05.エトヴァス
エトヴァスがアリスを抱いて歩いていると、少し開けた場所に出る。
「あれはなに?」
アリスは先ほどまでエトヴァスの肩に頭をもたせかけていたがぱっと顔を上げ、首を伸ばした。エトヴァスたちの歩いて行く方向には、雪に半分埋もれ、崩れかけた四角い石の積まれた場所がある。
廃墟だ。
「これは家の残骸だな」
「・・・え、骨とかもあるの?」
「骨は人間だと数十年、魔族でも百年ほどで自然分解される」
「え、でも残るって歴史の本に書いてたよ?」
「偉いやつの骨は、こんなところに転がってはいない」
エトヴァスがアリスに読んでやるのは歴史書など自分が読んでいる本ばかりで、先日はじめてトールの妃のシヴから贈られてきた童話を読んでやったくらいだ。
そのためアリスの残っていると思っている骨は、歴史書に載るようなお偉方の骨ということになる。丁重に扱われた骨だ。
普通の骨など適当な保存しかされていないので、あっという間に、はやければ数年で男女すら判別不能になる。ましてやこんな微生物たっぷりの土と接触していればなおさらだ。
「それよりも、その話を何で知ってる」
「その話?」
「なんで骨があると知っている」
骨が落ちていないか心配していると言うことは、ここで死人が出たことをアリスが知っていると言うことだ。
アリスは四歳から幽閉され、昨年魔族のエトヴァスに食糧として差し出された。人間としてですらまともな教育を受けてきていないアリスは、当然エトヴァスが教えたこと以上に魔族の社会のことを知るはずがない。
ましてや人間の妃に関わるヘルブリンディの惨劇について、エトヴァスはアリスに教えたことがない。
なのに、アリスはこの領地の住民が三百年前に殺されたことを知っている。要するにいらないことをアリスに教えた生きものがいることになるだろう。
「えっと、オレルスが教えてくれた」
アリスは少し躊躇いがちに答えた。
オレルスはアリスが数日仲良くしていた、エトヴァスの領地の南部の領地管理人の息子だ。将軍のひとりシヴの息子でもある。アリスに怪我をさせたこともあるので、エトヴァスは名前を聞くだけで不愉快になったが、そっとアリスの小さな手がエトヴァスの頬を撫でた。
「怒らないで」
「別に怒っていない。いらないことを聞かせてくれたと思っただけだ」
エトヴァスがそう思うのはヘルブリンディの惨劇の引き金になったのが、人間の妃の暗殺だからだ。アリスも人間で、まだ十一歳だが、エトヴァスの妃ということになっている。同じような境遇の相手が殺されたと聞けば、気分は良くないだろう。
いまだに母親や人間に捨てられ、魔族に差し出されたことに傷つき、夜泣きを繰り返すアリスをまた酷く傷つけるかも知れない。怯えさせるかもしれない。
エトヴァスは以前なら事実は事実で、本人が聞いて判断すれば良いと思っていた。だがアリスが夜眠れなくなるほど傷つくのを見て、アリスが傷つくような物事からはあらかじめ遠ざけておきたいと思うようになった。
ただアリスはなんでも聞きたがるので困る。
「でもエトヴァスからヘルブリンディの話は聞きたいな」
アリスはぎゅっとエトヴァスの首に腕を回してくる。後ろを歩いていたバルドルがそれを聞いてふきだし、声を上げて笑った。それがアリスなりのエトヴァスに対するご機嫌取りだとわかっているからだ。
ただ感情の起伏に乏しいエトヴァスにはそれがわからず、バルドルがなぜそんなに笑うのかと首を傾げる。
バルドルはエトヴァスの従弟で幼い頃は一緒に狩りに行ったこともある。そのため昔から賢く穏やかな気質であることは知っているが、こんなふうによく笑う男だっただろうか。
「子供らしいな」
バルドルはまだなにかおかしいのか、口元を手で押さえている。
エトヴァスはそれを眺めながらヘルブリンディの惨劇についてアリスになんと説明すべきか悩んでいると、後ろから明るい声が響いた。
「俺が説明してやろうか!?」
トールが笑って近づいてくる。
「・・・トール、君は空気を読むという言葉を知っているか?」
バルドルが額を押さえていた。恐らくアリスとエトヴァスの会話を邪魔したからだろう。ただトールはバルドルの言葉の意味がわからなかったのか、そのくるりと丸い若草色の瞳を瞬いた。
