エピローグ 冬が来た
森に、城に、窓の外に雪が静かにつもっていく。
エトヴァスはソファーで書類を眺めていたが、ふと顔を上げる。隣にいるアリスはがぼんやりとエトヴァスと同じように書類を眺めていた。アリスはまだ簡単な文章が読める程度なので、領地経営の数字のたくさん入った書類はほぼ理解できないだろう。
「これは俺の領地で今年の様々な農作物や物品の取れ高が報告として書かれている。領民から得られる収穫物はお金になり、領主である俺の豊かさにもつながる」
「どういうこと?」
「収穫物の一部は、領主である俺のもの、俺のお金になるからだ。それはおまえや俺の服や城の維持費など俺個人が使うこともできるし、領民になんらかの形で再配分、つまり配ることもできる。俺は金に興味がないので、ある程度は再配分する」
説明すると、アリスは小首を傾げた。アリスはよくわかっていないだろう。
ただ妃というのは領主不在の場合は代理をすることも多い。のちのちのことを考え、少しずつ教えておくのは重要だ。
今定着しなくても、十年後定着すれば良い。
「書類に話を戻すと、例えばこれはこの間行った南の領地の、一年間にとれた食肉の量だ。トンという単位で表されている。1000キロが1トンだ」
エトヴァスの領地では、魔族が食する魔力のある生きものの家畜化と生産が盛んだ。
鹿のエイクスュルニル、山羊のヘイズルーン、猪のセーフリームニルが主要な産物で、他の将軍たちの領地へのわりのいい輸出品で、同時に領地に住まう低、中級の魔族たちの主食でもある。これがなければ飢えて、人間や他種族を闇雲に襲う原因にもなる。
そのため、これらの生産、備蓄により領民の生活を守ることは、当たり前の領地経営の要だった。
「・・・この横線 の数字は?」
「マイナス。去年より少なかったということだ。こっちは北の領地の報告だが、去年より多いのでプラスだ」
説明するとアリスはなんとなくわかったのか、北と南の領地の報告を見比べる。
「まぁ、どちらにしても今年は他の将軍たちの領地に食肉は出さない」
「どうして?」
「南の取れ高が悪い。あと年明けに要塞都市クイクルムを落とすからな。領地外に食糧を輸出する場合、余分にお金を取る。領地内の食糧価格の安定を図る。何故だと思う?」
「そうすれば、外に出す方が値段が高くなって、領地のなかで売るから?」
「そうだ。おまえの好きな芋にも高関税をかけてやろうか?芋の領地内での値段が下がる」
今年は南は家畜の伝染病もあり、取れ高が減った。北の食肉が流入するように、そして他の領地に出ないように、領地外に出す場合は高い関税をかけ、簡単に外に出せないようにする。
こうした調整がうまくいっているから、エトヴァスの領地の領民は人間のアリスを闇雲に襲わないし、ここ数百年は穏やかに過ごしているのだ。千年前なら家畜の大量死があれば、それだけで人間狩りに魔族が大挙したものだが、魔族の定住、魔力のある生きものの家畜化で千年前と比べれば時代は穏やかなに変わった。
エトヴァスは窓の外を眺める。
昔は白い雪がしんしんと天から落ちてくるのを、ぼんやり外で眺めたものだった。そういうとき、いつも思うのだ。
世界は動いている。自分は止まっている。
屋根はあってもなくても良かったし、雪や雨に濡れても風邪など引かない。体調が悪いのは、魔力を持つ生きものを食べていないから、それだけだ。食欲という衝動を感じれば食糧を探しに行く。それ以外の時間が、エトヴァスにとってはいつも無駄で、いつしか他人の魔術を収集したり、本を読むようになった。
退屈で、無駄で、自分だけが止まっている気がしていた。
将軍となり、人間の文化が流入し、魔族も狩猟より農耕や牧畜を基本とするようになり、そうして時代が変わっても、エトヴァスは部屋のなかからぼんやりと雪が落ちてくるのをよく眺めていた。
世界は動いている。自分は止まっていると、いつもなんとなくそう思っていた。
「たしかに、焼き芋美味しかったね」
アリスの珍しく酷く弾んだ声が響く。
落ち葉でした焼き芋が楽しかったし、美味しかったらしい。おかげで視察から城に戻った後も、五回も焼き芋をさせられた。城の庭を管理するドワーフが嬉しそうにせっせと焼け落ちた落ち葉を集めていたのが印象的だった。どうやら落ち葉の灰も肥料になるらしい。
使用人たちも芋に惹かれてよってきて、最初は領主であるエトヴァスの目があるので恐る恐る、五回目になると慣れた様子で話しかけてきた。当初魔族を怖がっていたアリスだが、慣れてきたらしい。そうなるとエトヴァスよりずっと社交的に使用人たちと話をしていた。
