10.アリス
真っ白の雪の上に、濃い桃色の花びらが沢山散っている。
白と桃色のコントラストが綺麗で、アリスは顔を上げようとして、上がらなかった。上げたくても、上げたつもりでも視界が変わらない。
魔力探知をかけてみると、僅かだが自分ではない魔力の気配がある。
アリスがぼんやりと花びらを眺めていると、視界が変わって部屋のなかに入った。なかからまた、寒桜を見つめる。
ただそこにはテラスの窓から出て行く背中があった。
エトヴァスほど身長は大きくない。だが、エトヴァスよりがたいがいいのか背中が広くて大きい男性だ。エトヴァスよりは短いけれど明るい金色の髪が揺れている。
アリスはそれを、眺める。
白い雪の上にある大きな木が十本以上あり、それが雪の上に濃い桃色の花びらを散らせている。シヴの贈ってきたカードと同じように、とても綺麗だ。ただ視界はそのまま変わらない。
また別の日なのだろうか。少し散った桜のなかにある大きな背中を眺めている。出て行く背中だ。
花が散り、雪が溶ける。青々とした葉っぱが出てきて全体的に青々もこもこした木になる。その頃には魔族の使用人なのか、それに類するような人が庭の手入れや掃除をする。
その部屋から、ただその木々とともに出て行く大きな背中をながめる。
『さみしくないわ。わたしは貴方が植えてくれた桜があるもの』
大丈夫よ、と柔らかな声が自分に言い聞かせるように響く。答えてくれる人はいない。魔族の使用人たちは彼女の部屋への入室を禁じられていて、彼女が話せるのは彼だけだ。だからただただ待つ。
それにきゅうっとアリスの胸が痛んだ。
彼女は桜を見ながらさみしくないと繰り返す。でも嘘つきだ。きっとさみしい。とてもさみしい。アリスは胸が痛んで仕方がない。
桜なんて、大事なあの人の大きな背中のかわりになるはずがない。
さみしい。さみしい。傍にいて欲しい。おいていかないで。わたしは魔族のなかでひとりぼっちの人間で、貴方以外誰もいない。いないのに。
これは夢だ。しかも誰かの記憶。でも、この悲しい気持ちをアリスも知っている。
エトヴァスにおいて行かれたとき、たった一週間ほどの間だったけれど、ずっと、ずっとおいていかないでと思っていた。ひとりぼっちはさみしい。だから、その背中を見続けるのは、傷を抉られるようだ。
でも、これはアリスの記憶じゃない。アリスを置いていく彼は、エトヴァスじゃない。
エトヴァスはアリスの気持ちに共感しない。彼は魔族で感情の起伏が乏しい。さみしいなんて気持ち、自分では感じない。それでもアリスがさみしいという感情を抱き、離れたくないと泣いて訴えれば、極力アリスをひとりにしないように、どこでも連れて行ってくれるようになった。
彼はいつもアリスを置いていかないし、さみしいと手を伸ばせばいつもその手を振り払ったりしない。理解しないまでも努力してくれる。
多分、これは結界にいたあの女性の記憶なんだろう。
あの結界はエトヴァスが破ったが、破片がアリスのなかに残ってしまった。それがアリスに同調して、自分の記憶を見せている。
同じ人間だから。
場面が、静かに切りかわる。
『キルシェ!そうか、子供が!』
何やら男の背中がびくりと揺れ、彼が振り返って酷く嬉しそうに笑う。
アリスも見た、ヘルブリンディだ。今のようなどこか陰鬱な翡翠の瞳ではない、生き生きしていて、同じ色合いなのに平坦なエトヴァスとはまったく違う。
結界のなかにいたあの女性はキルシェという名前らしい。彼の人間の妃の名前。
『嬉しい、キルシェ!』
『ぎゃ!く、くるしい!』
『ご、ごめん』
本気の悲鳴が上がる。それと同時にぱっと手を離したが、ヘルブリンディは踊り出しそうなほど嬉しそうに、体を揺らし、そのあたりをふらふらしている。
それを見てアリスの方が驚いた。
ヘルブリンディはエトヴァスの弟で、純血の魔族だ。感情の起伏に乏しい。なのに、どう見てもヘルブリンディは素直に嬉しそうで、アリスは不思議に思った。
アリスが見る限り、ヘルブリンディには一定の感情の起伏がある。
ヘルブリンディは確かにキルシェに、そしてその子供に愛情を感じているように見えた。ヘルブリンディは恐らく人間の基準でいって、キルシェが本当に好きなのだろう。むける眼差しや行動から、嘘は感じない。
ただ彼が魔族にしては感情の起伏があったとしても、気遣いはやはり魔族だ。
そしてヘルブリンディは恐らく、不器用なのだろう。年月を重ねているからどのくらい力を込めれば相手が苦しがるかなどわかりそうなものだが、ヘルブリンディは相手から本気の悲鳴が上がるほど、彼女を抱きしめていた。
魔族は腕力や筋力が人間とは異なる。だから人間と暮らすなら、あらゆることに気を遣わねばならない。そう考えれば、エトヴァスは本当に器用なのだ。
