエトヴァス攻撃しねぇよ」
トールはその優れた勘でアリスがエトヴァスに依存しきっていることを見抜いていた。
恐らく彼女はエトヴァスを感情的なよすがにしている。その彼女がエトヴァスを攻撃するなどありえない。だから、あの甘さでエトヴァスに逆らったアリスの方が、トールはあり得ないと思う。
「・・・はっきり言うと、僕もそう思う」
バルドルが、同意見だと悲しげな顔をした。
「ましてや、息子が助かった方がアリスにとってはまずい」
ふたりを目の前で殺し、アリスが謝れば、アリスも精神的にこたえるだろうし、二度としようとは思わない。恐らくエトヴァスはそれで丸くおさめるだろう。だが、片方を逃がせば、それはアリスの勝利を意味する。
エトヴァスは何らかのかたちで、アリスの勝利をへし折らなくてはならなくなる。
「俺じゃ、エトヴァス相手はむりだぜ」
「君がエトヴァスを相手にする必要はないよ」
「なんでだよ。確かにエトヴァスはアリスを殺さねぇだろうさ。だけど、アリスを諫めるためになにするかわかんねぇじゃん。逃げた方がいい。でもあいつ相手じゃ・・・俺とシヴがまとめて頑張っても、無理だろ」
トールはじっとバルドルを見る。
トールではエトヴァス相手でアリスを守り切るのは不可能だ。ましてや今のエトヴァスならアリスを逃がすぐらいなら殺すだろう。そうなったとき、トールは絶対にアリスを守れない。そのとき必ずバルドルの力が必要になる。
エトヴァスは将軍である魔族のなかでも飛び抜けて強い。だがそれはバルドルも同じだ。エトヴァスに対抗するには、トールとシヴだけでは足りない。最低でもバルドルがいなければ、太刀打ちすらできないだろう。
トールは真剣だったが、バルドルはそれを困ったように笑う。
「そんな必要はない。アリスは、エトヴァスの傍を離れないよ」
「そんなの、ぜってーやばいじゃん」
「そうだね」
バルドルもトールもアリスはエトヴァスのもとはなれないという見解は一致している。だが、バルドルは悲しげに目を伏せる。
「それでも、人間は感情的な生きものだ。アリスは自分が今、ヘルブリンディの子供を庇わなければ後悔する気持ちに耐えられないから、エトヴァスの意向に逆らった。でも彼がいないと生きていけない。彼が大切だというのも、どちらも本当の気持ちだ」
「意味わかんねぇよ」
「人間は魔族ほど簡単に物事を天秤にかけて選ぶことができないんだよ。アリスがエトヴァスといたい気持ちは本当だから、アリスはそれを示すために必ず、どんなことをされてもエトヴァスの元に残る」
エトヴァスに逆らってでも、ヘルブリンディの子供を助けたいとアリスは思った。だがだからといってアリスはエトヴァスよりもヘルブリンディの子供が大事なわけではない。アリスはエトヴァスのもとにとどまる。
どれほど酷いことをされるとわかっていても、エトヴァスのもとに残るとバルドルは断言した。
「・・・でも、でもさ、またおまえの母ちゃんみたいになるんじゃねぇの!?」
トールは落ち着いたバルドルに、声を荒げてしまった。
ここで戦わなければまた、失うのではないだろうか。自分はまたなにもできないまま、バルドルの母親を失ったように、ヘルブリンディを失ったように、空虚感に震える日々がくるのではないだろうか。
「わからない」
バルドルは断言した。あまりに不明確な内容を口にしているのに、その声は不釣り合いな決然とした響きがあった。
「でも、でも」
「今、僕らがアリスのためにできることはない」
トールはその答えに納得できず、口を開いた。でも、ふと見下ろした異母弟の握りしめた手が小刻みに震えているのに気づき、奥歯をかんで黙り込むしかなかった。
母の悲劇に一番苦しんだのはバルドルだ。
そのバルドルが今の状況をこらえているのに、ただバルドルが母を失うきっかけになっただけのトールがなにも言うことはできない。
だから気持ちを落ち着けるために大きく、そして深く息を吐く。
「・・・エトヴァスは頭の良い奴だから」
「?」
「エトヴァスは頭の良い奴だから、そこまで馬鹿なまねはしねぇよ」
トールがそう口にすると、バルドルが顔を上げた。そして泣きそうに琥珀色の瞳を細めた。
「そうかな?」
声音はいつもどおり穏やかだった。だがそれが酷く頼りない気がして、トールは大きく頷く。
「そうだよ。あいつはオーディンなんかより、賢いに決まってんじゃん」
ある意味でバルドルの母を自殺に追い込んだのは、トールとバルドルの父親である魔王オーディンだ。ただ少なくともエトヴァスは彼よりは賢い。だから賢いエトヴァスが、バルドルの母親と同じ道をたどるほどアリスを追い詰めるとは限らない。
直感的に、トールはそう思った。そしてこの慰めは、なかなか的を射たものだったようだ。
「・・・まぁ、それはそうだね。エトヴァスはあの人よりは賢そうだ」
バルドルは顎に手を当てて少し考え、何故か酷く納得した顔をした。そして静かにソファーから腰を上げる。
「僕らは僕らの、できることをしようか」
「あぁ!」
トールもソファーから腰を上げた。弟が自分の領地まで送ってくれるだろうことを、トールはもう確信していた。
架橋のすごいところに他人目線を挟んでしまったので、小話
・このヘルブリンディの一件は、隣にあるバルドルとトールの領地の両方がヘルブリンディの領地から出てくる魔物に困っていた。そのため、当初バルドルは自発的にエトヴァスたちを迎えたりと協力したが、トールはよくわかっておらず、過去のゆえんでバルドルを避けたがっていたので逃げようとして妃で将軍のシヴにたたき出されている
・恐らく異母兄弟で座ってまともに会話をしたのは今回がほぼはじめて
・トール(1500歳)、バルドル(1000歳)は兄弟とはいえ年齢が離れすぎているため、幼い頃は父親のオーディンの城で数度顔をあわせた程度で関わりはありません。
・むしろエトヴァスとバルドルの方が数ヶ月違いで生まれた従兄弟同士のため、一緒に狩りに行かされた経歴があるくらいな距離感(ちなみにオーディンが安全のためにふたりで行かせた)
・バルドルさんは人形のように綺麗な人、トールさんは2メートルを超す大男で、根はよく似た人たち
そして次から多分、アリスさんの受難