07.トール①
トールがヘルブリンディの殺された人間の妃のことで覚えているのは、美人だったと言うことだけだ。
トールは胸が大きいことを「美しい」と思っているので、つまるところヘルブリンディの妃は胸の大きな「美しい」女だった。
魔力はそこそこ。
エトヴァスの食糧兼妃のアリスには遠く及ばないどころか雲泥の差だ。まぁ普通の人間よりは食べたら美味しいだろうなくらいだった。
だからヘルブリンディが彼女にあれほどこだわった理由はわからなかった。
『美味しいし、めっちゃいいんだよー。綺麗だしな』
ヘルブリンディの言う「綺麗」ってなんだろう。
トールにはよくわからなかったが、ヘルブリンディが楽しそうだったのでそれでいいんだろうと思っていた。
それからもトールとヘルブリンディはよく遊んでいた。
人を殺して、喰って、暴れて、いつもどおり。魔族は浮気も普通で、性欲の強い生きものだから、女を買ったこともある。トールとヘルブリンディはよく似ていて、彼とやることはいつも自分も楽しめた。
彼が屋敷に寒桜と呼ばれる、トールにとってはただの「木」を植えたのは、そのころだ。
いくつかの山からとってきて、大きなそれを魔族の怪力に物を言わせて植えていた。それを望んだのは、人間の妃だったと言っていた。
ただの「木」に何の意味があるのか。トールにも、きっと妃に望まれて植えた本人のヘルブリンディにもよくわからなかっただろう。
『ひとりだととてもさみしいでしょう?』
たまたまやってきたトールに、女は儚げに微笑んでいた。でもその「さみしい」という言葉に、トールはバルドルの母親を思い出した。
亜麻色の長い髪に琥珀色の瞳の人形のように整った顔の人間の女だった。
その女をまだ魔王ではなく魔族の将軍だった父オーディンがこれ以上ないほど寵愛し、囲っていたのは知っていた。ただもともと魔族は他人に興味のないものだ。
父に固執していた母が何故か鮮烈にこのバルドルの母親である人間の妃を嫌っていたのは知っていたが、当時もう500歳を超した大人の魔族だったトールにはどうでも良いことだった。
ただ、トールの母が人間の妃を殺そうとし、腕を奪ったことで話は変わった。父オーディンがトールの母とその一族を族滅しようとした。トールも母のせいでその中に入っていて、当時トールは父に抗うほどの強さはなかった。
あぁ、自分の人生もここで終わりか。
力がすべての魔族のなかでは、親子関係などさして意味はない。それでも父が母とその一族を族滅しようとしたのは、人間の妃に手を出した魔族に対する見せしめだった。トール自身父に慕わしさもなかったから、単純に弱い自分が残念だなと思っただけだった。
それなのに驚くべきことに、死の順番を待つトールを助けたのは、トールの母に殺されかけたその人間の妃だった。
『私はどうせ、あと百年もしないうちに息子を置いて逝くのよ』
彼女はどうして助けてくれるのか問うたトールに、その人形のように整った顔で笑った。
『数千年をともにできる貴方の方が、私の息子にはきっとさみしくないわ』
トールにはその言葉の意味がわからなかった。
人間は魔族と違って寿命が短い。でも「さみしい」ってなんだろうか。そう、トールたちには人間が、他種族がわかる多くの感情が理解できない。
理解できないからこそ、共存できない。
それでも事実としてトールはバルドルの母親に助けられた。だがトールがその「さみしい」という感情を理解する前に、バルドルの母親は当時の魔王に追い詰められ、自害した。
心の中にしこりのように残った「さみしい」という言葉と笑顔を思い出しながら、トールはどうすれば良いのかわからなかった。
わからないまま、あの日が来てしまった。
『・・・なんで』