「なんだそれ。俺、ヘルブリンディと友達だったんだから、俺が説明するのがよくね?」
「俺はおまえにお友達という概念があることにびっくりだ」
エトヴァスはトールの話がわからず、首を傾げる。
魔族は個人主義の塊だ。そもそも魔族は感情の起伏も乏しく、愛着や共感性など相手を必要とするような感性に乏しい。「悲しい」、「さみしい」など情緒的な形容詞はほとんどわからない。その傾向は純血の魔族に近ければ近いほど顕著になる。
トールは混血だが四分三が魔族、ヘルブリンディもエトヴァスの弟で純血の魔族だ。
感情の起伏に乏しい魔族にはたしてそんなたいそうな友情があったのか、エトヴァスには大いに疑問だった。
実際にエトヴァスにも友人などいないし、今、トールは「友達」と主張しつつも、その「お友達」であるヘルブリンディの討伐に来ているわけだ。
「いやだって、ほら、なんだ。あいつ良い奴で、一緒に人間の都市落としに行ったり、酒池肉林したり、女ひっ捕まえて犯したり、マジ楽しかったんだ」
トールは大らかな笑みでアリスに説明するが、バルドルの表情が話が進めば進むほどどんどん険しくなる。それが幼いアリスを前にしているからだと言うことは、感情の起伏に乏しいエトヴァスにも社会的規範に基づいた良識くらいはあるので理解できた。
アリスはまだ十歳だ。その子供を前に「酒池肉林」や「女ひっ捕まえて犯した」などというのは、さすがに口をつぐむべきだろう。
アリスは不思議そうな顔をしているが、黙って話を聞いている。
エトヴァスはアリスを抱いて淀みなく歩きながら、ふと違和感があり足元を見た。
雪に埋もれた足下には、皿かお椀なのか、食器が踏みつけられていた。周囲には殺された魔族たちの生活のあとも残っているので、それに気づくよりはアリスがトールの話に夢中になるのは良いかもしれない。
まだ遠いのだから、アリスに今から怖がられていても困る。
「んでさ、人間の妃見つけたの!美人だったんだぜ!」
「おまえ、美人なんて概念があるのか」
トールの話はエトヴァスからしてみれば突っ込みどころが満載だ。
魔族は基本的に感情の起伏に乏しいので、情緒的なことはほぼわからないのが常だ。そのためエトヴァスは他人を左右対称の顔だと考えたことはあっても、「美しい」と思ったことはない。「美しい」という概念が理解できないのだ。
だがトールはあっけらかんと答えた。
「ほら、むねでっけぇのが美人だろ?」
「そうか」
一般的な「美しい」の概念ではないのだろう。それくらいはエトヴァスにもわかる
恐らくトールはどこまでも言語の定義が非常に曖昧で、細かく気にしても仕方なさそうだ。だから馬鹿の会話は聞くのが面倒だとエトヴァスは思う。
バルドルの眉間の皺はもはやこれ以上ないほど深く、トールを止めるまでにあと少しといったところだろう。
「別になんも思わなかったんだけど、ヘルブリンディの人間の妃って、・・・こー、今考えたら、それなりに魔力あったから美味しかったと思うし、食欲的にも、性欲的にもあいつにあってたっていうか」
「トール、子供の前なんだからせめて・・・ヘルブリンディが人間の妃が好きだったと表現してくれ」
トールがあっけらかんと言ったのを、バルドルがとうとう耐えきれなくなってきたのか言い換える。
馬鹿のくせに内容だけ大人なので、なおさら問題がある。馬鹿な大人というのは、子供からできる事ことや言うことの範囲が増えただけで、中身はちっとも変わらないものだ。
分別のない大人ほど始末に負えないとエトヴァスも思うので、バルドルの不快な顔もわかる。
「あー、まぁ特別性欲出てくるくらいだから、好きだったんじゃね?妃にしたわけだしさぁ」
トールには多分バルドルの、子供の前だから言葉を控えろという意味がまったくわからなかったのだろう。
魔族は食欲と性欲に忠実で、強い衝動がある。そのため魔族は比較的性に奔放だ。
10代前半には自慰を覚え、なかばには相手を持つ。大人になっても男女ともに複数の相手を持つことが社会的にも許容される。
