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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
五章 少女、寒桜を見る
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03.バルドル


 バルドルは、自分の異母兄トールを眺める。

 身長は190cmを超えているエトヴァスよりもまだ高く、175センチのバルドルとは二十センチ以上の差がある。体格はがっしりしており、筋肉質で、そのためより大きく見えた。髪はふわふわした赤毛で、いかついのに目元だけ柔和で、丸い若草色の瞳が本当にキラキラと輝いている。

 外は雪だっただろうに薄い長袖シャツに薄汚れたズボンという出で立ちは、服装をあまり気にしない魔族の常識でも寒々しい。

 そして何よりも肩に担ぎあげ持ってきたのは、鳥形の魔物のようだった。

 異母兄の見た目だけを見れば、細身で比較的繊細な顔立ちをしており、白銀の髪に琥珀の瞳であるバルドルとは、誰も異母兄弟などと思わないだろう。

 つまるところバルドルもトールも、母親似なのだ。


「いやぁ、久しぶりだな。ビューレイスト!バルドル!」


 高らかな野太い声に、バルドルはため息をつく。いつもは無表情のエトヴァスですら、目の前でアリスを抱えなおし、眉を寄せている。

 あまりに大きな声に腕の中にいるアリスが起きるからだろう。


「トール、静かにしてくれ」


 バルドルは額に手を当て、容赦なく言い捨てる。

 使用人達が後ろからバルドルをうかがっている。恐らくトールを止めたのだろうが、トールはバルドルがこの応接室にいると聞き、押しかけたのに違いない。申し訳なさそうな使用人が気の毒だった。

 

「すまんすまん!いやぁここに来るまでに手間取ってな。これが土産なんだが」

「うるさい。アリスが起きる」


 今度はエトヴァスがバルドルと同じことを言った。


「すまんな!いやぁ、ここに来るまで大変だった。明日の夕食にでもしてくれ!」


 聞いているのか聞いていないのか、ほぼ同じ答えが返ってくる。言っても無駄だと思ったのだろう。エトヴァスがアリスを抱き直し、立ち上がった。

 純血の魔族というのは感情の起伏がとぼしい。

 そのためイライラすることはないが、即座に合理的な答えを選ぶことが多い。だからエトヴァスは何度言っても無駄ならさっさと部屋に戻ろうと思ったのだろう。

 だがそれをトールが止める。


「おいおいおい、まだ俺が来たばっかりだろ?おまえも喰っておけよ。魔物だから魔力も豊富だぜ?」

「おまえがうるさいとアリスが眠れない」


 いつもどおり平坦な低い声で、エトヴァスは言い放った。

 バルドルがエトヴァスの方を見てみると、エトヴァスの肩に頭をもたせかけているアリスの目がうっすら開いて、珍しい紫色の瞳がぼんやりとあたりを映している。

 だが視線が動いていないので、うるさいから目を開けただけだ。

 エトヴァスにしてみれば久々に会った同族より、食糧の睡眠の方が大事だろう。エトヴァスはアリスの生活習慣を規則正しく管理しているようなので、恐らくまた静かにすれば眠るだろうが、アリスは子供だ。子供は一番尊重されるべきだろう。

 バルドルは仕方なく口を開いた。


「トール。アリスが起きるから、静かにできないなら・・・」

「おぉ、それを妃にしたらしいな!」


 トールはバルドルの言葉も平気で遮る。だがエトヴァスはそれを完全に無視して、部屋を出ようとした。さすがにトールも原因に思いあたったようだ。


「・・・悪かった!悪かったよ。静かにする!」


 声をひそめ、トールはエトヴァスに謝った。

 彼はその翡翠の瞳でトールを一瞥し、立ったままとんとんとアリスの眠りに誘うように背中を叩いた。部屋を出なかったことにトールは安堵したようだが、バルドルはエトヴァスがソファーに腰を下ろさない原因がわかる。