アリスは嬉しそうに笑っていた。だからこれからは少しずつ、使用人たちと話したり、部屋から出して自由にさせる時間をとっても良いかもしれない。
ただアリスはおやつの食べすぎで夕飯を食べられなくなり、何故か世話係の鬼のメノウからエトヴァスが怒られたのだけが腑に落ちない。メノウ曰く、子供を管理するのは大人らしい。だが食べているのはアリス本人なのだから、アリスに怒るべきだろう。
そんななにやら騒がしい秋も終わり、今、窓の外は真っ白だ。
「もう雪が降ってきたから、焼き芋はできないぞ」
「見ればわかるよ。でもあとでお外に出てもいい?」
「いいが、雪が降ってるから城のなかだけにしろ」
冬は、何もすることがない。
エトヴァスの城は山の上にあるので景色こそ良いが雪が深く、冬には天候も崩れるため外に出ることも出来ない。
「でも、エトヴァスと一緒なら少しくらいおでかけできるでしょ?」
アリスはエトヴァスの首に腕を回す。甘えてきているのだろう。エトヴァスもサイドテーブルに書類を置き、アリスの小さな体を抱きあげて膝の上へと横向きに座らせた。
アリスは秋の視察に南の領地管理人のところまで遠出したのが楽しかったらしい。エトヴァスにとっては秋の恒例行事に随行させたに過ぎないが、アリスを連れ出したのは杖を見に人間のいる街にいったときと、将軍会議だけだ。
アリスは人間に捨てられてエトヴァスに差し出されたため人間を怖がっているし、将軍会議は上位の魔族の巣窟だ。緊張が強いられる場面がどうしても多かっただろう。それに比べれば今回はエトヴァスの領内で、気楽だったのかも知れない。
アリスはその大きな紫色の瞳をキラキラさせて、こちらを見上げてくる。
「雪がやんだらな」
冬でも竜での移動はできるが上空の気流は荒れる。ただ移動ができないわけではない。少し雪がやめば、風邪を引かないように厚着をさせて出かけても良いだろう。
「それまではそこの贈り物でも開けておけ」
ちらっとエトヴァスは部屋の端に積み重ねられた贈り物の箱の山を視線で示す。
アリスがエトヴァスの妃になったという通達は、視察前に出した。他の領地の魔族や、将軍たちにもだ。贈り物は他種族の文化だったが、ここ数百年で混血が増えたことにより魔族の中にも定着した。
それにともない、エトヴァスにとってはどうでも良い相手から、どうでもいいものが届いている。
純血の魔族たちは別にどうでも良いと思っているだろうが、混血の部下たちが勝手にそうするのだ。エトヴァスも心底どうでも良いと思っていたが、家令のヴィントがせっせとお礼状を書いている。
そして、ここにもその文化を理解できない人間がひとりいる。
「あれ、なに?」
「おまえが妃になったと聞いた奴らからの贈り物」
「おくりものってなに?」
「ひとがくれるもの」
それ以外の説明があるだろうか。エトヴァスが言うと、アリスは大きな紫色の瞳を瞬き、ますます不思議そうな顔をした。
「会ったこともない人から?」
「そうだな」
その気持ちはとてもよくわかる。
贈り物をしてきた魔族の大半は、アリスにとっては知らない人だ。戸惑う気持ちもわからないではない。
そして、まだ幼いアリスはあまり贈られてきた物に興味がない。
それも仕方がないだろう。ほとんどが宝飾品や高価な布地だったからだ。幼いアリスにとって、宝飾品はキラキラ光ると言うだけで、数日たつと見飽きてしまったらしかった。
要するに贈り物を贈った側は誰も、アリスが子供だなどと思っていないのだ。
当然だろう。千年以上、エトヴァスは妃はおろか、恋人も、愛人もいなかった。そんな男が人間の妃をとったのだ。絶世の美女か、どちらにしてもなんらかの特別な魅力の持ち主だと誰もが思っていることだろう。
特別な魅力、と言う点では間違いない。
アリスは数百年に一度しか見ない莫大な魔力の持ち主で、魔力が大きければ大きいほど美味しいと感じる魔族のエトヴァスにとって、極上の食糧でもある。だから長く貪っていたいと、長期飼育を目指し、アリスを飼い始めたのだ。
そしてアリスに精神的なストレスがかからないように、彼女が血肉をすすんで差し出してくれるように、彼女の望むどおり優しくしたり、なだめたりしていた。そのはずだったのに、少しずつそれだけではなくなっている。