それは魔族で十二人しかいない将軍たちも同じで、トールには自身も将軍である妃シヴがいるが、彼女との間以外にもふたりの子供がいる。それに対してシヴもトールとの間にひとり、他の男の間にひとり子供がいる。これが魔族の普通の魔族だ。
エトヴァスは生憎普通からそれている。他人に性欲を感じたことがなく、千年間生きてきて継続した性欲発散の相手は複数どころかひとりもいない。ただ食糧であるアリスに固執しているのはわかっているので、きっとそれが性欲も同じようなものなのだろうと想像だけしてみる。
そう思えばトールが表現する「好き」とは、莫大な魔力を持つアリスがエトヴァスにとって美味で他より魔族にとって滋養があるように、ただの性欲の発散相手として何かが良かっただけだろう。
そういう点では「美しい」のは胸の大きい良い体の女だと言っているトールの解釈は、あながち魔族としては間違いではないのかも知れない。
彼の性欲発散の基準がそれなのだろう。
「ところがさぁ、他の妃が、妊娠中のその妃を殺しちゃったんだ」
「・・・え、」
先ほどまで首を傾げてばかりだったアリスが、深刻な話に戸惑った声を出す。
「俺らってさぁ、多分、泣いたりできねぇけど、なんかあると、食欲とか性欲とかで発散するんだよな」
トールは俯いて、とつとつと話す。
だが、それは彼の解釈だろう。エトヴァスは発散するほどの情動を感じたことがない。そう思ったが、ふと思い出した。
『オレルスは打つのが上手だったんだよ』
オレルスがラケットでボールを打つのが上手だった。そうしたどうでもいい話を、アリスは領主管理人の息子のオレルスと遊んだ時、つたない言葉で一生懸命エトヴァスにしてきた。エトヴァスとしては彼はアリスに怪我をさせていたし、一緒に出かけたことも心のどこかでは気に食わなかった。広がる不快感に、エトヴァスは一瞬言葉を失ったほどだ。
それなのに楽しそうに彼の話をするアリスにも不快感が膨れ上がっていた。そしてエトヴァスはその不快感、アリスを喰らうことで沈めようとした。
それは、トールの言う感情の食欲や性欲での発散と同じだ。
「でも、その相手、いなくなっちゃったじゃん」
トールは小さく息を吐く。そのか細い声音はエトヴァスよりずっと大きな体をしているのに、迷子になった小さな子供のようだった。
「だからあいつ、自分とこに住んでた魔族、皆殺しにしちゃったんだよな」
「・・・え?なんで?」
アリスはその大きな紫色の瞳をまん丸にして瞬く。
アリスには彼の言う「だから」がわからなかったようだ。妃を殺した相手を殺すならまだわかる。だが、何故領民を皆殺しにするという発想に至るのか。それに戸惑っているようだった。
「なんでって、だって、食欲も性欲もその人間の妃で発散したかったんだよ。でもいなかったからさぁ」
トールはアリスの方を不思議そうに見据える。だがアリスは本当にわからないらしい。説明されても丸くなった紫色の瞳は元に戻らない。
ただエトヴァスにはわかるような気がした。
エトヴァスは自分の不快感をアリスへの食欲で埋めた。だが彼女がいなければ、どうしていたのだろうか。不快感ゆえに何かをしたくなる衝動を何で埋めたのだろうか。何かを殺そうとしたのではないだろうか。
あのときの沸き上がるような感覚がない今では実感がないが、可能性はある。
「・・・魔族というのは、性欲と食欲に関わるところでしか感情を感じられない、そしてそれらがかかわると感情を抑えられない、そういう野蛮な生きものだと言うことだよ」
バルドルは静かに、納得できないアリスに言い聞かせるように笑う。
「人間や、他の生きものの基準では推し量れない」
混血のバルドルですらそう思うのだから、エトヴァスたち純血の魔族は、それほど他種族の価値観では理解できない生きものなのだろう。
バルドルに言われ、アリスはそれ以上そのことについて問おうとはしなかった。かわりに話の続きを求める。
「そのヘルブリンディさんは、どうなったの?」
「あれからもう、出てこねぇよ。百年前の魔王を決める将軍会議にすら、出てこなかったんだよな。食糧もねぇはずなのに」
三百年、ずっとそのまま。どうなっているのかは、誰も知らない。
