14.アリス
アリスはバルドルが仕留めた鳥の魔物を領地に送るときに使っていた転送魔術を少し変え、自分が転移できる印を、先ほど桜の見える部屋に置いていった。エトヴァスが転移の魔術を使うとき、印の構造式を置いていくのを知っていたからだ。そしてそこから印を目印に転移した。
ここまではエトヴァスに邪魔されることなく上手くいったが、恐らく時間はそれほどない。
霧が揺れる。鏡がこちらをじっと見ていた。アリスは自分の白銀の杖を握りしめ、まとわりつくそれらに恐怖しながら、それでも抵抗しないようにぎゅっと目を閉じた。
しばらくすると、そこに現れたのは同じ、でも別の部屋だ。
檻のなかに男がいる。
髪は白髪で、ぼさぼさだ。体格は骨格こそもともと大きかったのだろうが今や骨ばかりで、かつての面影は見る影もない。ぼんやりとした瞳は飢えと狂気の狭間で濁っていて、アリスを見るとすぐに頭を抱え、飢えに耐えるように蹲ってしまった。
きっとその瞳の色を見なければ、アリスは誰かわからなかっただろう。
エトヴァスに似た、アリスが酷く見慣れた美しい翡翠の瞳。
「こんにちは、ヘルブリンディさん」
エトヴァスの弟だ。
夢のなかで人間の妃に嬉しそうに笑っていた男は、もはやぼろくずのような姿で、ただただその残った魔力が尽きるのを待っている。
「・・・飢えてる魔族の眼だね。わたしは、それをよく知ってる」
捕食者の、酷く飢えた衝動を宿す眼。エトヴァスがたまに衝動的にアリスを喰らうときに、そういう眼をする。そしてそういうとき、牙を深く立てられたり、肉を抉られたりするので、痛みを緩和する魔術があっても痛みを伴う。
エトヴァスはいつもアリスが負担にならないように気を遣っているが、それでも飢えたその瞬間だけは我を忘れる。
魔族の食欲とは、そういうものだ。だから、三百年の飢えなど耐えられるものではない。
「・・・ごめんね。君は食べられてもらわないとだめなんだ」
ヘルブリンディによく似た声が響き、アリスは背後を振り返る。その拍子にアリスの白銀の杖の上にある菱形の緑色の石についた銀色の房飾りがちりりと鳴った。
逃げられないようにだろう。
扉を背に、その青年はいた。かつてのヘルブリンディとそっくりの青年だった。短く柔らかな明るい金色の髪に、翡翠の瞳。目鼻立ちまでそっくりで、一瞬ヘルブリンディ本人かと思ったほどだ。
「そうすれば、父もきっと・・・」
多分、ヘルブリンディの、そして人間の妃の息子だろう。彼は縋るような声で、泣きそうな顔でアリスを見ている。
アリスは首を横に振った。
「・・・彼、いつ共食いしてもおかしくないよ」
魔族は魔力のある生物なら何を食べても美味しく感じる。だから共食いもする。むしろ三百年間、飢えながらも自分の息子にかじりつかなかったのは、彼の愛情と忍耐そのものだろう。
バルドルはもう何を喰っても手遅れだと言っていた。そしてアリスができるのはひとつだけだ。
「貴方は早くトールさんの領地に転移して」
「え?」
「もう話はついてる。たぶん、トールさんがどうにかしてくれるよ」
領地まで転移すれば、少なくともヘルブリンディの息子である彼は助かる。
トールの領地であれば彼の妃のシヴもいるはずだ。彼女もまた将軍であるためエトヴァスが本気にならない限りは、どうにか守ってくれるはずだ。そして恐らくアリスが残ればエトヴァスは本気でトールの領地まで追おうとはしない。
トールであればヘルブリンディの息子を丁重に扱うだろう。
「何を、それにそんな長距離の転移できないし、・・・何を言って」
彼の答えにアリスは俯き、ぐっと奥歯をかみしめる。
