02.エトヴァス
アリスは夜九時には眠ってしまう。
今日は珍しくバルドルと八時から食事をしたので夕食の最中からうとうとしていたが、夕食が終わり、ソファーで落ち着いてお茶を飲み出す頃にはもうエトヴァスにもたれて眠っていた。
「・・・子供は、もう少し早い時間の夕飯の方が良かったかな」
バルドルが小首を傾げてアリスを見据える。
「そうだな。夕食は毎日六時半。人間と暮らしていた頃、このくらいの子供のいる家庭の夕食はそんな感じだった」
「そうなのか。知らなかったよ」
バルドルの母親は人間だったが、彼が子供だったのはもう千年も前の話だ。彼も覚えてはいないだろう。
ましてや彼の父親は当時はまだ将軍だった現魔王のオーディンだ。
魔族は人間の生態をよく知るわけではないし、人間だった母親がアリスのようにのびのびと暮らしているわけでもなかっただろう。
それに子供に早めに夕食をとらせるという生活習慣が必ずしも人間のなかで守られているわけではない。
理想と推奨されているだけだ。
「俺はアリスの健康的、文化的な生活は守りたいからな。長生きしてもらわねば困る」
エトヴァスは別にアリスにおそらくたいした情はない。魔族は食欲と性欲に忠実だが、それ以外の感情の起伏が乏しいのが常だ。
魔族は魔力の多寡で味を感じる。エトヴァスにとって、莫大な魔力を持つアリスは本当に美味でできるだけ長く、味わっていたいだけだ。
だからエトヴァスは、アリスの「健康的で文化的な生活」にはそれなりに気を遣っていた。
「そういえば君、アリスを妃にしたんじゃないの?子供にそういうのって、負担を考えればどうかと思うよ」
バルドルは心底軽蔑と哀れみの入り交じった表情でエトヴァスを見てくる。だが、いったい彼はエトヴァスをどんな男だと思っているのだろうか。
「既に公言していることだが、俺は千年以上生きてきて性欲を感じたことはない。ましてや子供にそんなもの感じるわけがないだろう。ほかの将軍たちや領民は地位があった方が手を出しがたいから、そうしただけだ」
エトヴァスは性欲を感じたことがない。もちろん千年も生きていれば、そういう行為に及んだこともあるが、大して自己処理と違うとは思わなかった。
享楽的な魔族が多いなかでは珍しいタイプだが、時々いるのでそれほど問題ではない。そのため将軍職にある魔族では珍しく、エトヴァスは今まで子供はおろか、妃も恋人も、愛人もいなかった。
そんな自分が人間の、しかも十歳の子供を妃にしたのだ。邪推したくなる魔族はいるのだろう。
ただ、エトヴァスからしてみればアリスはまだ十歳だ。
毎日一緒に寝てもいるが何も思わないし何かを感じたこともない。今見ていても思うのは、ふっくら膨らんだ色づいた頬は美味しそうだな、くらいだ。
「・・・そうなのか。君は昔から話さないから何を考えているのかわからないんだ」
バルドルは疲れたようにこめかみを押さえてみせる。だが、彼の言っていることの方がエトヴァスからしてみれば理解できない。
「俺は別におまえがアリスに手を出さなければどうでも良い。だからそれは考える価値があるのか?」
アリスはエトヴァスの腕の中で寝こけている。
この美味しい食糧に手を出してこなければ、エトヴァスはバルドルのことなど死のうがわめこうがロリコンだと思われようがどうでもいい。今回のように苦言を呈されても事実と異なることだけ淡々と反論するだけだ。
バルドルはため息をついて、向かい側のソファーに腰を下ろす。
それを見計らい、使用人が彼に紅茶を運んできた。エトヴァスにも同じようにそうする。城ではコーヒーばかり飲んでいるが、エトヴァスは別にコーヒーが特別好きなのではない。
飲食などアリスの血肉を食えていればそれ以外どうでもいいのだ。
魔族など大方食欲と性欲以外、どうでもいい。そういうものだと、エトヴァスは思っている。バルドルがそれ以外のことに興味があるのは、いや興味を抱けるのは、単純に彼が人間との混血だからだ。
「まぁいい。君が許可するならアリスの魔術は見てやりたいと思っていた」
「知っている。だがおまえは不思議な奴だな」
「彼女には同情すると言っただろう」
「同情か。俺にはわからんな」