エトヴァスにとって、ヘルブリンディは弟とはいえ他人だ。
安否を確かめようと思ったことすらないし、アリスにヘルブリンディの屋敷にある寒桜が見たいと言われなければ、彼の様子を探ろうとすら思わなかっただろう。事実、誰もが三百年もの間ヘルブリンディを放っており、魔物が出るなど実害があってはじめて動いている。
魔族とは、それほど他者に興味を持たない。そういうものなのだ。
「それ、いつのまにか死んじゃってたりしないの?」
エトヴァスに抱かれたままのアリスは、再びエトヴァスの肩に頬を押しつけて尋ねる。それを即座にバルドルが否定した。
「それはないよ。上位の魔族は魔力がなくなって、ある程度肉体を消さない限り死ぬことはない。三百年は魔族とってそれほど長くはないんだよ。まぁ、飢えてはいるだろうし、もう何を喰っても手遅れだろうけど」
バルドルはアリスに言って、ため息をついた。そこに含まれる憐憫は、朽ちない体と長い寿命にたいする嘆きだ。
長い寿命にうんざりするのは魔族ならば誰でも一緒だ。
抱える空虚感と退屈は永遠とも思える時間を知るからこそで、人間のアリスには一生わからないだろう。老いて悩むことすら、時とともに生きる証だ。
だがエトヴァスは逆に感情の起伏に乏しいからこそ、魔族は長い時を生きていられるのかも知れないとも思う。
時間という動体に対し、自分だけ動いていないような、すべてにおいていかれる感覚は長命ゆえであり、それが喪失といった感情的な傷をともなうのであれば、なおさらつらいだろう。
エトヴァスはアリスと同じ紫色の瞳をしたエルフを思い出す。
エトヴァスが喰った人間の男の伴侶だった彼女は、人類と呼ばれる感情豊かな生きものだが、長命で知られるエルフだった。
『人間となんて、生きるべきじゃない』
男を失った女は、エトヴァスにそう言った。
『生きるべきじゃなかったんだ』
悔恨を語った彼女は、きっと男と過ごした10年足らずの日々に後悔しか覚えなかったのだろう。
だが逆に短い命を知っていた男は残される彼女のことをどう思っていたのだろうか。エトヴァスは男に興味がなかったので、聞いたことがなかった。
「そっか・・・、簡単に死ぬこともできないんだね。可哀想に」
アリスが酷く悲しげな表情で、同情の気持ちを示す。
ただそれは感情豊かな人間のものだ。魔族にはわからない。案の定、トールはアリスの言葉に小首を傾げた。
「可哀想とかわかんねぇの。俺はさ、」
トールは、あっけらかんと返した。
「でもさ、俺、ヘルブリンディがいなくなってはじめて、あいつと暴れるのは結構楽しかったなぁって思ったんだよ」
ヘルブリンディが領地に引きこもり隣にいなくなったことは、トールにとってなにか変化を生むものだったのだろう。
おそらくトールとヘルブリンディは、何百年も一緒にいたのだろう。そしてその相手がいなくなった喪失感は、感情の起伏の乏しい魔族であっても思うところがあるのかもしれない。
少なくとも、戦いなどの際もそれなりの合理的な役割分けもあっただろうから、感情の起伏の乏しいエトヴァスでもそうなれば面倒にくらいは思うかも知れない。実際に自分のもとにいる家令のヴィントや軍事関係者たちがいなくなれば、たいそう面倒なことになるだろう。
それでも単に困るだけだ。
そう考えながらエトヴァスはふと、腕に抱くアリスの温もりを意識し、心が澱むような不快感を抱いた。
アリスは千年以上妃はおろか恋人も愛人も持たなかったエトヴァスがはじめてそばに置き、妃にした存在だ。これからきっと、アリスが百年足らずで死を迎えるまで一緒にいるのだろう。エトヴァスもアリスを失えばなにかがわかるのかもしれない。
そう思うと重さなど変わるはずもないのに、何やら抱いている小さな体が酷く重たく思えた。
「俺さぁ、人間の妃は反対なの」
突然の告白にアリスがビクッと肩を震わせ、顔色を変える。そしてエトヴァスの肩から顔を上げた。エトヴァスの腕に添えられていた小さな手が、確かに震える。
「俺のやることがおまえに関係があるのか?」
エトヴァスはアリスの反応を確認し、即座に平坦な声音でトールに返した。
