07.アリス
「・・・難しい」
アリスは目の前にある算術の教本をぼんやりと眺める。
算術は嫌いだ。今やっているのは何桁にも及ぶ小数点の割り算やかけ算で、こんなものができて何になるのかと思う。というか、そもそもなんのために勉強しているのかもわからない。
確かに読み書きのために文章を読んだりして、知識を身につけるのは大事だと思う。
あまりにエトヴァスやメノウと知識レベルが違いすぎて、話が通じないときがたくさんあるからだ。何かをエトヴァスたちに説明したくても語彙量がなさ過ぎてうまく伝わらないことがしょっちゅうだから、きっと役立つ。
だが、算術をしてなんになるのだろう。簡単な四則計算は話の中でいるかも知れないが、こんな小数点の計算や割合の計算をしてなんになるのだろうか。世の中の人間は一体何故この勉強をしているのだろうか。
そしてこの部屋のなかで一生飼われるだろうアリスにはモチヴェーションがない。
机の冷たい板に頬を押しつけ、ぼんやりと空を眺める。バルコニーへ続く窓は開けてはならないと言われている。開けようとは思えないが、ひとまず算術にやる気が出ないので、ぼんやり眺める。
「やらないのか」
エトヴァスが相変わらず平坦な口調で言う。
「昨日も適当にしかやっていなかっただろう」
エトヴァスは基本的にアリスのやることに怒らない。
単に疑問に思われているだけだが、アリスとしては十分にグサリとくるものがあった。だから、言い訳を口にする。
「ねえ、この勉強、役に立つ?」
「本でたまに読む会話だな」
「そうなの?」
アリスはあまり読書はしない。
というか、閉じ込められて育ち勉強はおろか人とも話したことがほぼなかったので、文字が少し読める程度。本など両親がいた頃の絵本などもう覚えていない。たまにエトヴァスが読み聞かせてくれるものくらいしかわからないだろう。
なので、説明を求めるようにエトヴァスを見上げると、彼はこちらを見ていなかった。
「だいたい十代半ばの人間が、親に言うやつだ」
「え?」
自分の年齢は自分が閉じ込められていた期間がはっきりしないのでわからないが、見た目から十歳前後だと言われている。そうなると、該当する年齢には少しはやい。
もちろん相手もエトヴァスなので親ではないが。
「だいたい親はこう答える。“選択肢を増やすため”」
「せんたくし?」
「あぁ。将来何が起こるかわからないから、できることが多いに越したことはない。だから学んでおけとな」
エトヴァスは腕を組んで、至極つまらなそうに遠くを見て答える。アリスはその答えに納得できるような気もしたが、言いくるめられているような気もした。
ただ魔族のエトヴァスにとらわれるアリスの将来とは、どこにあるのか。
「とはいえ、俺は別にそうは思わん。」
「え?」
今のやりとりはなんだったのだろう。あっさりとエトヴァスは今までの話を放り出した。
「俺は魔族だ。時間は死ぬほどある。必要だと思ったときにやれば良い」
人間と魔族は生きる時間が違う。しかもエトヴァスは長く生きるし、生きている魔族だ。アリスはというと、ただの人間で百年も生きない。人間は時間がないからやれということだろうか。それともこのままで良いと言うことなのか。
どう解釈すべきか首を傾げたが、エトヴァスが続けた。
「だから、やっておけ」
「・・・うん?」
「必要になる可能性がある。まだ教えるかは決めていないが、算術や図形の理解がなければまず構造式を描けない」
彼にしては珍しい、本題を誤魔化すような言い方だった。
「だから一応勉強しておけ。いらなくなったら言う。」
「・・・うん」
エトヴァスはそう言うと、席を立って部屋を出て行った。追いたくてもアリスが扉の外に出ることはできない。
また出かけてしまった。少し落ち込む。
この間、誰かが来襲してから、エトヴァスはよく外に出かけるようになった。夜も帰ってこないことが多くなり、自然とアリスとぼんやり過ごす時間も短くなった。
そう、アリスはひとりで過ごすことが多くなったのだ。
メノウも忙しそうで、呼んでも来るのに時間がかかるようになった。仕方がないとは思う。でも、どこかでまた閉じ込められていた頃のように、誰も来なくなるのではないかと恐れる気持ちがあった。
「・・・」
窓の外を見れば、バルコニーには鳥が集まっている。アリスはそれを見るために、窓辺へと歩み寄り、その傍に腰を下ろした。
最近バルコニーに小鳥が集団でやってくることが増えた。エトヴァスに聞いたら、巣立ちの時期だという。春に生まれた小鳥たちは、夏にはもう大人になって巣立つのだ。緑色で、目元に白い縁取りのある鳥たちは、仲よさそうに複数でとまり、話している。
アリスも話してみたいけれど、窓を開けてはいけないのでそれはできない。