エトヴァスはバルドルがそうしたいだろうとは予想していた。
彼の母親は人間で、当時は将軍だった今の魔王オーディンの妃だった。そして彼女は魔術師だった。そこそこの魔力を持っており、オーディンに捕らえられそのまま妃になった。
エトヴァスとバルドルは従兄弟同士にあたる。年齢も一年ほどエトヴァスが早い程度だ。
そのためエトヴァスは幼い頃は一緒に狩りに行ったこともあるし、バルドルの母親であるオーディンの人間の妃を垣間見たこともあった。
人形のように整った容姿の女性だった。亜麻色の髪に大きな琥珀色の瞳の、豊満で驚くほど整った、非の打ち所のない見た目の女性だったことは、あまり何事にも興味を抱かないエトヴァスの印象にわずかなりとも残っている。
彼女はほどなく当時の魔王でエトヴァスの父親でもあった男に迫られ、自殺したと聞いている。
彼女は当時魔族の入れない白銀の檻で暮らしており、それは魔王も例外ではなかった。それにもかかわらず人間で豊かな感情を持つ彼女は恐怖に耐えきれず、そのまま自分で命を絶った。
魔族と、魔族の妃になった人間との悲劇。そしてその物語の主人公になってしまったのは、間違いなくバルドルの人間の母親だった。
だからバルドルが人間でありながら魔族の将軍の妃となったアリスに同情する。またエトヴァス自身もその同情を促すために、バルドルとアリスの頻繁な文通を許容しているのだ。
実際にバルドルはアリスに深い同情を示し、何の利益もないのにアリスに人間の魔術を教え、頭を撫でたりと言った様子から見ても、バルドルはそれなりにアリスに愛着を示している。
アリスに触れられるのは若干不愉快な気もするが、利益を考えれば許容範囲だろう。
「おまえから見ても、アリスの魔術の腕は、まだまだだろう」
エトヴァスはアリスの魔術を思いだし、嘆息した。
アリスの利点はその将軍にある魔族も上回るような、無尽蔵とも言える莫大な生まれ持った魔力だ。魔力切れなどほぼ考える必要がない。
だが、利点を生かすためには問題が山積みだ。
「でも、筋は極めて良い」
バルドルは優雅な動作でカップを持ち上げ、笑う。
「それに・・・まだ魔術の訓練を始めて一年だろう?」
「いや、数ヶ月だ」
「なおさらだよ。大成する条件はそろってる。アリスは魔力制御が非常に精緻だ。魔力探知も極めて正確。頭も良い。勘所も悪くない」
バルドルのアリスに対する評価は、おおむねエトヴァスと同じだった。
魔力というのは大きくなればなるほど制御が難しい。それにもかかわらずアリスの魔力は莫大であるにもかかわらず、魔力制御を教えないうちから感情の浮き沈みで魔力が揺れることがなかった。今となっては、自分の魔力を自在に低くも高くも制限してくる。
そして魔力探知も精密だ。
これは相手の魔力や攻撃に使われている魔力の大小や相手の情報を図るものだ。魔力探知が出来なければ、戦いでは相手の能力や攻撃の威力を読み違うことになるし、防御魔術を無駄に大きく展開し、魔力を無駄に消費することにつながる。
バルドルは攻撃のなかに、大小を織り交ぜていた。
アリスはその大小に合わせた防御魔術を展開していた。これは非常に正確に魔力の大小を読み取っている証拠だった。
「なかなかの逸材だよ。人間は本当に惜しいことをしたな。一世一代の魔術師になっただろうに」
バルドルはアリスを総合的にそう評価した。エトヴァスもその意見に異論はない。
莫大な魔力、精密な魔力制御と魔力探知。人間社会できちんと訓練をし育てれば、アリスは魔族の食糧や妃ではなく、間違いなく歴史に名を残す偉大な魔術師になっただろう。
「君もいつか、殺されるかもしれないよ」
バルドルが軽い調子で笑って見せる。
莫大な魔力があるので、誰が見てもある程度の魔術師になることはわかる。ただそれが予想以上のできであることを確認し、エトヴァスが食糧に魔術を教えることに決めたのをあざ笑っているのかも知れない。
だが、エトヴァスはそう感じたことはなかった。
「アリスは俺には一生敵わん。こいつは人間だからな」
「そこが惜しいところだ。彼女が二百年生きれば、君を殺してくれたかも知れない」
「そうだな」
魔族と人間の大きな違いは、その寿命だ。