この小さな体の少女を、心ごと自分のものにしておきたい。アリスをそばに置くのが、こうして膝の上にのせてただ時間を過ごすのが、心地よくなっている。
それはエトヴァスのなかに確かに芽生えはじめた誤魔化しようのない感情だった。
「シヴさんみたいに、お菓子贈ってきてくれたら良かったのにね」
将軍職にあるシヴの贈ってきたのは、金平糖だった。少し珍しい味の金平糖で、日持ちがする。非常によく考えられた贈り物で、アリスのお気に入りになった。
アリスを知るフレイヤやバルドルからの贈り物も似たようなもので、やはり日持ちのする甘いものと、髪に合う色のリボン程度だった。しかもエトヴァスにではなく、日頃の文通とともにアリスに直接贈ってきていた。心配の手紙とともに。
ただ「妃」の地位の意味をたいしてわかっていないアリスは、妃になっても何も変わっていないとふたりにあっさりとした手紙を送っていた。
「でも、シヴさんなんでエトヴァスにあんなもの贈ってきたんだろう」
アリスはローテーブルに置いてある、書類の山の近くにあるには不釣り合いな本を見る。
「童話だ。おまえに一般的な知識を養おうとしてくれてるんじゃないのか?」
アリスへの贈り物とは別に、シヴがエトヴァスに贈ってきたのは十冊ほどの童話の本だった。
恐らくアリスに読み聞かせろと言うことだろう。確かに人間と暮らしていた頃、童話が小さい図書館に入っていたのを見たことがある。ただ共感の能力に乏しいエトヴァスは童話や小説はあまり好きではない。童話も目を通したことはあったが、アリスにものを教える時に思い出しもしなかった。
「でも嘘の話なんでしょ?」
「せめて架空と言え」
エトヴァスはあまりの言い草に一応訂正する。
童話を送られた当のアリスはエトヴァスが歴史書ばかり読み聞かせたせいか、架空の話と言うだけであまり興味がなさそうだった。ただしエトヴァスが読み聞かせれば黙って聞くので、問題に感じてはいない。
「なんだかもらっておいてこういうのはなんなんだけど、お妃さまって、いらないものいっぱいもらえるんだね」
「地位があるなんてそんなものだ」
アリスの感覚は正しい。地位があると言うのは自分の身を守ることもできるが、同時に億劫な作業や面倒ごともついてくる。
実際にエトヴァスとてこんな書類仕事別にしたくない。だが将軍には領地がついてくる。もちろんエトヴァスの弟のヘルブリンディのように領民を皆殺しにしてしまったとしても、誰も文句は言わない。
ただやることがあるというのは悪くはないんだろうと、エトヴァスは最近知った。
長い人生やることがなければ退屈でたまらない。やることがあるから、止まっているように生きていても、生きていられるのだ。
「・・・ねえ、」
言葉とともにくいっと袖が引かれる。
「・・・わたしはお妃さまじゃないと、だめ?」
アリスがおずおずと尋ねてくる。
エトヴァスはその真意がわからず、膝にいるアリスの表情をうかがう。エトヴァスの膝に横向きに座るアリスはぎゅっと小さな手で自分の服の裾を掴んでいる。
表情は俯いているので見えない。だからエトヴァスはアリスの話の続きを促すために、そっとアリスの髪を頬から上へとかきあげる。
するとアリスが少し顔を上げた。
「だって、いろいろな人がおかしいとか言うし、いらないものをもらったり、エトヴァスを変だっていう人も、いるし、」
「それがおまえと俺に関係があるのか?」
「う、・・・うーん」
アリスはうまく言葉に表現できないらしい。困った顔をして俯いてしまう。
アリスが妃であるとどこにでもともなえるし、魔族の食糧に対する衝動を理解できない混血の魔族には、食糧と言うより妃と言っておいた方が手出ししない理由になる。それに対外的にあった方が便利な称号なのだ。エトヴァスの将軍や領主といったものと似ている。
「外では俺は魔族の将軍で、領主で、なんだろうな。まあ、強くはあるがあまり良い魔族ではないから悪口は言われている」
対外的に見れば、エトヴァスは「天空」のビューレイストという名で呼ばれる、将軍のなかではロキ、バルドルと並び称され、次の魔王の候補にも挙がるほどの有数の魔族だ。
魔族にとっては魔術に精通していることで知られ、領地経営はうまいが中道派で争いごとには一切介入しない。今回幼いアリスを妃にしたことで、ロリコンのレッテルが貼られるのかも知れない。
人間にとっては食糧のためだけに要塞都市クイクルムの対魔族結界を破って動力源を喰った悪逆非道の魔族だろう。