ヘルブリンディの震える声を聞いたのは、はじめてだったかも知れない。
女に張られた結界が破られたのがわかったとき、ヘルブリンディははじめて真っ青な顔をして、そのまま自分の屋敷に帰った。いつも楽しそうな彼の顔があんなふうに変わるのをトールが見たのははじめてだった。
そして同時にそれが彼との最後になった。
あのとき彼を追えば良かったのか。いや、もっと気をつけて人間の妃を守ってやれば良かったのかも知れない。そしたら今も、彼と一緒に楽しく馬鹿騒ぎが出来たのか。
ヘルブリンディは三百年もの間、トールの前に姿を現さなかった。
トールは継続してものが考えられるほど賢くない。ただふと何かの拍子に思い出しては、ずっと考えていた。隣にいた男の消失を、自分のなかのなにかがぽっかりとなくなってしまったことを、ふと思い出すことがあった。
そしてその彼が目の前にいたとき、トールは何か心のなかが満たされた気がした。
「久しぶりだな」
唐突に現れたのは、明るい金色の短い髪の男だ。
身長はエトヴァスよりほんの少し低いぐらいだが、彼よりも遙かに体格が良く、体も筋肉質であるためエトヴァスより大きく見える。瞳の色も彼と同じ翡翠だ。こういうよく似た容姿をみていると、ヘルブリンディとエトヴァスは両親ともに同じ兄弟なんだなと思わされる。
「ヘルブリンディ!ひさしぶりじゃねぇか!」
トールは声を張り上げた。するといつもどおりカラカラと笑って、「あぁ」と彼は頷いた。
それすら嬉しくて、くるりとエトヴァスやバルドルを見ると、二人は得体のしれないものでも見るような目で、ヘルブリンディを見ていた。
「おぉ、ビューレイストよ!」
ヘルブリンディは大げさに兄であるエトヴァスを見てそう言った。
「ビューレイスト」とは、エトヴァスの魔族としての名だ。「エトヴァス」と名乗りはじめたのは百年前、エトヴァスが人間と暮らすときに「ビューレイスト」という魔族の名前が人間のなかでもあまりに有名すぎたためだった。
当然300年前から引きこもっているヘルブリンディは、彼が「エトヴァス」と呼ばれていることすら知らないだろう。
「ビューレイスト、腕のそれはなんだ?」
ヘルブリンディはエトヴァスが抱えているアリスに目を留めた。
アリスは疲れたのか、結界を破ってしばらくすると眠ってしまっていた。周辺にいた魔物を始末する間も、エトヴァスに抱かれたまま爆睡だったが、今も眠っている。
「俺の妃だ」
ビューレイストは少し考えるそぶりを見せてから、口を開く。ヘルブリンディは「・・・人間か?」と聞いた。
「人間だ」
「そうかそうか。俺の妃も人間なんだ。是非会っていってやってくれ」
そう言ってヘルブリンディは全員を屋敷への道へと促す。エトヴァスは怪訝そうにそれを眺めたが、動こうとはしなかった。
「どうしたんだよ」
トールはエトヴァスに問う。だが答えないエトヴァスにかわってヘルブリンディは笑った。
「ビューレイストののりが悪いのはいつものことだろ。久しぶりにうちによっていけよ。美味い魔物がいっぱいいるぞ」
「マジか!この辺いっぱい住んでんもんな」
ヘルブリンディが踵を返して鼻歌を奏でながら、屋敷の方へと歩き出す。トールはすぐにそれに続こうとしたが、ふと後ろを振り返る。
エトヴァスもバルドルも、一歩も動かない。
エトヴァスはまだヘルブリンディにもよく似た、しかしながら驚くほど平坦な翡翠の瞳で静かにヘルブリンディの去って行く姿を眺めていたが、口を開く。
「・・・実体がないな」
エトヴァスは左手に持っている剣は消すことなく、片手でアリスを抱え直す。それは警戒を怠っていないからだ。
「そうだね。あれは本体じゃない」
バルドルもエトヴァスに同意し、楽しそうに鼻歌をかなでるヘルブリンディの背中をその美しい琥珀色の瞳で睨んでいた。