最近よく、閉じ込められていた頃を思い出す。緑色の独特の文様のびっしり描かれた白い壁、だから下地は白いのに緑色の壁に見えていた。目が覚めるたびに、そればかり目に入った。ベッドぐらいはあった気がするが、何を食べ、何を見て生きていたのか、よく覚えていない。
話し相手もいない、ただぼんやりと息を吸って吐くだけの生活を、思い出す。
ここは閉じ込められていた部屋じゃない。窓の外の空はちゃんと色を変えて、一日を自分に知らせてくれる。ぼんやりとバルコニーとその向こうの青空を絨毯に座り込んで眺めていると、灰色の何かがバルコニーを横切った。
「・・・?」
バルコニーを見ると、そこにはふさふさした毛並みの灰色の生きものがいた。
「わんちゃん?」
アリスは、狼という動物をそもそも知らなかった。だからそれを「わんちゃん」だと認識した。
広いバルコニーを内側からのぞき込むと端に座っている。アリスより小さいが、立ち上がればアリスより随分と大きいだろう。翡翠色の大きな瞳がこちらを見ていて、窓の内側にアリスがいるのに気づいているようだった。
とても慌てた様子だった。
「わんちゃんだ」
鳥はだいたい、バルコニーに数匹でやってくる。「わんちゃん」もそうなのかと広いバルコニーを見回したが、他にはいないようだった。
まだ両親がいて一緒に暮らしていた頃、「わんちゃん」をなんとなく本で見たことがあった。
アリスが窓からバルコニーをのぞき込むと、「わんちゃん」もこちらへと寄ってくる。近くで見るとますます大きくて、独特の金の光彩はないが、翡翠色の瞳がエトヴァスみたいで、何やら新鮮だ。特に鳥はあまりこちらには近づいてきてくれないので、嬉しい。
「こんにちは?」
バルコニーのガラス扉越しだから、聞こえているだろうか。
アリスがおそるおそる尋ねると、何故か「わんちゃん」は人間のアリスでもわかるほどとても驚いた顔をした。
だから逃げて行ってしまう前にと、アリスは声をかける。
「どこからきたの?」
「イアールンヴィズ(鉄の森)」
低い声だった。どうやら「わんちゃん」は「彼」らしい。
答えはもらえたのは嬉しかったが、そう言われてもアリスにはわからない。よく考えてみれば、もともとう幽閉されており、エトヴァスのところに来てからも外に出ていないので、アリスは地名などほとんど知らなかった。
「どこだろうそれ。遠いの?」
「おまえこそ、どこから来たんだ」
「要塞都市だよ」
エトヴァスはアリスが要塞都市に住んでいたと言っていた。アリスはその要塞都市の一室に、両親がいなくなってからずっと閉じ込められていたのだ。
そして魔族のエトヴァスに差し出され、ここにいる。
「どこの要塞都市だ」
「・・・要塞都市は、要塞都市じゃないの?」
「ひとつじゃない。クイクルムとか、一番有名なところだと、フェーローニアとか、」
そう言えばエトヴァスが、千年前に大魔術師によって対魔族結界の張られた要塞都市は六つあり、いまも五つあると教えてくれた。ただそれをぼんやり聞くだけで、自分がその五つのうちどこから来たのか、考えたこともない。
「あれ、そっか。聞いてみないと、・・・全然わかんないね・・・」
アリスは思わず笑ってしまう。
エトヴァスやメノウは優しいから察して色々なことを説明してくれるから、会話が成り立つのだろう。アリスとこの「わんちゃん」との会話はちっとも成り立たない。アリスは窓の傍に腰を下ろし、彼を見据える。「わんちゃん」も窓の傍にやってきて、そこに腰を下ろした。
エトヴァスが結界があると言っていたから、入れないのだろう。
「わんちゃんの住んでいる場所は、どんな場所?」
「東にある。緑が豊かで、俺たちみたいのがたくさん住んでる。」
彼は簡単な言葉を選んでくれた。
「そっか、お友だちいるんだね」
友だち。魔族と鬼と一緒に住むアリスには縁のないものだ。
アリスは森に住む、沢山の「わんちゃん」を想像する。友だちが多ければきっと楽しいに違いない。今は話す相手もいないアリスには、羨ましい限りだ。
「お友だちじゃない。家族がいる。妻と、子供たちが」
「つま?」
「なんだ・・・俺がお父さんで、お母さんがいて、俺には子供がいる」
「そっか、わんちゃんはおとうさんなんだね」
「・・・おまえの親はどうした」
「さぁ、どうしたんだろう」
アリスは両親をぼんやりとしか覚えていない。ただ4歳の誕生日を祝ったことは覚えている。
父がケーキを焼いてくれて、母がそれを貪っていた。大きなケーキだったけれど、母が先に食べてしまったことを、アリスがとても怒ったのを覚えている。父は涙が出るほど笑っていた。母は少し焦って謝っていたような気がする。
