06.アリス
無人の廃墟を話しながら歩いて行くと、結界が見えてきた。アリスがそれをぼんやりと眺めていると、エトヴァスに背中を叩かれた。
「アリス、下りろ」
エトヴァスに促されるまま、アリスは雪の上に足をつき転ばないように気をつけながら結界を見上げた。
見る限り大きな結界だ。
恐らく山全体を覆っている。内部の様子は結界のせいでわからないしよく見えないが、確かにアリスの魔力探知で見たり感じたりする限り、どうやら魔物が結界内から出てきているようだった。
「アリス、結界に近づくな」
エトヴァスが注意をする。アリスはぼんやりと大きな結界を眺め、胸を押さえる。
「なんだか、悲しそうな結界だね」
「何故そう思う」
「・・・わからないけど」
自分ではよくわからないが、アリスは結界を見てそう感じた。
なにやら悲痛さを感じる結界だ。何故かはわからない。だが、アリスには今にもこの結界から悲しみと悲鳴が聞こえてくるような気がして、触れる気にはなれなかった。
「・・・」
エトヴァスが考え込むようにこちらを見下ろしている。ぼんやりと金色がかった翡翠の瞳を見上げ、アリスは首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、もう少し分析が必要だな」
エトヴァスはそう言って、すたすた結界の周囲を歩き出していってしまった。
「なかは魔物の巣窟だろうね」
バルドルは肩までで切りそろえられた自分の白銀の髪を冷たい風に揺らしながら、ため息をつく。中に魔物もいるようだから、これからヘルブリンディの屋敷に入るまでの困難を考えればげんなりするのだろう。
アリスはというと、なにもすることがないので結界をぼんやりと見据えた。
構造式のよくわからない魔術だ。これほど大きな結界なら構造式が少しぐらい見えてもおかしくないのに、綺麗に隠れてなにも見えない。エトヴァスは分析がうんぬんと言っていたが、構造式も見えないのにどうやって分析しているのか、アリスは何か見えないかと結界をじいっと眺めた。
「あー、早く暴れてー」
トールは飽きてきたのか、腕を頭の後ろで組んで退屈そうに体を揺らす。アリスは何か見えないかと結界の周囲を少し歩いたが、そこで気づいた。
「あれ?」
結界のなかに、女の人が見える。遠くてよくわからないが長い髪が揺れていて、アリスに手招きをしているように見えた。
「・・・」
なかへ手招きなど、怪しいに決まっている。アリスは一歩も動かない。だがアリスが来ないのがわかると、あちらの方から近づいてきた。
やってきたのは、美しい女性だった。
波打つ淡い桃色の髪に空色の大きな瞳。目鼻立ちは整っていて、胸が大きく、アリスの頭くらいのものが二つ胸についていた。足下まである白いドレスを着ており、アリスを静かに見ている。
誰なのだろう。
アリスは一歩、結界へと歩み寄る。
彼女は結界内にいるのでアリスの魔力探知ではなにもわからない。ただきっと魔族だろう。
ここに住んでいるのはヘルブリンディというエトヴァスの弟の魔族で、彼は領内にいる他の魔族を皆殺しにしたと聞いている。だからいるのはヘルブリンディだけのはずで、きっとなかにいるのは男の人だけだと思っていた。
この綺麗な女性は誰なのだろう。
歩み寄ってきたので、表情が見える。その顔はあまりに嬉しそうで、同時に酷く悲しそうで、アリスは首を傾げた。
かわいそうに
彼女の唇が動く。結界のなかから声が聞こえるはずもないのに声が耳に届いた気がした。
目の前の女性は大人なので、アリスより遙かに身長が高い。結界を挟んで間近で長く揺れる淡い桃色の髪や大きな胸を眺めながら、アリスは真剣に考える。
外からなかの様子はうかがえないが、なかからは魔力探知ができるのだろうか。彼女はアリスが人間だというのがわかるのかも知れない。
この結界が張られたのは三百年前、ヘルブリンディが惨劇を引き起こしたときだという。当然なかにいる彼女は、ここ数年で現れたアリスなど知らないだろう。もしくはなかにいても案外外のことがわかるということなのだろうか。
アリスが思案をめぐらせていると、ふっと細い手がアリスに伸びてきた。結界から、細く長い手だけが出てくる。
「え、」
