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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
五章 少女、寒桜を見る
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11.エトヴァス

「アリス」


 エトヴァスが細い肩を揺さぶれば、ぼんやりと紫色の瞳が開く。ゆらゆら揺れる瞳は、涙をためていたが、ゆっくりと身を起こし、小さな手で目元をこする。


「どうした、怖い夢でも見たのか?」


 エトヴァスはアリスの眠っていたソファーにともに座り、小さなアリスの体を支える。

 アリスは魘されているようだった。いつものように悲鳴を上げて飛び起きるようなものではなかったが、悲しそうに呻いていた。

 結界に残っていた人間の妃の魔力の片鱗に、あてられたのだろう。


「うぅん。こわいではないけど、でもさみしい夢だった」


 アリスはエトヴァスの腰に縋り付くように腕を回してくる。エトヴァスはアリスの背中を宥めるように撫でた。

 ちらりとバルドルに視線を向けていると、まだ分析周囲を分析しているらしい。

 彼の魔力探知は優れている。しばらくすれば、ヘルブリンディの本体につながる鏡を見つけるだろう。エトヴァスもまだ見つけていないが、時間の問題だ。

 

「あ!俺は興味ないけど、ヘルブリンディが桜、見せてくれるって!」


 ヘルブリンディと話していたトールが、アリスが起きたのを見て笑って言う。


「おまえ、桜なんかに興味があるようになったんだな」


 ヘルブリンディが意外そうに言うが、エトヴァスは当然桜などに興味はない。


「いや、アリスが見たいと言った」


 そもそも魔族に桜を見て楽しむような感性がないのは、ヘルブリンディも同じ純血の魔族で、しかもエトヴァスの弟であるのだからわかっているだろう。せいぜい桃色の花が咲いていると思うくらいだ。あとは桜というと、その名前を知るだけ。

 だがその答えにもヘルブリンディは酷く嬉しそうな顔をした。


「俺もそうだよ!桜なんかに興味なかったというか、桜っていうのすら知らなかったよ。ただあの木が欲しいと言われたんだ。冬に咲くのは寒桜って言うらしいぞ」


 桜を植えることを所望したのは、人間の妃の方らしい。ただエトヴァスはヘルブリンディとは違い、博識だ。寒桜くらいは興味がなく、愛でることがなくとも知っている。


「知っている。ついでに言うと花には蜜が多く、まれに実もなる。花言葉は“春が来る前に咲く”、“気まぐれ”だ」

「そうか!おまえは本当に賢いな!」


 エトヴァスの寒桜に対する知識は本を見ていればわかる程度だったが、ヘルブリンディは素直に感心したようだった。

 昔からエトヴァスの末の弟はこんな感じだった。

 早々に退屈に淡々と無味乾燥に日々を過ごしていたエトヴァスや、退屈な日々がたたって人間みたいな豊かな感情が持ちたいと人間実験を繰り返したロキとは異なり、食欲と性欲を求め、魔族らしくそのふたつに固執して楽しく生きていたはずだ。

 なのに、どこで間違ったのだろう。

 まぁ、間違いなく人間の妃に手を出したが原因だなとエトヴァスは理解しながらも、不思議と自分の隣にいるアリスを手放そうとは思えなかった。


「ここの近くの部屋が妃の部屋でな。そこが一番綺麗に見える」

「だ、そうだ。アリス、見に行くか?」


 アリスを振り返って尋ねると、「うん」とアリスは嬉しそうに笑う。

 エトヴァスはアリスの脇に手を入れ、小さな体をカウチから抱き上げる。まだ百四十センチたらずしかないアリスの体は、百九十センチを越えるエトヴァスにとってまだまだ小さい。魔族は腕力も人間とは比べものにならないので、重みも感じない。