 うるさくすれば、すぐに出て行くつもりなのだ。


「それにしてもものすごい魔物の数だった」


 トールは部下などは連れず、陸路でひとりでやってきたのだろう。

 魔族の将軍を襲えるような手練れなどほとんどいないので護衛は必要ないが、隣り合っているとはいえバルドルとトールの領地の間には山がある。

 山には魔族も住んでいないので、何かと魔物が住まいがちだった。


「・・・まったく、軍隊でも巣が駆除できないともうどうしようもないな」


 バルドルはため息をついた

 特に最近、魔物の数があまりに多い。それが駆除しきれないのが、トールとバルドルの領地共通の大きな問題だった。


「どのくらい酷いんだ?」


 エトヴァスはバルドルに尋ねた。

 魔族の将軍は領地をもち、その地域を管理する領主でもある。そしてその最大の役割は領民を守ることであり、それには魔物の討伐も含まれる。

 定期的に魔族は魔物に襲われないよう、巣などは駆除する。そのため本来魔物に襲われると言うことはそれほど多くない。

 仮に大きな巣があるのだが、地元の自警団や軍隊、あまりに強ければ領主である将軍職にある魔族がすべて排除する。安定した領地経営をしていればそれが普通だ。

 ただそれはあくまで普通の状況にあれば、である。


「魔族の死者が年に百人単位かな」

「それは多いな」

「ヘルブリンディの領地からやってくるんだ。三百年放置しているから、魔物の巣があるんだろうね。山に結界もあるからどうにもならない。だから君を呼んだんだ」


 バルドルはため息が出た。

 エトヴァスは魔族内でも魔術のエキスパートだ。実際に十年ほどの分析の末、人間の要塞都市のひとつクイクルムの対魔族結界を破っている。千年前に大魔術師が張ってから不撓の結界をだ。

 そしてバルドルがエトヴァスに期待しているのもやはり、結界の破壊だった。

 ヘルブリンディの住まう山には破れない結界がある。

 ヘルブリンディはエトヴァスの弟でもあり、三百年前、妊娠中の人間の妃を殺され、領民を皆殺しにしてから、自分の住まう山に結界を張って引きこもった。その山の中腹に屋敷はあったので、それを守るためだろう。

 ただその結界のなかでどうやら魔物が大量繁殖しているらしい。

 結界はどうやら中から外には出られるが、外から中には入れないタイプのようだ。そのため巣から出たはいいが、巣に戻れない魔物がバルドルやトールの領地まで遠征に来て、不定期で魔族の領民を襲う。

 倒しても倒しても安全な繁殖地があるので、完全な駆除には至らなかった。

 そして抜本的な駆除がしたくとも、結界が破れないのでお手上げだ。


「僕とトールではどうにもならない。どうにかなりそう?」


 結界はバルドルの城の二十キロほど先にあるが、エトヴァスにはすでに下見には出向いてもらっていた。


「俺が魔力探知で見た限り、外の結界は破れる。・・・ただ、意外だったな」

 

 彼は無表情ながら翡翠の瞳を瞬く。


「なにかあった?」

「・・・あれはヘルブリンディの張った結界じゃない。人間の張った結界だ」

「・・・それなのに僕がわからないって言うのは、あり得ないんだが」


 バルドルとて結界や魔術の分析は得意なほうだ。母親も人間の魔術師だったことから、人間の魔術にも精通している。それにもかかわらずバルドルは、ヘルブリンディの領地の結界の構造式がうまく把握できなかった。

 だがエトヴァスは気のない様子で淡々と事情を説明する。

 

「あれは自分を犠牲にした結界で、命をかけた最後の手段になる。おまえの母親は息子が死ぬ魔術なんて教えたくなかったんだろう」

「・・・」


 エトヴァスはバルドルと異なり、純血の魔族で感情の起伏に乏しい。バルドルの母親が息子に向けた愛情など、誰かに感じたことはないだろう。だがそれでも、彼は経験からその事実を導き出し、でも共感できないから淡々と口にする。


「死ぬ気で生命維持に必要な魔力まで全部を使ってくるし、ヘルブリンディがかけた防御魔術の魔力もあっただろうから、あの結界はかなり強固だ」

「・・・それでも解けるのか?」

「俺はあの結界を実際に見たことがあるし、人間の魔術の解法も見た。魔族の魔術での解法も考えたことがある」

「は?」

「俺は百年前、人間の街で人間の魔術師シリウスと同居していたんだぞ」


 エトヴァスが百年ほど前に魔族の間では有名な人間の魔術師と人間の街で暮らしていたことは、バルドルも知っている。

 バルドルの驚きを見て、エトヴァスが説明を付け足す。


「人間と暮らしていた頃にシリウスがその結界の解除のために呼び出されていた」


 そこでエトヴァスは人間の魔術師であるシリウスが命をかけた結界を解除するところを見たのだ。だが、人間が結界を解除するのを見たことと、魔族のエトヴァスが解除できるかは別の話だ。

 魔族と人間の魔術体系はまったく異なるため、人間の解法を見たところでエトヴァスはそれをそのまま使うことはできない。


「何故君は魔族なのにそれを解除できる」

「暇だから、解法を探した」

 