父はよく笑う人で、母は淡泊な人で、あまり喜怒哀楽の激しい人ではなかったと思う。どちらも姿形すらもう、よく覚えていない。声も朧気だ。
きっと目の前に現れても、わからないだろう。
「小さいときにおとうさんがいなくなって、おかあさんがわたしを緑色の部屋に、おいていったの。」
まず、父がいなくなった。何故だったのか、よくわからない。母はなにやら酷く落ち込んでいた気がする。アリスが父はどこにいったのかと尋ねると母は死んだと言っていて、いなくなるというのは死ぬと言うことなのだとぼんやり理解したのを覚えている。
要塞都市の一室にアリスを置いていったのは母だ。それきり。父と母が本当はどうなったのか、アリスは知らない。
「それからここに来たんだよ」
そして魔族のエトヴァスに差し出された。今となっては、きっと両親のことは知りようもない。姿形も覚えていないので、会っても仕方がない。
「わんちゃんのおとうさんとおかあさんは、元気なの?」
アリスが彼に尋ねると、彼は視線をそらした。
「父親は、今、満身創痍かもしれんな」
「まんしんそういって何?」
「酷い怪我だな」
「え?魔術とかで治せないの?」
「どうだろう・・・・まぁ、自業自得だしな」
彼の言い方は曖昧だが、酷い怪我だという割になにやらあまり心配していないようだ。
アリスはふとエトヴァスを思い出す。誰かが来襲したとき、彼は無傷で帰ってきたが、外ではものすごい物音がしていた。
エトヴァスはいつもアリスに齧り付くけれど、傷はきちんと魔術で治してくれる。だがアリスはエトヴァスに傷を治してもらっても、時々疼くことがある。はたして彼は大丈夫だったのだろうか。
ぼんやりと考えていると、犬の方が今度は質問をしてきた。
「・・・おまえは、今ここで誰と住んでんだ」
「エトヴァス・・・、誰なんだろうね?魔族?」
アリスはエトヴァスのことをほとんど知らない。
ずっとこの城に住んでいるのか、違うのか。どこから来たのか、何をしていたのか。疑問は抱きはじめればたくさんあるのかもしれないが、ここにいて聞かなければならないことでもないので、なにも聞いていない。
世話係のメノウは彼が魔族のなかでは「ビューレイスト」と呼ばれていると言っていたが、アリスはそれにどういう意味があるのかもわからない。だからエトヴァスを誰だと言われても、他人からの共通の評価としてわかるのは、彼が魔族だというそれだけだ。
大事なのはきっと、そんなことではない。
「でもわたしとお話をしてくれるんだよ」
アリスはここに来たとき、声すらろくに出せず、滑舌も悪かった。それは幽閉されていた場所では誰とも話す機会がなかったからだ。
会話ができるようになるまでに、驚くほど時間がかかった。それに根気よく付き合ってくれたのは、エトヴァスだ。アリスが声を出す機会を提供するために、様々なことを教え、尋ねてくれた。だから、アリスはエトヴァスが話をしてくれるのを聞いているのが好きだ。
エトヴァスの言葉がわからなくても、その声を聞いているだけでも楽しい。
「最近帰ってこないのはさみしいけど、勉強も教えてくれるし、本も読んでくれるし、一緒に寝てもくれる」
嫌な顔ひとつせず勉強を教えてくれる。頼めば本を説明しながら読んでくれるし、最近はあまり帰ってこないが、帰ってこればまた一緒に眠ることもできる。
帰ってこないのが寂しいとアリスが言っても、魔族の彼がその寂しいという気持ちを理解してくれることはきっとないだろう。でも彼はアリスを無視しない。抱きしめて欲しいと言えば、なんの感情もないけれど抱きしめてくれる。身を寄せれば、拒まない。
もしかすると寂しいから傍にいて欲しいと泣けば、傍にいてくれるのかも知れない。
アリスは彼の食糧で、彼はアリスが美味しいから、少しでも長く生きてほしいと言っていた。だから体調や気持ちにわからないなりに気を遣ってくれる。
でも、だからだ。あまり困らせたくない。
「わたしの大事なひとなの」
アリスを食糧にしていても、外で何をしていても、アリスにとって大事な人であることに変わりがない。アリスには彼しかいない。だから、アリスは彼が誰なのか知らなくても良いと思っている。大事だから困らせたくない。
「だから誰かはよくわからないけど、自分でどんな人か、わかってれば良いかなって」
アリスの言いたいことは、少しでも伝わったのだろうか。
誰かというのはきっと、他者からの評価になる。アリス以外の他者だ。だから別にどうでも良い。アリスは自分の目で見て、感じて、エトヴァスがどんな人か知っていればそれでいいと思う。良いと思うことにしている。
「・・・」
その「わんちゃん」はしげしげとアリスを不思議そうに見ている。アリスは誤魔化すように笑って見せた。