 それでも最近たまに重く感じるから不思議だ。


「どうする?」


 エトヴァスはバルドルを振り返る。すると何故かトールが口を開いた。


「俺、桜に興味ねぇよ」

「トール、おまえには聞いていない。バルドルに聞いている」


 トールはそもそも花などに興味はないだろう。


「僕?」


 話を振られたバルドルはその琥珀色の瞳を瞬き、口元に手を当てて考える。だが、首を横に振った。


「二人で見ておいで。せっかくだから邪魔するのは、ちょっとね」


 桜を見に行くのがひとり増えたくらいで何が邪魔になるのか、エトヴァスにはよくわからなかったが、彼も混血とはいえ魔族だ。花などに興味がないのだろう。

 エトヴァスはアリスを抱え、ヘルブリンディに促されるままに霧の立ちこめる廊下に出た。

 廊下には多くの鏡があり、霧はそこから溢れてきている。その霧が、廊下に多くの魔族の幻影を作り出すのだ。エトヴァスは魔術で自分の周囲の霧を晴らしてから、歩き出す。

 それでも、魔族のささやきが聞こえてくる。これは恐らく、屋敷の鏡の記憶だ。

 

 キルシェさまは、妊娠されたそうよ

 他のお妃さまはどう思われるのかしら、はじめてのお子様が人間の子供なんて

 あら、でもお子様が生まれるのは良いことだわ


 嫉妬、確執、争い。

 恐らくヘルブリンディの妃は魔族のなかでたったひとり人間というこの状況のなかで、ヘルブリンディの寵愛だけを頼りに魔族しかいない屋敷で使用人から陰口をたたかれ、粗雑に扱われながら生きていたはずだ。

 感情の起伏に乏しい魔族には理解できないだろうが、エトヴァスは情緒豊かで些細なことでも不安に思うアリスを見ているので、その心痛は十分に人間の妃を殺せるほどのものだと思う。

 きっと針のむしろのような心地だっただろう。


「・・・エトヴァス」


 アリスが不安そうにエトヴァスの名前を呼ぶ。

 まだ幼いアリスには魔族の使用人たちの会話のすべてがわかるわけではないだろう。だがそのなかにある人間の妃に対する険は感じるのか、ぎゅっとエトヴァスの首に腕を回してくる。


「安心しろ。どんなことがあっても、おまえはひとりだけだ」


 エトヴァスの食糧も、妃もアリスひとりだ。たいした趣味もないから、エトヴァスはすべての時間をアリスに費やすことが出来る。

 千年生きてきて、これほど自分が身ぎれいだったことに感謝したことはない。

 エトヴァスには妃はおろか恋人も愛人もいなかった。だからアリスを妃だと表明したところで、対抗馬がいない。

 ヘルブリンディの人間の妃のように、他の対抗者との確執の間に置かずにすむ。


「うん」


 アリスもエトヴァスの肩に頬を押しつけ、抱きついてくる。

 不安に思うことはあるだろうが、エトヴァスが近くにいれば、エトヴァスが気づいて慰めてやることも、外から庇うことも出来る。感情的な人間にとって、恐らく他人の讒言ほど恐ろしいものない。

 だからエトヴァスはアリスをひとりにしない。

 

「ここだ」


 ヘルブリンディが霧に満たされた部屋へとエトヴァスとアリスを案内する。

 エトヴァスが周囲の霧を晴らしながら部屋に入ると、そこにも多くの鏡がある。ただしそれだけではなく、部屋の奥がテラスになっており、寒桜が植えられている場所が一望できるようになっていた。

 数十本の寒桜が、ちょうど見頃なのか花びらを散らしている。白銀の世界に立つ濃い桃色と白、そして幹の茶色のみの世界。


「・・・すごい!」


 アリスが紫色の瞳をまん丸にして笑う。


「こんなたくさんのお花、はじめてみた!」


 嬉しそうに笑う腕の中のアリスを見て、エトヴァスはここに来て正解だったと思った。何故そう思ったのかはわからない。だが、そう思った。

 アリスは春を知らない。

 窓もないような場所に幽閉されて育っていて、幽閉される四歳以前の記憶は親の顔すら曖昧で、四季など認識できるほど知らないだろう。

 エトヴァスのもとに来た頃、アリスは歩けもせず、声すら出せなかった。まともに歩け、話せるようになった頃にはもう夏で、たくさんの花を見るような機会はなかった。エトヴァスも秋には極力領内のいろいろなものを見せるようにしたが、エトヴァスには花を愛でる感性がないので、花など素通りしていた。