少なくともエトヴァスは感情の起伏に乏しいし、アリスをよく抱きしめてくれるが、痛みに悲鳴を上げるほど抱きしめられたことはないし、そうしないという自信がある。
キルシェが自分のお腹を撫でながら、言う。
『この子は、きっと貴方を置いていかないわ』
柔らかな女性らしい声が響く。それに、アリスは不思議に思う。
彼女はいつもヘルブリンディに部屋に置いていかれ、ひとりだった。なのに、彼女は彼を置いていかないと慰める。
『この子が生まれたら、きっと貴方を置いていったりしない』
その言葉に、ヘルブリンディの表情がくしゃりと歪んだ。それで、アリスは女性の抱くさみしさでなく、ヘルブリンディのさみしさに、恐怖に気づいた。
ヘルブリンディの妃は、人間だ。
寿命は魔族と比べようもないほど短い。一瞬の存在だ。だから必ず人間の伴侶は、魔族を置いて死ぬ。それは変えられない事実だ。
しかし、恐らく人間と魔族の子供は長い寿命を持つのだろう。
『わたしがいなくなっても、この子が貴方といてくれるから、大丈夫よ』
優しい、のびやかな女性の白い手がヘルブリンディの頭を撫でる。
『わたしは貴方といられる時間は少ないの』
これは彼女の記憶だ。だからアリスは彼女の表情を見る事が出来ない。けれど自分の平らな腹と、彼を交互に見る彼女はきっと愛おしそうに笑っていただろう。
『だから、早く帰ってきてね』
彼女が彼の背中を切ない思いで見守っていた。だが、彼もまた、同じだった。いつも、置いて行かれる恐怖に怯えていた。
『あぁ、だから、だから傍にいてくれ、いなくならないで』
明るい金色の髪がふわふわと揺れている。翡翠の瞳を潤ませ、彼は泣いている。
それをアリスはなんて綺麗なのだろうと思った。
アリスは人間で感情的な生きものだ。だからよく泣く生きもので、それに対して魔族は感情の起伏に乏しい。アリスは子供であれ大人であれ、泣く魔族を一度たりとも見たことがなかった。
それなのに、ヘルブリンディは喪失を目前に恐怖に怯え、泣くことが出来るのだ。
『おいて、いかないで』
知っている。この気持ちを、アリスは痛いほど知っている。
彼はきっと彼女が大好きで、大好きで、でも魔族と人間の時間が違うと知っていて、失うのが怖かったから傍にいられなかったのだろう。
それでも、離れられないくらい好きだった。自分のものにしたかった。だから寄り添った。
自分がどれほど愚かで、浅慮で、どうしようもない存在だと知っていても、彼女を望まずにはいられなかった。
終わりの日は、突然だった。
部屋の周囲にあった結界と防衛魔術が破られたところから、はじまった。その日、屋敷にはヘルブリンディも、使用人たちも誰もいなかった。多分、他の妃たちが目撃者を消すために、そうしたのだ。
他の妃たちは彼女を少し懲らしめようと思った、その程度だったのかも知れない。
だが人間の、彼女の手は恐怖で震えていた。人間社会で育った彼女にとって自分の伴侶はともかく、他の魔族は天敵であり、化けものだった。本気の抵抗は他の妃たちを苛立たせ、どんどん攻撃はエスカレートした。
彼女は、自分がこれ以上傷つけられる前に、決断をした。彼女には魔力があった。ヘルブリンディがかけた防御魔術の欠片もまだあった。
『ケルン、愛しているわ。大丈夫よ』
子供の名前だろうか。
彼女はこんな状況にもかかわらず、何故か大きくなったお腹に語りかける。どうしてお腹が大きいのか、どうしておなかに向かって話しかけているのか。妊婦を見たことがないアリスにはわからない。
ただその愛おしさも、愛も、命すらも、まだ見ぬ子供に向けられたことがわかる。
『外に出れば、お母様がいなくても、お父様が守ってくださるわ』
その言葉に、アリスは自分の顔が歪むのを感じた。
アリスの父はいなくなった。理由は知らない。母は、アリスを要塞都市の対魔族結界の動力源として、おいていった。捨てたのだ。
だから、子供を愛し、命を賭ける彼女がアリスには酷く理想の母親に思えた。
『愛してるわ』
そこで、夢が終わる。
彼女がどうなったのか、どういう選択肢が彼女にあったのか。アリスはわからない。これは彼女の記憶で、だがあくまで彼女が見ていたものにすぎない。彼女が何を考えて死んだのか、それはわからない。
でも外にあった結界は、彼女の命そのものだっただろう。
アリスにわかるのは、ヘルブリンディの人間の妃が間違いなく死んだことだけだった。
・アリスの前の将軍の「人間の妃」の前例はふたり
・一人目がオーディンさんの「人間の妃」でバルドルさんのお母さん
→前魔王ファールバウティに”追い詰められて”白銀の檻の中で自殺
・二人目が今回出てきた、ヘルブリンディさんの「人間の妃」
ファールバウティさんはエトヴァスさんのお父さんで、現魔王オーディンの異母兄です