確かに、転移には印をつける必要がある。アリスはそれを寒桜を見に来たときにその部屋につけておいてトイレから転移したが、彼は恐らくヘルブリンディの領地から出たことがないだろう。アリスもさすがにヘルブリンディの息子をトールの領地に転移させるようなことはできない。
「・・・まずいな」
アリスは一生懸命考える。
最初から、ヘルブリンディと、もうひとりいることはわかっていた。
人が魔術を使うとき、構造式を使う。上位の魔族になるとこの構造式は自分の使いやすいようにいじってあり、人それぞれで癖がある。霧とヘルブリンディの幻影、このふたつの魔術の構造式は、異なるものだった。
そして夢を見た。ヘルブリンディの人間の妃の記憶だ。
彼女はお腹の子供を愛していると、外に出れば父親が守ってくれると言っていた。外でエトヴァスが破った結界はおそらく、彼女が命を賭けて張ったものだ。彼女はなんらかのかたちで子供を腹の外に出し、命と引き換えに強固な結界を張ったのだろう。
子供と、子供の父親だけが入れる結界を。
だから記憶を見たとき、すぐにふたつある構造式のうちひとつは息子のものであると気づいた。
「あなた、名前は?」
「・・・ケルン」
「私はアリス。時間がないの。早く方法を探さないと」
エトヴァスは、アリスを狙った魔族を絶対に許さない。前にもアリスを狙ったものは皆殺しにすると宣言されている。
エトヴァスにとって弟のヘルブリンディも、甥のケルンも、どうでも良い存在だろう。
「おい!僕はおまえを父さんに食べさせるって言ってるんだぞ!!」
ケルンは自分を怖がることもせずまったく違うことを話すアリスに、苛立っているようだった。だがそんな時間も惜しい。そう、そんな時間ないのだ。
「仮にその人にわたしを食べさせても、ふたりとも殺されるだけだよ」
「逃げるに決まって・・・」
「無理だよ。貴方はエトヴァスを、いや、魔族の将軍をなめすぎだよ」
アリスは痛いほど、エトヴァスの恐ろしさを知っている。
「わたしは将軍の食糧なんだよ・・・多分気づいてる。わたしは泳がせてもらってるだけ」
アリスはエトヴァスの同情するなという忠告を無視してここに来た。きっと怒っているだろう。怒っている彼にたいした利益もない、感情面だけでの交渉など無意味だ。ましてや「殺さないで」など、あり得ない話だと一蹴されるだろう。
アリスはケルンとの会話を打ち切り、ヘルブリンディに向き直る。
「・・・キルシェ」
ヘルブリンディの色をなくし、乾いた唇がその名前を口にする。エトヴァスと同じ翡翠の瞳には、飢えと狂気がゆらゆらしていた。
アリスは震える手で、ぎゅっと白銀の杖を握りしめる。
襲われるかもしれない。これは、恐ろしいことだとアリスもちゃんと理解している。感情の乏しい魔族の情をあてにして賭に出るなど無謀そのものだとアリスでもわかっている。だがトールの領地に転移できる方法がないなら、ヘルブリンディにどうにかしてもらうほかない。
「わたしはアリスだよ。貴方のお妃さまじゃない。エトヴァスの、貴方の兄、ビューレイストの妃だよ、」
ヘルブリンディには少なくともまだ、理性に縋っていてくれないと困る。
エトヴァスは絶対にアリスの行動に気づいている。泳がせているだけだ。だから、ヘルブリンディに少しでも理性が取り戻せなければ、ヘルブリンディとその息子は殺され、多分アリスはエトヴァスにこっぴどい叱責を受けるだけだ。
「・・・どれだけ後悔しても、どれだけ殺しても、ここにとどまって自分を責めても、時は戻せない」
この檻のなかで生き続けても、彼にとってはきっと苦痛なだけだ。そしてきっといつか、自分と人間の妃が命を賭けて守った大事なものすら、喰らってしまう。
「だから、思い出して」
