09.バルドル
バルドルはあたりを見回しながら、慎重に進む。
ヘルブリンディの屋敷の近辺は酷い魔物の巣窟になっていたが、屋敷の周囲は魔物が入れない結界があるのか、比較的綺麗な状態だった。
ただここにも霧が立ちこめていて、それが実体のない魔族たちを作り出している。
鏡の多く飾られた廊下をヘルブリンディに案内されながら、バルドルはアリスを抱えるエトヴァス、トールと歩くこととなった。
こちらが領主さまの部屋ね
お妃様には何をお持ちしようかしら、桜のお妃様は、ねぇ
他のお妃様はどう思っておられるのかしら
白と黒の服を着た、恐らく混血の魔族が口々に話しながら通り過ぎていく。男の使用人も多い。
かつてここで働いていた人々だろう。一見すると実体があるようにすら見えるが、魔力探知では霧の塊のような、ほぼ魔力のない見た目だけの存在だ。時々不自然に歪むのは、誰かの記憶だからだろう。
バルドルとしてはさっさと霧を晴らしたいところだが、分析が完全ではないためまだまだ無理そうだ。しばらくは自分の周囲だけ分解するのでやっとだろう。
それはアリスを抱えながら先を行くエトヴァスも同じかと思ったが、そうでもないらしい。
魔術の構造式こそ見えないが、エトヴァスの半径二メートル以内にも霧はない。先ほど霧がないエリアは足下の半径一メートルほどだったが、現在は二メートルほどになっている。そして恐らく彼はこれ以上、広げる気はないようだ。
もうこの霧の分析は終わっているのかも知れない。だが自分の戦う場合の戦略を考えて、これ以上手の内を見せないために分析が終わっていないふりをしているのだろう。
エトヴァスは今回、アリスが望む寒桜を見に来ただけで、ヘルブリンディをすすんで殺す気はない。ただそうは言っていても、アリスという莫大な魔力を持つ魔族にとって美味しい食糧をその腕に抱いている限り、戦いの可能性も考えている。
エトヴァスはもともと常に物事に慎重だ。
ひとりで生きていてもそうなのだから、アリスを連れている今はさらに慎重に安全策をとっているのだろう。ただ人間と生きていくというのは、これぐらいの慎重さがなければならないとバルドルは思う。
トールはというと、霧など気にもせず闊歩している。
彼はそもそも肉体的に強靱で、魔術の影響を受けづらいから、この霧が何であっても問題はないだろう。ただそれは彼が大丈夫なのであって、他が大丈夫とは異なる。だから、色々周囲の状況や事情を把握できないのだろう。それはヘルブリンディも同じだった。
これは魔族だからとか人間だからではなく、性格だ。
実際にアリスは人間であるにもかかわらず、ヘルブリンディの惨劇の真相をほぼあててきていた。
『じゃあ、誰が将軍であるヘルブリンディさんの人間の妃を殺せたと思う?』
彼女は人間だ。しかも十歳の子供だ。しかし彼女は年の割に聡明で、育てているエトヴァスも頭が良い。
そしてあの発言から、たった一年ほどの間に彼女が魔族や将軍、魔王の力関係や魔族の社会について、非常に正しい感覚を培ったということがバルドルにもはっきりとわかった。
『わたしは、だれかまではわからないけど、』
アリスのその言葉の真意をバルドルは確かめてはいない。だが在職の将軍、魔王ではないことも薄々理解しているようだった。
『もしあの男が殺されていなければ、俺はリスクを張ってもアリスを手に入れた時点で、あの男を殺していた』
エトヴァスの言葉もまた非常に正しい。
バルドルの予想が正しければ、ヘルブリンディの人間の妃を殺した「あの男」は、「魔王」だった。今の魔王のオーディンではない。当時の魔王ファールバウティだ。
百年前、魔術師に倒された。
オーディンの異母兄、つまりバルドルにとっては伯父にあたり、エトヴァス、ヘルブリンディ、そしてロキという現在の将軍三人の父親でもある。
とにかく残酷で、人間を嫌っていた。
それが何故だったのか、バルドルもまったく知らない。
彼は昔から人間が嫌いで、当時まだ将軍だったオーディンの妃であり、人間だったバルドルの母に細々手を出していたことも知られている。諸事情があったとはいえ、バルドルの母の自害のきっかけを作ったのも彼だ。
いまでもバルドルの母が自害した確定的な理由はわからない。
少なくとも彼女は当時魔族の入れない白銀の檻のなかにおり、魔王だったファールバウティがやってきても彼女を殺して喰うことはできなかった。
なのに、彼女は自害した。