アリスは他者の評価を気にすることがある。脆弱な人間で、感情の起伏の激しいアリスに精神的負担をかけるのは極力避けるべきで、エトヴァスはアリスを守るためにトールに口を開く。
するとエトヴァスの敵意にトールは狼狽えた表情をした。
「か、関係ねぇよ!でも、でもさ、人間は魔族と一緒にいるには優しいし、弱いし、すぐに死ぬじゃん」
「俺と殺りあえば、おまえも今すぐ死ねるが?」
トールはエトヴァスに逆立ちしても勝てない。もともと相性が悪すぎるのだ。
仮にアリスをつれていたとしてもアリスも今は自身で身を守れるし、魔力砲もある。むしろ肉体的な強さをあてにしているトールは、アリスの、すべてを突き破る魔力砲の良い的になる。
いずれの状況を加味しても、遠距離に目立った攻撃手段を持たないトールはエトヴァスにとって比較的容易に勝てる相手だった。
「べ、別にアリスを殺そうって気はねぇよ!おまえともめても良いことないし!」
トールもエトヴァスに勝てないことはわかっているらしい。降参とでも言うようにぶんぶん手を振って、さらに首を勢いよく横に振る。
ならば結局トールは何を言いたいのだろうか。
エトヴァスはわからなかった。その真意を問い返すまでもなく、トールは焦っているせいか、まとまらない考えを言葉にする。
「もう妃にしちゃったんなら仕方ないしさぁ。性欲ってそういうもんじゃん!」
「・・・?」
「ってかおまえ、性欲あったんだなぁ。人並みだったんだなって思ったんだよ!十歳の子供になんて変態だけどさ!」
トールの話はあっという間に元々話していた内容からそれ、脱線していく。エトヴァスはその言い方に思わず首を傾げる。バルドルもそうだったが、いったい将軍たちはエトヴァスをどんな魔族だと思っているのだろうか。
エトヴァスは魔族がいかに性欲に奔放でも食欲はともかく性欲はたいしてなかったから、そちらの面では千年も生きてきて妃も恋人、愛人、子供もおらず、かなり品行方正な方だ。トールのように手当たり次第女に手をつけたことも誓ってない。
なのに、バルドルもそうだったが、トールもエトヴァスがこんな子供に性欲を抱いていることを疑わないかのような扱いだ。
「ねぇ、エトヴァス、みんな言うけど性欲ってなに?」
アリスがとうとう尋ねてきた。
アリスはまだ十歳だ。年齢に関係はないとも言うが、これは素直に言うべきなのか、言うとしてどう説明すべきかエトヴァスは真剣に考えたが、答えが出る前に後ろからバルドルが口をさしはさんだ。
「それはね、女の人に聞いてね」
見事な責任の押し付けだった。
「女の人?どうして?」
「そういうものなんだよ。こういう話をアリスの前でしたトールが悪いんだけど、こういうのは男は男同士、女は女同士でするものなんだよ。アリスは女の子だからね」
バルドルは非常に上手な言い訳で事態を回避した。とうのアリスはというと怪訝そうな顔をしていたが、「あ!」と声をあげる。
「恥ずかしいことなの?お着替えとかも、女の人は男の人の前でしちゃいけないって言ってた」
「そうだね」
バルドルが答えると、アリスは大きく頷いた。
「前はエトヴァスが着替え手伝ってくれたけど、男の人の前では、恥ずかしいことだから駄目だってメノウが言ってた。おなじだね!」
前半分がいらなかっただろうとエトヴァスは思うが、もはや後の祭りだ。
バルドルが嫌悪感のある眼差しをエトヴァスに向けてくるし、トールは「うわぁ、生々しい」と何とも言えない表情で呟く。
そもそもアリスはエトヴァスのところに差し出された頃、ひとりで歩くことはおろか座ることすらできないほど衰弱していた。当時アリスは魔力の制御もできず魔術も使えなかったので、魔族に世話をさせるわけにはいかない。
だからアリスの身の回りのことはすべてエトヴァスが行うしかなかった。ただそれも世話係で鬼のメノウをつける前の話だ。
致し方ない事情があると説明しても良いのだが、だからといって他人の評価などどうでもいい。
エトヴァスは口を開く気にもなれず、アリスの体を抱き直す。アリスもバルドルやトールの目など気にしていなさそうなので、やはりどうでもいいと思った。