アリスは危険だとわかっていながら、右手にエトヴァスがたまにする、記憶を共有する魔術の構造式を展開し、檻のなかにいる彼の手にいつ噛みつかれるかと恐怖に怯えながら、触れる。彼の妃が残した彼女の記憶をわたす。
人間の妃だった女性がどれほど彼を信じていたか、愛していたか、待っていたかをアリスは知っている。そして彼がどれほど人間の妃との別れを恐れていたのかも。
どうかその記憶が、僅かばかりでも正気に戻してくれることを願う。
アリスの手に、ぽたりと滴が落ちる。
「キルシェ・・・」
ヘルブリンディの翡翠の瞳から、涙がこぼれ落ちた。そこに、確かな理性の色が戻る。だからアリスは悲しみに浸る彼に追い打ちをかけるように、必死に呼びかけた。
「お願い、少しで良いから助けて。トールさんのところに転移できないなら、貴方の子供はわたしの大事な人に殺されちゃう!」
縋るように檻を握りしめる。
ケルンは転移はできないと言った。アリスは長距離の転送の魔術は知っているが、本来転移の魔術はそもそも知らない。自分で短距離だから転送の魔術をいじって自分にかけてここまでやってきたが、他人にかけるなど恐ろしくてできない。
アリスが訴えると、彼はアリスの「大事な人」が誰かを思い出したのだろう。はっとした表情で、まじまじとアリスを見下ろした。
「・・・そうか、俺がおまえを狙ったからか。息子も、同じだな」
声は擦れていたが、しっかりしている。
上位の魔族の間で、他人の食糧に手を出すのは万死に値する。ヘルブリンディはそれを重々承知していると同時に、同じ将軍であり、兄でもあるのだから、エトヴァスがどんな人物かはよく知っているだろう。
ヘルブリンディが一時的にでも正気に戻ったのを確認し、アリスはぎゅっと杖を握りしめる。
攻撃魔術の威力を圧縮し、ヘルブリンディの檻を破壊する。自分でやったことなのに緊張のあまりつばを飲みこんだ。
ヘルブリンディも弱り切っているとはいえ、将軍職にある魔族だ。
当然、幼いアリスと彼らの間の実力差は歴然だ。これがどれほど危険な行為か、アリスは理解していた。
「おまえ、こんなところまで来て、・・・相当酷い目に遭うぞ」
アリスの魔術で霧散した檻を見て、ヘルブリンディは力なくエトヴァスに似た翡翠の瞳を細め、アリスの未来を危ぶんだ。
アリスはエトヴァスの食糧だ。
そのアリスがエトヴァスに逆らうことがどれほどの危険をともなうのか、執着している側がどれほど怒るのか、ヘルブリンディは誰よりも知っている。
「覚悟は、してるよ」
アリスは無謀だとも理解していたが、震える手で白銀の杖を握りしめそう答えるしかなかった。
それでも迷いはない。きっとここで助けなければ、一生後悔する。寒桜の部屋で見た、淡い笑みの女性を思い出す。そして、迷いのなかった最期の彼女を思い出す。
そうしてアリスは自分を震い立たせるしかない。
「俺は、・・・おまえや、ビューレイストが殺してくれるならありがたいが」
「父さん!!」
ケルンが悲鳴のように悲痛な声を上げる。だが、ヘルブリンディは首を横に振った。すべてを理解し、諦めた顔だった。
「おまえはトールのところに行け。あいつなら助けてくれる」
「な、なんで、父さんがこいつを喰えば・・・」
「仮に食べたとしても、ビューレイストならどうにもならんよ」
「でも・・・」
「俺がおまえを喰う前に、行きなさい」
低くて優しい、本当に綺麗な澄んだ声だった。
アリスは杖を持っていない左手で、ぎゅっとシュミーズドレスの裾を握る。自分の血肉をあげれば、どうにかなるのだろうか。彼を生かしてあげたいという、浅はかな考えが頭のなかをよぎる。
だが、そんなことをすればエトヴァスは自分を丸のみにするだろう。