アリスは一歩下がるが、それより手の方が早い。まずい、触れられる。そう持ったとき、その細い手はアリスをすり抜けた。
「・・・あれ」
アリスが首を傾げると同時に、何かがアリスのなかに入ってくる。
触れられたわけではない。この手はアリスに触れることができない。なのに、手から伝わる魔力で、記憶で、アリスはこの結界の本質がわかってしまった。
言葉や涙が出る前に、アリスの細い腰に力強い腕がまわる。そのまま後ろに引っ張られた。
「失せろ」
低い声が響き、エトヴァスの魔力が相手へと襲いかかる。
「これは俺のものだ」
誇示するような、落ち着いた力強い声。途端にばりんと結界が壊れる音がした。
女性は少し驚いたように目を丸くしたが、罅の入った結界の中に空振りした手を引っ込める。まだ彼女はアリスを見ていた。だがエトヴァスを見てから、また悲しそうに、でも酷く嬉しそうに笑った。
割れた結界の隙間から、霧のようなものがあふれ出す。女性の姿が、消える。
「だから結界に近づくなと言っただろう。魔力に当てられたな?」
エトヴァスがアリスを心配するようにアリスの前に膝をつき、アリスへの影響を探るように大きな手でアリスの頬を撫でる。
「防御魔術がはじかなかったということは、おまえに危険はないはずだが、大丈夫か?」
「う、うん」
「なら来い」
エトヴァスが腕を伸ばしてきて、アリスを抱き上げる。アリスはうなずき、先ほど受け取った”何か”を誤魔化すようにエトヴァスの首に腕を回した。
破れた結界のなかから噴き出していた霧がおちつく。
だが霧は完全には晴れず、エトヴァスの腰あたりまでモヤモヤと残っていた。アリスはまだ身長がエトヴァスの腰より少し上くらいまでしかないので、霧のなか歩けば頭しか見えないだろう。
「・・・怖い、」
アリスにはこの霧が何なのかわからない。だが、とても怖いものの気がしてアリスは手が震えるのを感じた。
「大丈夫だ。心配するな」
エトヴァスは短く言って、あたりを見渡す。
霧でよく見えないが、結界があったときには見えなかった山の中腹に屋敷があるのが見える。茶色っぽい煉瓦造りの屋敷だ。足下は見えないが、結界が雪を遮っていたのか、雪はない。
ただうるさい魔物の鳥の鳴き声に混じって、声が聞こえる。
領主様の館はあそこだな?
うん。荷物を運ばないと
人間のお妃様はオーディン様以来?
そうらしいわ。よくわからないけど、どうせ見られないわよ
魔族だろう。領民の話し声とともに、霧のなかをたくさんの人が歩いて行く。それはまるで本当に生きているようだった。
「えー、なんだ。いっぱい魔族がいんじゃん。殺されてねぇじゃん」
トールが大きな声を上げる。だが違うとアリスは思った。
「これは・・・」
この霧が魔力探知を阻害しているのか、はっきりしたことはわからない。だが彼らには体温も活力もなにもなさそうだ。
そう、生きてなどいない。
「・・・誰かの、記憶?」
アリスはおずおずとエトヴァスに尋ねる。
「正解だ」
エトヴァスは答えて、自分のブーツのつま先でとんっと地面を叩く。その途端に彼の足下とその周囲だけ1メートルほど霧が晴れた。
この霧は魔力探知を阻害しているため少しでも晴らさねば周囲の探知もままならない。
だが、アリスが顔を上げるとエトヴァスは少し考え込むような顔をしている。どうやら霧を晴らしたつもりが自分の望むほどの成果が得られなかったらしい。
「エトヴァス、この霧はどうにかなりそうか?」
バルドルが霧の中からやってきて尋ねる。彼もこの霧を警戒しているようだった。
「無理だな。これだから奴は面倒くさい」
「仕留められると思うか?」
「おまえの出来しだいじゃないか。俺は寒桜を見れば帰る」
エトヴァスはヘルブリンディの屋敷の寒桜を見たいといったアリスの望みをかなえてくれるためにここに来た。結界を破ったのはあくまで屋敷に行くためで、それ以上でも以下でもない。
魔王であるオーディンは、ヘルブリンディの領地の結界をどうにかしたいようだった。はっきりと書かれていなかったが、シヴもだろう。彼女はトールの妃で、現実的な女性に見えた。トール以上に彼の領地の状況を把握しているのだ。
その上でふたりとも、結界を破る方法を求めていた。
エトヴァスとアリスはそれぞれ違う方法で、結界を破ることができる。
