13.バルドル
バルドルはアリスの後ろ姿がトイレの扉に消えていくのを眺め、倒した魔物を自領に送るのに、転送魔術を彼女の前でやって見せたことを少し後悔した。
本来、魔族と人間の魔術体系は違う。
だが魔族と人間の混血であるバルドルは、その両方が使える。そのため時々で自分の得意な方を使うのが常だった。転送の魔術はかつて必要だからと母に教えてもらったこともあり、人間の魔術を使うことが多い。
もちろん荷物を送る転送魔術と、人間を送る転移の魔術は少し違う。
だが、転送魔術と転移の魔術は構造式がよく似ている。少し入れかえれば、転移の魔術に変えることはできる。普通の十歳の少女がそんなことが出来るとは思わないが、アリスの魔術のセンスはどう考えても良すぎるのだ。
バルドルはたいした魔術ではないので転送の魔術の構造式を隠さなかった。アリスは多少転送の魔術の構造式が朧気でも人間の魔術で理解しやすかっただろうから、再現するのは難しくなかったのだろう。
バルドルもアリスがこんなことをしでかすなど考えたことがなく、攻撃関連の魔術ではないため、隠しを入れなかった。
アリスは比較的頭が良い上、一見するとエトヴァスに従順だ。なのに、何を考えているのだろう。
「不愉快」
エトヴァスはすぐにそう言って、近くにあったソファーにどさっと腰を下ろす。
「思い通りにならないと、不愉快で無性にぶち殺したくなるときがある」
バルドルはエトヴァスのその発言に目を丸くしてしまった。
その感情的な発言は彼らしくないものだった。
エトヴァスとバルドルは少し生まれた時期はエトヴァスの方が早いが、さほど年齢が変わらない。従兄弟同士なのでお互いによく知っているし、ともに千年を越える年月を生きてきた。同時期に、比較的早く将軍職にも就いた。
基本的なスタンスはあわないが特別争うこともなく、互いを警戒、観察だけしてきた。
バルドルから見てエトヴァスは非常に頭が良く、同時に感情の起伏の乏しい魔族のなかでも極めてその傾向が強く、怒りなど抱いたこともないと思っていたし、実際にそんなそぶりを見せたこともない。
冷静というともともと感情があり、それを沈めているように聞こえる。
だから彼を評するなら「平坦」だ。表情もほぼなく、合理性にもとづき何者にも興味なく、ただ平坦に生きる。それが彼だった。
だが今の彼は、バルドルから見ても怒りを感じているように見えた。
「・・・アリスの話?」
「そうだ」
バルドルが尋ねると、臆面もなく肯定してソファーに肘をつき、足を組む。
「人間と住んでいる頃に子供に対してそう思うことがあると聞いたことがあった。その時は、全然理解できなかったが、今は嫌になるほどわかるな」
エトヴァスが百年ほど前、食糧目当てで人間と十年ほど住んでいた話は、魔族の将軍の間では有名だ。
十年住んで、気長に要塞都市クイクルムの対魔族結界を分析していたから、彼は千年にわたって破れなかった結界を見事に破壊した。
だから彼は人間のことをよく知っている。
ただ、その人間の間の子供を「ぶち殺したくなる」という話は、少し違うだろう。
「それ、自分の子供の話だったんじゃない?でも友人とか、パートナーでも、たまにある話だよ」
バルドルは苦笑する。
人間は魔族よりもずっと丁寧に子育てをする生きものだ。だから向き合っている間に、言うことを聞かない子供に愛憎表裏一体となって「ぶち殺したくなる」こともあるのだろう。
だが好ましいと思っていても、相手の行為のすべてが気に入るわけではない。これは魔族同士、恋人同士など関係性が深くなればたまにあることだ。
ただエトヴァスは千年の間、妃も子供もいない。恋人がいた話も聞かない。彼はその表情と同じく驚くほど平坦に孤独に、千年の長い月日を歩んできた。
エトヴァスは将軍のなかで有数の魔族だ。
千年以上生きているし十二人の将軍のひとりでもあり、魔王を含めても間違いなくその実力は上から五本の指に入る。戦いを好む方ではないが、だからといって怯むこともない。そして一度戦えば緻密で、完成度の非常に高い、まさに卓越した魔術の腕を持っている。
なのに、彼は「感情」についてろくすっぽ知らない。否、知らないというのは語弊がある。
彼は客観的に「感情」を理解してはいる。想定できる。だが自分のものとして理解したことはないだろう。そもそも激しい感情を誰かに抱くのははじめてなのではないかとすら思う。
「忠告はしたんだが、言うことを聞かないとな。ぶち殺したくなるだろ」
低い声で唸るように言う。だがバルドルにはそれが相手をぶち殺すほどたいしたことのようには思えない。
「そう?まだ子供だよ。子供なら、人の忠告を聞かないなんて、よくあることだよ」
バルドルはアリスを単に子供だとしか思っていない。