それを何も知らない魔族たちは人間が感情的で、魔王が自分を喰うかもしれないという恐怖に耐えきれなかったからだと、噂した。
ただ噂に反してバルドルは魔王ファールバウティが母が自殺する主要因になったとは思わない。ただどちらにしても、感情的だったからこそ母が自殺したという見解は、非常に正しい。
母は当時父であるオーディンとの関係がこれ以上ないほど悪化していた。
子供であるバルドルとも引き離され、白銀の檻に閉じ込められ、精神的に追い詰められていた母は、恐らく魔王を前に恐怖に耐えられるようなまともな精神状態ではなかった。そう、結局彼女は感情的に耐えきれず死んだのだ。
バルドルの母は安全な檻のなかにいても恐怖や悲しみに耐えきれず自殺を選んだわけだが、ヘルブリンディの妃は彼の屋敷のなかの一室にいたようだ。
塔のように空間として隔離出来るような場所でもなく、白銀の檻のような魔導具のなかでもなく、普通の部屋だ。防御魔術はあるだろうが、使用人の会話に出てくると言うことは、それなりに関わりもあっただろう。
人間の妃が魔術師だったという話も聞かないから、魔力があったとしてもそこそこだろう。
ヘルブリンディはもともと享楽的で、不在も多かった。
なんらかの方法で魔王によって防御魔術を突破されれば、人間の妃はひとたまりもなかっただろう。人間の妃が好きだと言っておきながら、ヘルブリンディはやっていることがあまりに浅はかなのだ。
魔族も人間も理解していなさすぎる。
「ひとまず落ち着くまではここに寝かせたらどうだ?」
ヘルブリンディは明るく笑って、近くにあったカウチを指さす。緑色のカウチは古くはあったが使える状態だ。
「そうさせてもらう」
エトヴァスはいつもどおり表情を変えず、容赦なく部屋のなかにあった霧を晴らした。どうやら霧の魔術の構造式の分析はとっくに終わっていたらしい。
バルドルはさすがだなと感心していると、アリスがこわごわとつぶやいた。
「・・・へんなの、」
アリスは落ち着かないのか辺りをきょろきょろみまわす。
エトヴァスがゆっくりとカウチにアリスを抱えおろし、隣に腰を下ろした。
「なにがだ」
「・・・わかんないけど」
アリスは不安なのか膝立ちし、カウチの背もたれに腕を乗せ後ろを振り向く。扉の開いている廊下だ。
廊下には霧がまだ霧が立ちこめており、実体のない人が行き来している。アリスは部屋を見回してから部屋にあった鏡を睨んだ。
廊下にも多くの鏡が飾られている。
「君は本当に賢い子だね」
アリスは誰かの記憶から形成されているこの実体のない魔族たちが、左右対称であることに気づいたのだ。
そう、彼らは鏡をもとにした記憶から形成されている。
「・・・でも、」
アリスはヘルブリンディに視線を向ける。
トールは先ほどの重苦しい会話などすっかり忘れてしまったのか、ヘルブリンディと楽しそうに話している。
こちらも間違いなく実体ではない。だが、鏡の記憶ではないし、本人の意志のようなものが一定あるようにも見受けられる。何より左右対称ではない。
アリスは目をこらすように眉間に皺を寄せ、その紫色の瞳でヘルブリンディを映す。
魔力探知は感覚と眼の二種類ある。
どちらかだけというのが大方だが、アリスは恐らくどちらも持っている。そしてはっきり見えないのが気になって仕方がないのだろう。わからないという不安がアリスに緊張を強い、精神的負担になる。
ただ先ほどまで疲れてぐったりしていた子供の精神的負担は、良いものではないだろう。
「エトヴァス、」
「あぁ」
バルドルがエトヴァスに確認すると、彼はバルドルのやろうとしていることを理解していながら、頷いた。
「子供は少しお昼寝の時間だ」
バルドルはこういうことが得意だ。軽くアリスの頭を撫でる。それだけですうっとアリスの体から力が抜けた。エトヴァスがその小さな体を受け止め、カウチに寝かせる。
「やっぱり随分、疲れてるみたいだね」
「そりゃな」
魔族の常識でも、一時間ぶっ続けで魔物を狩りつづければ、疲れるものだ。雪のなかも歩いたので、なおさらだろう。
体力の回復のためにも、少し眠って落ち着いてもらった方が良い。
「まぁでもその間に、ちょっと探ろうか」
「そうだな」
トールは気楽そうだが、バルドルとエトヴァスはお互いに面倒を理解していた。ひとりならば力業でどうにでもすれば良いのでさしてなにかをする必要はないが、アリスもいるので争いごとは極力避けたい。
その点ではバルドルとエトヴァスの指針は、一致していた。