「え?」
ヘルブリンディには実体がない。それはさきほどの生きているように見える魔族たちと同じだ。
トールは強靱な肉体を持ち、生まれ持った魔力こそ大きいが、魔力探知や魔力制御は苦手だ。だから魔力を通すことで魔術を使える魔導具の金槌を持ち、敵を打ち倒してきた。
だから、実体やら実体でないやらということはわからない。霧の危険性も、ヘルブリンディが実体でないこともわからない。
だが、彼が元気なら実体でなくても良いのではないかと思う。
「それって問題なのか?いいじゃねぇか。別にどっちでもさ」
トールが言うと、エトヴァスは懸念を示すようにアリスを見下ろした。ヘルブリンディについて行くかどうか、決めかねているらしい。バルドルも腕を組み考え込んでいる。
ヘルブリンディもついてきていないエトヴァスやバルドルを振り返った。そして彼は声を張る。
「ビューレイスト、安心しろよ。俺、おまえの妃は襲わねぇよ。それにロリコンの趣味ないし!」
「・・・は?」
「だから会ってきてやってよ!人間なんていねぇから、いつもさみしがっててな。話し相手もいないしな!」
先ほどもそうだったが、ヘルブリンディは嬉しそうに人間の妃が生きていると話している。
「妃がさみしいと言うなら、おまえが話し相手になってやればいい」
「俺はいつもでかけているからさぁ」
エトヴァスが無表情で返せば、ヘルブリンディは少なくともずっと自分の領地にとどまり続けているはずなのに、遠くに出かけているかのように言う。エトヴァスとバルドルがますます険しい表情になった。
だがトールは良かったと思った。きっと人間の妃は生きているのだろう。
「だからたまには来いよ、兄弟」
「結構だ。・・・それよりもアリスが少し熱いから、ひとまず俺は帰る」
ヘルブリンディはエトヴァスを誘うが、彼はすげない返事をして腕のなかのアリスにちらっと視線を向ける。彼に抱かれて眠っているアリスの頬は、いつもより少し赤いようにも見えた。
バルドルがすぐに反応する。
「え、風邪?」
「わからん。だがさっき結界の魔力に当てられた可能性もある」
「僕はそんな気はしないけど、案外人間の子供だし、温めすぎとかかな」
バルドルはエトヴァスの言葉に少し慌てたようにエトヴァスに抱かれているアリスのもこもこの帽子をとって、額に手を当てる。眠っていたアリスが薄目を開けた。
ただまだ眠たいらしく、エトヴァスに抱かれ、彼の肩に頬を置いたまま目だけで辺りを見回した。
今日のアリスは毛皮のコートともこもこの帽子、手袋、足下はブーツと雪のなかのため、完全防寒だ。雪のなかでも薄い長袖シャツ一枚のトールはすごい重装備だと思っていたが、人間の子供の体温管理など考えたことないのでそんなものだと思っていた。
「バルドル、おまえどう思う」
エトヴァスはその、ヘルブリンディによく似た翡翠の瞳をバルドルに向ける。
「ちょっとごめんね」
バルドルは渋い顔で腕を組んだが、ため息をついてアリスの亜麻色の髪をかきあげ、うなじに触れる。
「まぁ汗かいてるし、アリスは子供だから温めすぎだとは思うけど、少し熱いから熱が上がってくるかも知れない」
「熱?・・・それより寒桜は?」
アリスはそれよりも寒桜の方が寝ぼけていても頭にあるらしい。だが、すぐにヘルブリンディの姿にビクッと肩をふるわせた。
アリスは幼い。だからエトヴァスやバルドルよりもずっと相手に対する態度はあからさまだ。
トールはアリスがその特徴的な紫色の大きな瞳でヘルブリンディを映し、途端に恐怖と困惑をその表情に浮かべたのを見て、ぎゅうっと胸が痛んだ。
それは、トールがヘルブリンディが変だと言うことを認めた瞬間だった。