子供が大人の言うことに逆らうなど、よくあることだ。子供は社会も知らなければ、情報の把握、精査の能力にも乏しい。正しいか間違っているかなどたいして認識できない。庇護者の言うこともたいして理解できていない。言うことを聞くのは「信じている」にすぎないのだ。
だから自分で失敗してみないと気づかないことも多い。
子供などそんなものだ。これはバルドル個人の見解ではなく、一般的な見解だろう。
しかしながらエトヴァスは長い時間を孤独にひとりで生きてきたため、意見のすりあわせなどしたことがない。
自分だけで情報を把握、精査し、メリットの高いものを合理的に選んできた。だからいま、バルドルが「よくあることだ」と言ったところで、納得できるはずもない。
「エトヴァス・・・おまえさぁ、めっちゃ機嫌悪くね?」
トールがいつもは無邪気な若草色の瞳を歪め、ソファーごとエトヴァスから離れようと腰を引く。
機嫌が悪い。それはそうだろう。
エトヴァスから放たれている空気は、どう考えても怒っているものだし、不機嫌だ。こちらが話しかけるのを躊躇うほどに。
だがバルドルはいまさらエトヴァスが怒っていようがいなかろうが、恐れる気持ちはない。
別に彼が腹いせにこちらを襲ってこないと考えているわけではない。ただ、そうなれば戦えば良いと思っているだけだ。
「トールに読める空気ってあったんだね」
「うっせぇよ。さすがにわかるわ」
笑ってトールに言うと、鈍い異母兄の唇の端がひくっと動いた。ただ彼の気持ちもわかる。
「まぁ、普通に驚きはするよね。エトヴァス、君が機嫌が悪いなんて同じ時期に生まれて千年は知っているけど、はじめて見たな」
バルドルは珍しく眉間に深い皺を寄せているエトヴァスに、笑ってしまった。
今までむかつくほど平坦に生きていた男が感情に振り回されるさまは、見ていて気分がいい。散々こちらは気を遣ってきたのだから、存分に苦しめば良いとすら思う。
だがきっとそんなバルドルの気持ちは、エトヴァスにはちっともわからないだろう。
「安心しろ。俺もアリスと過ごすようになってはじめて知った」
エトヴァスもはじめてのものだとあっさりと認める。
そこで素直に認められてしまうところが、バルドルから見れば羨ましく思うし、まだ浅い。彼はやっと不愉快や怒りといった感情を他者に向けるようになったばかりで、それを表に出すのが子供っぽいとか、大人では恥ずかしいから控えようとか、そう言った神経がないのだ。
その感情に対するつたなさを、バルドルは他人だから笑える。
「・・・俺はアリスを優先している。なのに、どうしてあれは俺を優先できないんだろうな」
エトヴァスの呟きには、相手が子供だという認識は一切ない。彼は子供が言うことを聞かないと単純に苛立っているのではなく、自分がアリスを一番に優先し、同時にアリスにとって一番に優先されることを望んでいる。
自分がそうするのだから、同じものを相手にも求める。
きっとエトヴァスはそれを正当な主張だと思っているだろう。だが、それは危険だとバルドルは静かに口を開く。
「ねえ、エトヴァス。人間はね、魔族ほど感情的に単純には生きられないんだよ」
バルドルは怒るエトヴァスを諫める。だがエトヴァスはバルドルにその翡翠の瞳を向け、「は?」と返してきた。
「俺はアリスを優先してる。あちらもそうすべきだろう」
「人間はそんなことできない。それがわからないなら、うちの馬鹿な父親みたいに、人間の妃を殺しちゃうよ?」
エトヴァスの主張に、バルドルは薄笑いを浮かべて忠告する。
バルドルの母親は将軍の人間の妃だったが、さまざまな不和や当時の魔王に迫られた結果、命を絶っている。
両親の不和を、バルドルは魔族と人間の感情の持ち方の差だと考えていた。
エトヴァスはアリスを一番に優先する。それにもかかわらずアリスはエトヴァスの言うことを一番に優先できない。それが裏切りのように感じるのだろう。
だが感情の起伏の乏しい魔族のエトヴァスは簡単に他を切り捨ててしまう。ましてやそもそもエトヴァスは他人に興味がなかった。なおさら他人などどうでも良いので、迷わずアリスを選べる。
それにたいして豊かな感情のある人間のアリスはそんな単純に感情をエトヴァスのみに傾けられない。
バルドルの言葉を、エトヴァスは納得したふうはなかった。恐らく、理解できないだろう。それに、どちらにしてもここでエトヴァスがのんびり座っているわけにはいかない。
「アリスが、鏡のどれが入り口かを見つけたな」
エトヴァスが気づいた。
彼が自分の食糧であり、妃でもあるアリスに防御の魔術をかけていないはずもないし、そのなかには彼女の居場所がわかるようなものも含まれているはずだ。
「だろうね」
バルドルも苦笑する。
魔力探知は人によって何がわかるか様々だ。どうやらアリスはバルドルやエトヴァスとは異なったタイプの魔力探知を持つらしい。勘も良いから、へたをすれば鏡自体を見ればすぐにどれが入り口かわかっただろう。
もしかすると廊下か、先ほど桜を見に行った部屋にあったのかも知れない。