 こんなに喜ぶなら、秋にコスモス畑にでもつれて行ってやれば良かった。


『本当に綺麗』


 霧のなか、薄桃色の髪の女性が、嬉しそうに笑う。溢れるような感情を持つ人間の笑みだ。


「キルシェだ。彼女も人間なんだ」


 ヘルブリンディが柔らかに笑った。だがその翡翠の瞳は濁っている。この女は所詮、実体のない、鏡の記憶に過ぎない。それでも、ヘルブリンディはその澱んだ瞳でどこか愛おしげに、彼女を見つめる。

 そう、その柔らかな眼差しが、ヘルブリンディがこの人間の妃を愛しているのだと嫌というほどわかる。


『ありがとう、これでわたしは寂しくないわ』


 彼女の満面の笑み、それはいまエトヴァスとアリスに向けられているが、違う。恐らくかつて、ヘルブリンディに向けられたものだ。

 アリスはぼんやりとその笑顔を眺めていた。嬉しそうな、幸せそうな笑みだ。だが首を横に振る。


「大丈夫だよ。わたしは桜がなくても寂しくない」


 アリスの高い声が静かに部屋に響く。


「エトヴァスがいつも、いてくれるから」


 アリスはそう言って、そっとエトヴァスの頬に口づけてくる。

 細められた紫色の瞳に浮かぶのが愛情なのか、好意なのか、エトヴァスにはわからない。だが、なんでもいい。ただ頬に触れる温もりが心地よい。


「そうだな。なにも、俺のかわりになどならない」


 そしてきっと、なにも、アリスのかわりにはならない。

 エトヴァスはそっと小さな体を抱きしめ、そう思う。

 どんなに傷ついても、恐怖に震え血肉を奪われたとしても、アリスはエトヴァスの傍にいることを望む。

 そしてきっとどれほど桜を植えても、代替物をのこしても、言葉を尽くして安全だと唱えても、彼女にとっておいていかれるほどさみしいことはない。エトヴァス以上にさみしさを癒やすものなどない。

 アリスにとって、エトヴァスは誰よりも外から自分を守ってくれる存在だ。

 だからエトヴァスがそばにいることがアリスの何よりの安心であり、魔族のなかで心許なく生きる人間であるアリスにとって心のよすがでもある。

 エトヴァスはアリスの小さな体を抱えて、後ろを振り返る。ヘルブリンディはどこか空虚な瞳でアリスを見ている。

 そのなかに宿るのは、エトヴァスがよく知る、自分にも覚えのある欲望だった。


「アリス、」


 アリスは、桜しか見ていない。

 そう見えるが、彼女の魔力探知は恐らく背後の鏡にも向けられているし、ヘルブリンディの実体のない分身も分析している。

 それでも、アリスはエトヴァスの声に敏感に反応した。


「ん?」

「同情はするなよ」

「・・・え?」


 アリスは小首を傾げる。


「仮に情をかけたくなったとして、勝手に動くな」

「・・・危ないもんね」

 

 ひとりでは危ないなんて、そんなことアリスとてとっくにわかっているはずだ。アリスはまた、視線を桜と、そして笑っている実態のない人間の女性に向けている。

 アリスよりずっと年上の、人間の妃。

 彼女が生きたのは三百年も昔で、とっくに死んでいる。交わることのない存在だ。それでも自分を重ねるなという方が、無理な話なのかも知れない。だがエトヴァスはアリスの身を守るために、忠告をした。


「いいな」


 それが無視されるとわかっていたとしても、らしくもなく少しだけ、無視されないことを願った。

 子供のアリスが考えそうなことなど手に取るようにわかる。

 それでも自分を無視して欲しくなかった。

・エトヴァスさんは他人に興味がなく、期待しない人なので、アリスに願っている時点で異常だけれど、あまりそのことにはまだ気づいていない

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