 エトヴァスは事もなげに言う。

 だが、命をかけた結界ということはかけられた魔力もその構造式の複雑さも相当のもののはずで、魔族の魔術でそう簡単に代替する効果を得る魔術を組むことはできない。

 バルドルは素直に目の前の男に恐怖を覚えるが、彼は事もなげに事情を説明する。


「役に立つ魔術に違いはないし、人間にとっては最終手段だから、解法を考えておいても悪くはない。実際に魔族か魔物から子供を守るために、魔術師の父親があの結界を命を賭けて張っていた」

「・・・子供だけが助かったのか」

「あぁ、父親の実力では到底倒せないものだったからな、賢明な判断だった」


 エトヴァスは平坦な声音で言う。

 バルドルは見ず知らずの親子に同情を禁じえないが、エトヴァスはその決断を単に合理的な判断だと思っているのだろう。顔色一つ変わらない。トールもどうでもよさそうで、これがバルドルを憂鬱にさせる原因でもあった。

 魔族は食欲と性欲に固執し、感情の起伏に乏しい傾向にある。

 当然純血の魔族であるエトヴァスは、食欲に固執する。とくに上位の魔族は食糧に執着を見せる傾向にあり、エトヴァスもおそらく食糧であるアリスのためならほぼ何でもするだろう。ただしそれはアリスの意志が通るというわけではない。彼が必要だと思った範囲で、である。

 四分の三は魔族の血を持つトールも、食欲と性欲、戦い以外にあまり興味がない。そして他者に共感などしない。

 だから哀れだとも可哀想だとも思わない。

 エトヴァスやトールは感情が動かないのに、バルドルはこういう会話一つ一つで感情が浮き沈みする。

 だからバルドルにとって純血の魔族との会話というのは、ただただ疲れる。

 

「なぁ、でも結界破って、魔物駆除して、そのあとどうすんの?」


 トールが無邪気に尋ねてきた。バルドルは目を伏せ、ローテーブルにある紅茶のカップを眺める。


「ヘルブリンディはもう領地を管理する気がない。こういうことにまたなってもらっても困る。魔王には許可を取ってあるから、仕留めるしかないんだが・・・」


 そこに僅かに残った茶色の液体。それをぼんやりと見つめ、考える。

 上位の魔族は、自分の魔力を維持するために、魔力の高い食糧を必要とする。それは純血の魔族であれば、より多く必要になる。

 エトヴァスがアリスを飼い、手放さないのは、彼女が莫大な魔力を持つ滋養に良い食糧だからだ。

 アリスは数百年に一度の莫大な魔力を持つ希少な存在だ。

 まだ成長期を迎えていないから、死ぬまでにあの魔力はますます大きくなるだろう。それをちまちま喰い、彼女が死ねば、エトヴァスはその魔力ごとアリスを丸呑みにするに違いない。

 ただし仮にエトヴァスがそうしたとしても、今の魔力をある程度維持できるのは彼女を喰ってせいぜい二、三百年弱と言ったところだ。

 ヘルブリンディは純血の魔族で、しかも以前にそれほど莫大な魔力を持つ食糧を得たという話は聞かない。

 三百年何も食べていないわけだ。

 魔力を消費していなかったとしても、純血の魔族は燃費が悪い。かなり魔力は下がっているだろうし、飢えて仕方がないはずだ。

 正当な方法ならば将軍職は、大方在職中の将軍を殺すか、空席を将軍会議で決まった誰かが埋める。本来であれば誰かヘルブリンディを殺して将軍となり、管理してくれれば有り難いが、領民のいなくなった領地など誰もいらないだろう。

 現在将軍職にあるトール、バルドル、エトヴァスの誰かがヘルブリンディを殺し、そこを自分の領地にするしかないのだ。


「楽しそうだ!やったぜ!」


 トールは嬉しそうに笑う。

 魔族は腹が減れば共食いをする。今は魔族も全体的に穏健化したし、食欲に純血の魔族ほどの衝動はないとはいえ、混血のトール、バルドルも自分たちを襲ってくる魔族たちを殺して生き残ってきた。 

 そのため同族を殺すことに躊躇いがあるわけもない。ただ極力避けたいと思う穏健派のバルドルとはことなり、過激派のロキにとって戦いは楽しいものなのだろう。

 だが、派閥争いを考えると、過激派であるトールが領地を手に入れるのは避けたい。トールが同じ過激派でその筆頭であるロキに管理が面倒くさいからとヘルブリンディの領地を差し出せば、バルドルはロキとお隣同士になる。それはなんとしても避けたい。