アリスは確かに優れた魔術師になるだろう。だが千年もの間生きた、熟達した魔術師であるエトヴァスにはよほど相性が良くなければ勝てない。そして戦い方が緻密でひとつのミスも見逃さないエトヴァスは、人間でエトヴァスほどの熟達が見込めないアリスにとって非常に厳しい相手だった。
よほどうまいパートナーがいなければ、彼女はエトヴァスに勝てない。
「とはいえ、人間の成長は早い」
バルドルはことんとかすかな音を立てて、ティーカップを置く。
「僕も彼女が死ぬまで君をエトヴァスと呼んでおくことにするよ。今までの由縁を考えると、関わるのが嫌になるからね」
もともとエトヴァスは魔族の間では「ビューレイスト」と呼ばれていた。
しかしその名は百年前、人間の間で暮らそうと思ったとき、有名すぎた。そのため人間には「エトヴァス」と名乗るようになった。だから人間であるアリスに「エトヴァス」と呼ばせた。
それだけのことだったが、どうやらバルドルは「ビューレイスト」にたまりかねるものがあったらしい。
特別彼と敵対したこともないのに何故これほど嫌われているのか、エトヴァスにはよくわからないし興味もない。そしてその嫌な「ビューレイスト」とセットで関わらねばならないのに、彼はこれからも、アリスに関わりたいと思っているらしい。
これもエトヴァスにはさっぱりわからない。
「いくつか大魔術師ルシウスの記した人間の魔術の本は貸しておく。わからないところがあるようなら、手紙を送らせてくれ」
「よくそんなものを持っているな。人間の間ではもう散逸したぞ」
大魔術師ルシウスは千年前にいた、要塞都市の対魔族結界を張った天才だ。
魔術の構造式の多くは、彼が考案したとすら言われる。ただエトヴァスが百年前に人間社会で暮らしたとき、その書物はほぼ散逸し、完全な形では残っていなかった。
あっても断片があちこちの図書館や要塞都市の有力貴族のもとに残るのみだ。
「あぁ。母は同時代の魔術師だったからね」
「なるほど」
バルドルの母は、魔術師だったとされる。恐らく大魔術師ルシウスと同じ時期のだ。下手をすれば本人からその書物を手に入れられただろう。
「ここにあるものをすべて覚えれば、あとは実戦で精密さを上げるしかない。実戦はある程度君が教えるだろうし、どうにかなるだろう」
魔族と人間の魔術は構造式が違う。魔族のエトヴァスは魔術が得意で基礎的な人間の魔術も使えるが、中級になると無理だ。それが人間との混血で、どちらも使えるバルドルのもとにアリスを連れてきた理由だった。
バルドルは賢い。意味のわからないことをたまに言うが、それでもエトヴァスの目的を的確に読み取っている。
だからバルドルとの会話は楽だった。
「恐らくここ半年で、僕たち相手でも短時間なら持ちこたえるようになるよ」
「春までにそうしておきたい」
「だろうと思った」
今は一月。もうすぐ要塞都市クイクルムとの休戦協定の期日が来る。エトヴァスはこの人間の要塞都市クイクルムを攻略すると決めている。攻略には他の将軍たちも参加するので、アリスが春までにある程度使いものにならなければ困るのだ。
「まぁ・・・恐怖や躊躇いが抜けるかかな」
「なら問題ない」
エトヴァスは自分の膝の上で眠るアリスを見下ろす。
「恐怖は場数、躊躇いは俺にない」
「ごもっとも。ヘルブリンディのところに行く道すがらは、魔物退治をしながらになりそうだからね。十分な場数がふめることを約束するよ」
そこも理解しているらしい。本当にバルドルとの会話は楽だ。共通見解をすりあわせるだけでよい。だがその楽な意見交換の時間も、ここで終わりだろう。
バルドルの口元がへの字になり、しばらくするとため息が溢れてくる。エトヴァスは顔色ひとつ変えなかったが、アリスを抱き直し、ぽんぽんと背中を叩く。いざとなればこの部屋を出ねばならなくなるだろう。
しばらくするとどすどすという足音とともに、扉がバンッと開いた。
「久しぶりだな。ビューレイスト!バルドル!」
無駄に元気な声が響く。部屋に入ってきたのは、赤毛の大柄な男だった。
エトヴァスさんとバルドルさんは仲は良くないけど目的が同じ場合はかなり話が早い。
トールさんは今のところふたりにとっては「馬鹿」で面倒くさいひと