そう、エトヴァスはアリスを絶対に許さない。間違いなく殺される。言うことを聞かない、他人に自分を切り売りする信用できない食糧など、喰われて終いだ。
「アリス」
アリスの考えを諫めるように、ヘルブリンディから声がかかった。
「うん・・・わかってる。この体は、わたしのものじゃない」
彼のものだからこそ、生存が許されている。アリスは所詮、そういう命だ。アリスもよくわかっている。
「だから、わたしが自由に出来るのは、この気持ちだけだよ・・・。それもいつまでかはわからないけど、だから、」
早くと片手で白いドレスの裾を握り、せかす。
アリスの体はもうエトヴァスにあげると決めた。自由になるのはこの心だけ。でもこの心もどこまで彼を前に自由に出来るのか、わからない。
それにアリスはもう気づいていた。
エトヴァスは、以前とは違う。アリスに食糧としての価値だけを求めていた以前とは違う。間違いなく、アリスの心を独占することを望みはじめている。そうでなければ同情をするななどとは言わない。その身を危険にさらすなと言ったはずだ。
彼はアリスの情が自分だけに向けられることを望んでいる。だから、エトヴァスの忠告を無視したこの行動は危険だ。
「でも、わたしは助けたいって思ったんだ」
わかっている。全部わかっている。それがどれほど自分を危険にさらすか、エトヴァスどれほど怒らせるのか、想像すれば手が震える。
それでも、アリスは人間の妃キルシェの夢を見たとき、少しで良いから助けたいと思った。
きっと、アリスが助けられるのはうまくいって息子の方だけだ。こうして最期になるだろうふたりの別れを必死でせかしている。
それが本当に悲しく、申し訳なくなる。
「・・・俺はどうせ助からない、もう、緩慢に死ぬしかないんだよ」
ヘルブリンディは葛藤するアリスを気遣うように言った。
上位の魔族の魔力は莫大だ。それを維持するためには、常に大量の食事か、莫大な魔力を持つ生きものの血肉が必要になる。三百年も魔力のある生物をたいして食べていないヘルブリンディの飢えは、もうアリスでどうにかなるレベルではない。
むしろ弱り切った体にアリスほど莫大な魔力をもつ血肉を入れれば、その瞬間に死ぬ可能性が高い。それをヘルブリンディは理解しているようだった。
「そ、そんなことない!」
ヘルブリンディの息子は受けいれがたいのか叫び、アリスに掴みかかろうとする。だが、意外なことに、それからアリスを守ったのはヘルブリンディだった。
「なんで、なんでだよ!!」
ヘルブリンディの息子は首を横に振る。彼はまだ、状況をつかめていないのかもしれない。ただそれは危険だ。
「そんなこと言っている暇はないんだよ!」
アリスはケルンを諭す。
時間などない、一刻も早く彼はここを立ち去らねばならない。いつヘルブリンディが正気を失い、彼に食らいつくのか、エトヴァスがやってくるのかなどわからない。
話している時間など、本来ありはしないのだ。
それをアリスもヘルブリンディもわかっている。なのに、一番危険な彼がわかっていない。死にゆく父と満足いく別れをさせてやりたいとは思う。
でもそんな時間はない。
「貴方は早く、ここから行かなきゃいけないの!そうじゃないと」
「そうじゃないと、なんだ?」
低い声が、扉の方から響く。
平坦で、なんの感情も見えない、いつもならアリスが安心できる声。それが今は悪寒のようにアリスの体にゆっくりとしみこんでいく。
アリスは振り返る。そこにはいつもどおり悠然と、長身の男が立っていた。
・はじめての「喧嘩」のはじまり
・ヘルブリンディさんはトールさんみたく単純で本能的な人なので、本当は純血の魔族ではじめてまともに人間の妃に素直に情を傾け、でもいろいろな悪条件が重なり失敗してしまった人