ただそれがほかの魔族には到底出来ないことなのだろう。アリスが自分の隠し球を披露して破ることは、エトヴァスが許さない。だからといって何にも興味のないエトヴァスがアリス以外の他人のために何かしてやることもない。
だから、アリスは素直にシヴからもらったヘルブリンディの領地の寒桜の絵を見て、それを見てみたいとエトヴァスに願った。
シヴはきっと、アリスの興味を引こうとしたのだろう。
寒桜の他に山や屋敷の内装、絵画などの話もしてきていた。いずれかがアリスの気を引かないかと賭けたのだ。
アリスはそれに乗った。
寒桜を見てみたいと思ったのは本当だし、シヴの息子のオレルスからヘルブリンディの惨劇がどんなものであったのか聞いたことはあったが、実際にその場所を見てみたい、出来れば人間の妃の人となりでも知りたかった。
『あぁ、ヘルブリンディの惨劇って知ってっか?人間の妃を、他の妃が殺して、将軍のヘルブリンディが、領民も含めてみんな皆殺しにしたんだ』
領地管理人の息子であったオレルスはそう言って、人間でありながら将軍の妃となったアリスを心配してくれた。
『いらないことを聞かせてくれたと思っただけだ』
エトヴァスはアリスに怪我をさせたことがあるオレルスが嫌いだ。ただエトヴァスの彼に対する評価は正しい。
アリスはヘルブリンディの惨劇の話を聞いていたから、オーディンやシヴの手紙でヘルブリンディの領地の話が出てきたときに、行ってみたいと思った。
アリスは純血の魔族であるエトヴァスの、人間の妃だ。
他の将軍の人間の妃の最期が悲しいものだとしても、アリスの不安もあおるものだったとしても、同じような事例を知りたいと思うのは当然だ。
エトヴァスはアリスが寒桜を見に行きたいと言えば、それを受けいれてくれた。だが純粋に寒桜に興味があるとは思っていないはずだ。
それでも、気づかないふりで付き合ってくれる。
かわいそうに
消えた女性は、アリスにそう言った。魔族からも人間からも言われたことがある言葉だ。
アリスはもともと母親によって要塞都市の対魔族結界の動力源にされ、窓もないような部屋に閉じ込められ、人と関わらずに育った。挙げ句の果て結界が破壊されるとすぐに、魔族の食糧としてエトヴァスに差し出された。
そうしてエトヴァスのところで食糧として過ごすようになって、もう一年たつ。
その境遇は一見すると可哀想だろう。だが、アリスは自分をまったく可哀想だと思わない。
アリスは長く一室に閉じ込められ、眠らされていたため、エトヴァスのところに来た頃ほとんど声が出なかった。歩くどころか座ることもできなかった。
今話せるようになった。歩けるようになり、教育もまったく受けていなかったのに文字を書き、魔術も使えるようになった。いずれもエトヴァスがアリスに教えたからだ。
エトヴァスは自分が生きている限り食糧も妃も、アリスひとりで良いという。
莫大な魔力を持ち、母親ですら、同族である人間すらアリスを捨てたのに、アリスを外の敵から守って、一番大事に扱ってくれる。それが食糧としてでも、なんでもいい。
捨てられるんじゃないかと思って酷く不安にはなるけれど、アリスはそれでも胸を張って可哀想ではないと言える。
「エトヴァス」
「なんだ」
名前を呼べば、すぐに反応してくれる。
「なんか・・・ねむたい」
アリスはエトヴァスの首に手を回す。
寒いけれど、抱き上げてもらってエトヴァスに体を沿わせているとコート越しでも温かいし安心できる。彼はいつでも外の敵からアリスを守ってくれる。
「おまえ、そんな悠長なことがよく言えるな」
エトヴァスからはあきれたような声が返ってくる。
周囲の霧からいくつもの影が出てくる。それは先ほどの幻影のようなものだけでなく、実体を持った魔物の存在も見えて、エトヴァスがアリスを抱えていない左手で剣を構えていた。
「だって、もうねむ、た」
朝から鳥の魔物もたくさん倒したし、雪のなかも随分歩いたのだ。もともと幽閉されて育ったアリスは体力がない。だから疲れで眠たくてたまらない。もう限界だ。
アリスは目を閉じた。
どうせエトヴァスのことだから、アリスが眠ってしまっていても問題ない。起きたときどんなところにいるのか、それだけを楽しみにすることにした。