 そう考えれば中道派の筆頭で何にも興味がないエトヴァスがとってくれればありがたいが、彼は一体どうするつもりなのだろうか。


「俺は知らんぞ」


 バルドルの思考に、突然感情の平坦な低い声が割って入る。


「アリスがいるのになんで俺までヘルブリンディを仕留めねばならん。オーディンはそのつもりかもしれんが、俺は関わらん」


 バルドルはエトヴァスがそう言い出すこともなんとなく予想していた。だが、ふっと気づく。


「・・・君、そう言えば何しに来たんだい?なんで結界を破ってくれる気になった」


 そもそもよく考えてみれば、エトヴァスがバルドルの城にやってきた意味がわからない。

 確かにバルドルの母親は人間で、彼の食糧であり人間のアリスに多少人間の魔術を教えてくれるという意図はあっただろう。だがバルドルがそれをアリスへの同情故に自発的にするという確信もあったはずだ。

 だからバルドルが困っているから結界の破壊に協力してやろうなどと言う殊勝な考えは絶対にない。

 彼はもともと、何者にも興味がない。

 しかも常に中立を旨とする中道派の筆頭だ。中道派の態度は常に中立と無関心で、三百年前の大戦の際ですら一切関わらなかったほどだ。

 なのに、どうして出てくる気になったのだろう。

 エトヴァスはいつも通り平坦な口調で、またすこやかな寝息を漏らし始めたアリスを抱き直して、口を開く。


「ヘルブリンディの屋敷にある、寒桜を見に来た」

「は?」


 あまりに予想外の答えに、バルドルは聞き間違いかと自分を疑った。


「かん・・・?なにそれ?」


 トールはエトヴァスの言っている言葉が単語レベルで理解できなかったらしい。心底不思議そうに首を傾げる。するとエトヴァスが口を開いた。


「木だ」

「き、きぃ?」

「花の咲く木。少し濃い、桃色の花が咲く」


 寒桜とは冬に咲く桜の一種で、薄桃色ではなく、どちらかというと緋色に近いような濃い色の花が咲く。確かに、ヘルブリンディの屋敷は三百年前、数十本の寒桜で有名だった。人間の妃が望んだとか、噂だけは領地が隣のバルドルも聞いたことがある。

 だが魔物の巣窟となった場所に、しかも結界まであるのに、それを破って行こうと思うような場所だろうか。 

 ましてやその桜が残っているかどうかもわからない。感情の起伏に乏しい魔族に花を愛でる神経など、あるはずがないだろう。

 混血のバルドルですら、花が綺麗だなどと、思ったことがないのに。


「なんだそれ、おまえ、そんなもん見に来たの?」


 トールは説明を理解してもエトヴァスの意図が理解しきれなかったのか、ぽかんと口を開いて彼を見ている。きっとバルドルも同じような顔をしていることだろう。

 だがそんなふたりの驚きなどエトヴァスはまったく気にしない。


「アリスが見たいと言った」


 さも当たり前のように、彼は陳腐な理由を口にした。


「オーディンが結界の件について破ってほしいと書いてきていたが、それは却下した。だが、シヴが絵のあるカードを贈ってきていて、それがヘルブリンディのところの寒桜だった。アリスが見たいんだそうだ。だから行こうかと思った」


 エトヴァスの腕の中では、アリスが彼の肩に頬を押しつけて眠っている。

 安心しきったその寝顔は、エトヴァスが外の敵から自分を守ってくれるという彼への信頼が溢れている。そしてたった十歳の、エトヴァスの食糧であり、妃のために、彼は雪深い冬にこんなところまでやってきたのだ。

 確かに、ヘルブリンディの屋敷に行くためには、山に張られた結界を破らねばならない。バルドルたちはこの結界に本当に困らされている。

 だが魔術が得意中の得意であるエトヴァスにとって結界を破るのは簡単で、行っても良いかなと思える程度のことだろう。

 だからアリスの希望を叶えようと思ったのだ。


「それは・・・」


 バルドルが父親であり魔王でもあるオーディンにこの件を相談したとき、オーディンはこちらからもアリスに手紙を書いてみると言っていた。

 最初は子供のアリスに話す必要があるのかと首を傾げたが、彼はもともとアリスがエトヴァスを動かす可能性を視野に入れていたのかも知れない。

 そしてアリスに寒桜のカードを送ったシヴはトールの妃だ。エトヴァスと同じ中道派の将軍でもある。

 彼女はトールやバルドルよりも長く生きている。そしてトールの所領の問題をトール以上に理解していたに違いない。

 彼女はアリスに寒桜のカードを送り、エトヴァスを動かすことに賭けたのだ。

 結果としてあからさまなオーディンの手紙は却下されたが、オーディンが事情をアリスに説明し、シヴがアリスの大義名分になるようにカードを送ってアリスの関心を引き、結果的にアリスがエトヴァスを乗せてくれたということだろう。