良い魔族というのが存在するのかはわからないが、例えば将軍のなかではバルドルなどは領地経営でも、人格者としても有名で人望もある。
バルドルのような混血の魔族からしてみれば、純血のエトヴァスなど自己中の塊だ。
実際バルドルからアリスを妃にするなど、もう少しやりようや時期、本人の気持ちというものがあるのではないかと千年以上生きてきてはじめての手紙をいただいた。彼の母親は人間で、将軍の妃だったから、なおさらアリスが心配なのだろう。
お節介でありがたいことだ。
「俺のそういう評価は、嫌か?」
「・・・それはわたしには関係ないし」
「だろう?他人が言うことは、気にしても仕方がない」
アリスの長く柔らかい亜麻色の髪を撫でる。
「それでも妃は嫌か?」
「だって・・・エトヴァスは、食糧はわたしだけで良いって言ったでしょう?」
アリスはゆっくり顔を上げ、その紫色の瞳でエトヴァスを映す。
「でもお妃さまはいっぱいいるんでしょ?」
妃が複数いても良いことを、どこかで聞いてきたらしい。
「そんなもの、ほしくない」
複数が名乗れる妃より、エトヴァスにひとりだと確約された食糧でありたい。
独占欲、固執、執着、人間なら忌むような衝動の源泉になる感情が、無垢な紫色の瞳のなかで、ゆらゆら揺れている。
エトヴァスはそれに鳥肌が立つような、形容しがたい感情を抱いた。
アリスは人間だ。だからエトヴァスのように、本能に根付いた食欲故に食糧であるエトヴァスを独占したいのではない。
もし身の安全のためを思うなら、妃という地位があった方が単純に身を守りやすい。それがわからないのは、アリスが魔族の社会を知らないからであり、同時にものごとをエトヴァスと自分との関係でしか測っていないからだ。
そして自分がエトヴァスにとって「唯一」であることが、自分の立場を保証すると思っている。
そう、ある意味でエトヴァスの愛情を求めている。だが、愛情なんてエトヴァスは抱いたことがない。そんなことはアリスもわかっているだろう。それでも、その感情故に排他的にエトヴァスがアリスを唯一の存在にすることを求めている。エトヴァスを独占したいと願っている。
それを理解し、エトヴァスは心に何かが湧き上がるのを感じた。
これは、なんだろうか。満足感、優越感、充足感、言葉としては知っている。だが湧き上がるこれがどれに当たる感情なのか、エトヴァスは知らない。なんて甘美なのだろう。
アリスは今、自分と異なる根拠のもとに、自分と同じ感情を持っている。
「良い子だ」
アリスの主張を理解し、エトヴァスはアリスの頬を撫でる。
柔らかくて手触りが良い頬は、適度に肉もついていて、ふっくらしている。その肌の下にある血肉はいつでも食いついてしまいたくなるほど美味しそうで、でもいつもすべてを食い尽くしてしまうのは、もったいないと思う。
そしてエトヴァスを感情的に求めるが故に魔族の食糧であろうとするアリスを、人間はきっと狂っていると言うだろう。
だが、その狂気をエトヴァスは歓迎する。
「安心しろ、俺はおまえが生きている限り、別の妃はとらない」
「・・・本当?」
「なら、納得できそうか」
言えば先ほどまでの毒々しいとすら言える感情が彼女の瞳から消え、ふわっと嬉しそうに、幸せそうに笑う。
それは無垢で、無邪気で、子供らしいものだった。
いろいろ吹き込まれ、不安にでもなったのだろう。実際、アリスに妃は複数とれると話した魔族がいたはずだ。
ただこれからはエトヴァスもアリスをそばから離す気はない。だからいらないことをいう魔族は減るだろうし、仮に言われていればエトヴァスが言い返すか殺してしまうので問題ない。彼女が他者からの非難で傷つくことはないだろう。
あとは、彼女の納得だけだ。
「俺は、おまえを妃にしておきたいと思っている」
「うん。わかった」
アリスはこくんと小さく頷く。だからエトヴァスもその答えに応じるように、小さな体を抱き寄せた。
重みも温もりも、エトヴァスにはわからない。それがどれほど貴重なものかわからないが、アリスは自分に退屈を与えない。こうして寄り添うことで、いつも周りの時間から置いて行かれているような心地がしていたエトヴァスは、少なくともアリスを介して時間に溶け込めた気がしていた。
ゆっくりと時間が、動きだす。
それが魔族にとって、人間にとって、良いことなのか悪いことなのか、答えはまだ知らない。
外では雪が降っている。しばらくはただ、二人の穏やかな時間が続くことだけは、間違いがなかった。