「そういうのは、・・・大人に言ってもらわないといけないんだけどなぁ」
バルドルとて、エトヴァスが怒るのは理解できる。
アリスは魔族にとって美味しい、莫大な魔力を持つ生きもので、まだ自分の身を自分で守れない。子供なのだから、敵の居場所に気づいたとしても大人に報告しに来るのが正解だ。なのに、どうして彼女はひとりで動いているのだろうか。
常日頃アリスが比較的大人しく、エトヴァスにも従順であることを知るバルドルは、何故アリスはエトヴァスの忠告に逆らったのかと首を傾ぐ。
しかも飢え、死にかけとはいえ、相手は将軍であるヘルブリンディだ。エトヴァスの防御魔術がかかっていたとしても、彼が傍にいない状態では万全とは言いがたい。アリスがしているのは危険な行為で、魔族のなかで生きていたいのならばそう理解してもらわねば困る。
バルドルはエトヴァスのように怒りはしないが、これから二度としないためにも、警告は必ず必要だとは理解していた。
「看過できん。殺してくる」
エトヴァスが重い腰を上げる。
「あいつを殺したらアリスともう城に帰るから、奴の領地やらあとのことはおまえらの好きにしろ」
ヘルブリンディを殺せば霧も晴れる。エトヴァスのことだから転移の魔術ができるように、あらかじめ魔術を組んでいたのだろう。
ただエトヴァスはヘルブリンディを殺したとしても、その領地をどうこうする気はないらしい。
エトヴァスの領地はヘルブリンディのそれに隣接していない。ヘルブリンディが皆殺しにしたので、働く魔族もいない、しかも飛び地なんて管理が面倒なだけだ。
「・・・仕方がないな」
適切な該当者が見つかるまで、隣の領地を持つバルドルかトールが管理するしかないだろう。
「今回、アリスも戦犯だ」
声が酷く冷たい。怒っている。見たことがないほどに。ただ相手はまだ十歳の子供だ。バルドルからしてみれば大人げないと思う。
「ほどほどにね。相手は枯れかけとはいえ将軍だから、アリスにも懲りてもらった方が良いけど、子供相手だし」
「・・・俺の不愉快はどうなる」
「子供に何の発散を求めてるの?僕ら、大人だろ?」
バルドルは嘲って「大人」を強調したが、エトヴァスが理解したふうはなく、転移の魔術で消える。
アリスがエトヴァスのもとに来てからほぼ一年、彼は散々世話を焼きながらもアリスを「子供」としてみていないらしい。そしてだからこそ逆に「大人」としてアリスに接することもない。よくも悪くも感情の起伏に乏しいエトヴァスは、エトヴァスとしてしかアリスに接さない。
それはこれからも変わらないだろう。彼は彼のまま、アリスに相対する。
「・・・あいつが一番子供じゃね?」
「君に言われればおしまいだな」
トールの言葉にバルドルは肩をすくめながら、少し考える。
魔族は食欲と性欲に固執する。ただ性欲を感じないものは一定数いる。実際エトヴァスは性欲がないと公言していた。ただバルドルはエトヴァスがそうであるとは思えなかった。
彼は前の魔王の息子のひとりであり、若い頃は目立つ長身もあって享楽的な魔族の間では女ができれば噂になった。百歳くらいまでなら僅かではあるが、彼にも女性との噂もあったはずだ。
魔族は性におおっぴらで、当時エトヴァスが相手にした女から性的に不能だという噂が出なかったところを見ると、機能は正常の可能性が高い。仮にそうならそれにもかかわらず長らく性欲はないと公言してきたのは、自己処理で済むからだろう。
エトヴァスは今まで他人に興味がなかった。そういう点ではたしかに、他人に特別な性欲を感じることはなかったかもしれない。
だが、享楽的な魔族でも、好みは存在する。
今まで誰とも生きてこなかった彼は、性欲的に今まで好みに合う魔族がいなかっただけということもありえる。
そして今まで他人に興味がなかった彼が、今、アリスにその関心のすべてを傾けている。
「いつかアリスを襲うかも知れないな」
バルドルはため息をつきたくなった。
一年近く気に入って傍に置いているのだ。アリスはエトヴァスにとってそばに置いて心地よい存在で間違いない。しかもエトヴァスはアリスを「子供」と思っていない。人間という違う生きものだとすら、本当に思っているのか疑問だ。
恐らくアリスを「アリス」という生きものだと思っているだろう。
アリスもまたエトヴァスの食糧にされつつ、何故かあのエトヴァスの傍にいることに納得している。
そして数年たてば、アリスは大人だ。
「本当に、妃になるかも知れないな」
「もう妃じゃねの?」
「・・・エトヴァスの自己申告では違うらしいよ」
「え?マジで?!・・・マジ?」
トールが何度も聞いてくるので、バルドルもなんだか疑いたくなってきてしまう。
バルドルのなかではアリスはただの十歳の子供で、当然性的な対象とはほど遠いし、考えたくもない。
だからバルドルはこの問題を他人事だからと棚上げし、想像しないことにした。