 アリスは年の割に聡明で、大人しい少女だ。

 アリスが寒桜をみたいと思ったのは本当かも知れないが、わざわざエトヴァスに請うたのは、間違いなくオーディンの困り話を聞いたからだろう。


「冬は雪が多くて、やることもない。アリスには適度な運動が必要だが、雪で動けない。竜の動きも鈍い。出かけるのにバルドルの屋敷は安全そうだったからな」


 エトヴァスは他の将軍の動きも、アリスの考えも承知だろう。だがそれでもアリスが寒桜をみたいと言い出したことを尊重し、アリスのためを思ってここに来ている。

 それだけを聞けば、彼はこの上なくアリスのことを考えている「優しい人」だ。

 だがこれが食糧を長く維持するための、魔族としては非常に根本的で、他種族から非難の的になるようなアリスへの食欲が発端であることに、言葉にしがたい違和感がある。

 それがトールにはおかしかったのだろう。


「・・・あはははは!」


 トールが手を叩いてゲラゲラと笑う。先ほど、エトヴァスに注意されたにもかかわらず、お腹を抱えて大声で笑う。


「おまえ、そんだけのために来たの!?食糧に強請られて!?」

「食糧が身体的にも精神的にも健やかであることは重要だろう?」


 エトヴァスはいつもどおりかわらず無表情のままだ。


「そうだけどさ!!おまえ、そんな面白い奴だっけ?!」


 面白いを連呼して、トールは笑う。

 確かに日頃何にも左右されないエトヴァスが、こんな十歳の少女のために興味もない寒桜を見に行こうなどと臆面もなく口に出来るのだから、確かにトールが馬鹿笑いする気持ちがバルドルにもわかる。しかしエトヴァスにはこのおかしさがわからないらしく、その翡翠の瞳は逆に不思議そうだった。

 そんなエトヴァスをトールはからからと笑う。バルドルは今まで見たこともないほど楽しげに笑う異母兄をうるさいと止めることもなく、眺めるしかできなかった。


「俺、おまえのこと大っ嫌いだったけど、今なら好きになれそうだよ!!」

「は?」

「俺もエトヴァスって呼ぼう!いまのおまえは別人のように面白いよ!」


 百年前、彼が人間の間で暮らしていた頃に名乗っていたという「エトヴァス」という名前。少なくとも人間であるアリスが彼を変えているというのなら、今の彼を「エトヴァス」と呼ぶのがふさわしいのかも知れないと、バルドルも思う。

 エトヴァスはというと、単純にトールがうるさいと思ったのだろう。アリスを抱き直し、黙って部屋を出て行くために扉へと向かう。


「え、飯食わねぇの?」

「いらん。俺は部屋に戻る」


 うるさかったのか、またアリスがうっすらと目を開けている。バルドルがそれを眺めていると、少し紫色の瞳が動いてバルドルの方へと向けられた。


「・・・」


 バルドルも思わず笑って肩をすくめる。

 すべて彼女のおかげだ。そしてバルドルには人間との混血で、感情がある。

 その豊かな感情を、理解できないエトヴァスやトールに向けるより、彼女に傾けておいた方が、リターンが大きいだろう。

 バルドルはアリスに向けて手を振ってみる。彼女は小さな笑みを漏らし、また目を閉じた。

 子供は可愛いなぁと思いながら、バルドル自身も千年以上生きてきて、小さな子供と半年以上文通をしたり、訓練に付き合ってやったのははじめてだなと気づいた。


「僕も巻き込まれてるのかな」

「ん?どした?」


 首を傾げているトールに視線を向けることなく、バルドルは静かに目を伏せる。


「良いのかもね」


 なにかが変わる予感がする。

 それが明確にどういった変化なのかはわからなかったけれど、バルドルはこの瞬間、はじめてそう感じた。 

 だからこそ、それが失われることがないことを願った。


バルドルさんはエトヴァスさんと同じでとても賢く、勘の良い人

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