12.トール
トールから見ても、部屋に戻ってきたアリスは一見上機嫌にエトヴァスから離れ、ひとりで歩いて部屋へと戻ってきた。いや、上機嫌に見せようとしているのか、勘の良いトールはアリスの様子に少し違和感を覚える。
エトヴァスはというと気になることがあるのか、廊下の方にまだとどまっているらしい。
アリスは急ぎ足でソファーにふんぞり返っていたトールのところまでやってくると、その小さな手でくいっとトールの服の袖を引く。
それにつられて身をかがめると、アリスは背伸びをし、こそっと耳打ちをしてきた。
「ねえ、トールさんは、ヘルブリンディさんの大事なものを拾ったら、守ってくれる?」
同じ部屋にいて魔力探知で周囲を探っているバルドルにも聞こえないくらい、小さな声だった。
何を言っているんだろうか。ヘルブリンディもしばらくすれば戻ってくるだろう。だが、トールもどこかでわかっていた。
ヘルブリンディの翡翠の瞳に宿っていた飢えと絶望。彼はもうだめなのかも知れない。
長く生きていれば、いや、長く生きれば、たくさんのものを失う。そうして絶望し、すべてを放棄して死んでいくものはいる。
そしてヘルブリンディが魔力のある生物を口にしなくなって、おそらく三百年がたつ。仮にアリスのような莫大な魔力を持つ生きものを食べたとしても、もう取り戻せないほどの飢えだろう。そこにあるのは苦しみ、飢え、長らえるだけの時間だ。
トールにはアリスの言う「大事なもの」はわからない。ただふと、ヘルブリンディをなくしたときの喪失感とさみしさを思い出す。
「もちろんだぜ」
考えるより勝手に、口が動いていた。元々考えるのは苦手で、性に合わない。だから本能に従う。
「そっか」
アリスはいつもの無邪気な笑顔で笑う。
「じゃあ、わたし、全力で拾うね」
トールが見ろ押したその紫色の瞳には、強い意志があった。弱くて小さな人間の少女にはそぐわない、強い意志だ。
それに、トールはバルドルの母親を思い出した。
『数千年をともにできる貴方の方が、わたくしの息子にはきっとさみしくないわ』
脆弱だった人間の女。それでも彼女がトールを助けたとき、その琥珀色の瞳には強い意志があった。
「・・・アリス?」
何を考えているのだろう。どうしてそんな目をするのだろう。
トールは思ったが、アリスは次の瞬間には廊下から戻ってきたエトヴァスに駆け寄っていった。
「見つかった?」
「視線は感じるんだがな」
エトヴァスはそれだけ答えてソファーに座っているバルドルを見下ろす。
「バルドル、おまえは?」
「大分絞れたけど、決定打に欠ける。だからといってさすがにアリスを使っての囮作戦はねえ」
「そんなことしたら殺すぞ」
「わかってるよ」
バルドルはエトヴァスの即答に苦笑した。
トールには、エトヴァスとバルドルの会話はよくわからない。トールはあまり賢くないし、その自覚もある。単純に暴れるのが好きだから目の前の誰かを倒すのは問題がないが、たくさん考えるのは向かない。
だから同じようにあまり賢くない、ヘルブリンディが好きだった。一緒にいて楽しかった。
「・・・あいつ、飢えてるよな」
トールは、単純に思う。わかる。
魔族は食欲と性欲に忠実だ。ましてや魔力の高い上位の魔族は、魔力のある生物を喰わねばその魔力を維持し、生きていけない。純血の魔族であればなおさらだ。
三百年食べていない彼はきっとこれ以上ないほど飢えている。
「アリスを襲う前に、早く仕留めねぇと」
アリスの魔力は莫大だ。
トールでも美味しそうだなといつも思っているし、エトヴァスのものでなければ食べてしまっていただろう。その莫大な魔力を持つ血肉の匂いを、三百年も飢えたヘルブリンディが感じていないはずがない。
アリスが僅かにその目を潤ませ、トールを見ている。それがどんな感情なのか、トールは知らない。わからない。
ヘルブリンディはアリスと同じ人間を妃にしていた。だが、だからといって人間を喰らわないわけではないことは、トールも知っている。アリスにはそれがわからないのかも知れないし、人間なのでわからなくても仕方がない。
「俺ら、馬鹿だったんだと思うよ」
トールは静かに目を伏せる。
人間には魔族のことなどわからない。そして自分たちも人間のことなど知らない。お互いのことを知らない。でもきっとトールもヘルブリンディも、同族のことすら知らなかった。自分の周囲のことなのに、なにも知ろうとしなかった。
馬鹿だった。
「今はさ。さっき、エトヴァスに言われたことわかる。俺もヘルブリンディも、なんも知ろうってしなかった」
トールはため息をついた。
トールは、ヘルブリンディは、もっといろいろなことを知るべきだった。
そしたらきっと、ヘルブリンディは前の魔王が人間の妃を面白く思っていないことに気づき、彼女を守れたかも知れない。トールだってヘルブリンディが人間の妃にどんな感情を傾けていたのか理解していれば、もっといろいろな協力が出来た。
でも、理解しようとしなかった。理解をする欠片はバルドルの人間の母親がくれていたのに、トールは見落としていた。
だから馬鹿なトールは単純に、同じ間違いは繰り返したくないと思う。自分の周囲のわからないものを知っておこうと思う。
「だから、知ってみるためにも、ひとまず俺はアリスと仲良くしてみようと思う」
トールはアリスとその庇護者であるエトヴァスに向かって宣言した。
同じ魔族のエトヴァスが何故アリスを守ろうとするのか、食糧なら早く食べてしまえよと思うトールにはわからない。でもわからないからこそ、知るべきだ。大事にしながら結末を見届けて、自分の見解とするべきなのだ。
トールは宣言したが、エトヴァスの細い眉が寄った。
「いらん」
一言で拒否される。
まずいことを言ったのだろうかとバルドルを振り返ると、異母弟が驚くほど呆れた顔でトールを見ている。トールとしてはかなり真剣に考えた末の結論だったが、どうやらトールは何かを間違ったらしい。
だが、間違いが何かがまったくわからない。
「え、なんでだよ!わかんねぇことは、ちゃんと知らなきゃなんないってことだろ!?俺、おまえがアリス喰わねぇの、わかんねぇんだもん!マジ美味しそうじゃん!ヘルブリンディの時もそうだったけど、なんか特別なんだろ!?それがわかれば・・・」
「おまえの興味のために、アリスを喰う可能性も高いおまえとアリスが何故仲良くせねばならん。アリスに関わるな」
エトヴァスはトールの言葉を一蹴した。
それに対して知っていこうと決意したトールはむっとする。トールが勢いのままに何か言い返そうとしたとき、アリスがふと思い出したように言う。
「・・・トイレ行ってくる」
トイレはこの部屋の室内だ。エトヴァスは何も言わない。かわりにトールは子供だなぁと笑った。
「気をつけろよー」
「んー」
アリスが気のない返事をするが、たいしたことではない。
ただアリスはその小さな手で、白いシュミーズドレスの裾をぎゅっと握っている。それはトールがはじめて見るアリスの仕草だった。日頃ならトールはそんな他人の些末な仕草、気にも留めなかっただろう。
エトヴァスがじっとアリスのその動作をながめてさえいなければ。
エトヴァスさんは何かを迷うときにアリスのドレスの裾を握るくせに気づいていて言わない
トールさんはエトヴァスがそれをじっと注視しているから気づいた
魔王オーディンさんの息子はトールさんもバルドルさんも基本は真面目