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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
四章 少女、領地を視察する
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17.アリス


 どうしようかとアリスは目の前にひろがる真っ暗な森を眺める。

 森の木々は鬱蒼としていて、終わりが見えないし、必死で逃げたので方向もよくわからない。仕方なくアリスは少し開けた場所まで来て、木陰に座り込んだ。空を見上げると今日に限って月がない。多分上空から見てもアリスには暗くて、屋敷の方角すらわからないだろう。

 歩き疲れたので三角座りをして、木にもたれる。


「困ったなぁ」


 そう呟いてみるが、どうしようもない。疲れのあまりこれ以上歩ける気はしないし、方向もさっぱり見当がつかない。歩けない限り一人でアリスはどうしようもない。


「・・・綺麗」


 夜空は暗いが、星がキラキラ輝いている。アリスは昔も、こんな風に暗い場所でぼんやり星を見上げていた気がする。

 

『・・・、・・・』

 

 父の声を思い出す。もう高いのか低いのかはわからない。覚えていない。だがとても優しくて柔らかい声だったことを覚えている。抱き上げてもらったときの温もりや、ぽんぽんと背中を叩かれる心地はなんとなく覚えている。どこにいても父は、アリスのことを見つけてくれた。

 父はアリスの温もりの象徴だった。


「どこにいったんだろう」


 いつのまにか、いなくなった父を母は死んだと言っていた。そして母は自分を結界の動力源として要塞都市においていった。そういう点ではどちらも今はもういない。

 だからアリスを探しに来てくれるのは、アリスがいつも期待できるのはひとりだけだ。

 どんなに嘆いても、どんなに望んでも、同じように彼しかいない。彼しか得ることは許されない。いろいろぐるぐる回っても、アリスには彼のそばしか居場所がないのだ。

 だから、彼を優先する。優先して当然だ。仕方がない。仕方がないのだ。

 

「何やってる」


 低くて平坦な声。視界に入ってくるのは、暗いなかでも負けないくらい明るい金髪だ。暗闇ですぐに負けてしまうアリスの亜麻色の髪とは違う明るい色。山のなかなのにアリスを当たり前のように見つけて、焦る様子もなくいつもどおりの歩幅でアリスの方へと歩み寄ってくる。

 そして三角座りをしているアリスの前に膝をついた。

 

「・・・迷子に、なったの」


 嘘ではない。正確に言うならば襲われそうになったのでオレルスから逃げてきたのだが、アリスはそういうことにした。


「そうか」


 エトヴァスも何も言わない。ただすぐにアリスの右手首を掴んだ。そのままひっくり返せば、そこにはぱっくりと開いた傷がある。浅い傷だが、血が溢れていた。

 アリスは魔力を制御できるようになった。小さく見せることも大きく見せることもできる。だがこの血肉には疑いようもなく多量の魔力が含まれる。食糧の魔力の多寡を味に転嫁する魔族にとっては極上の美味な血肉だ。どれほど魔力を制御して押さえようと血が体表にあふれ出れば、酷く食欲をそそる匂いがあるのだろう。

 それを見たとき、オレルスの目には酷い欲望の色があった。食欲だ。アリスは逃げたけれど、逃げなければ喰われていたかも知れない。ただアリスにはエトヴァスの防御魔術がある。オレルスはどうなっていただろうか。

 恐ろしい、恐ろしい話だ。そして目の前にはそれを引き起こした男がいる。


「もったいない」


 エトヴァスが言って、血が滴る手に唇を寄せられる。


「っ、」


 ぎゅっと強く目を閉じる。痛い。

 舌が手のひらをくすぐる。むずがゆさと同時に、舌で傷口を抉られる痛み。その上、親指の根元あたりの柔らかいところに、容赦なく牙を立てられる。いつものような痛みを緩和する魔術はない。痛くて、勝手に涙が出てくる。離してもらいたくても掴まれているのでびくともしない。体を引こうにも後ろは木だ。


「ふっ、」

 

 痛みのあまりぎゅっと閉じていた目をうっすらと開けて、エトヴァスを見上げる。じっと金色の光彩を持つ翡翠の瞳がアリスを見ていた。罰を受けているかのように思えて、アリスは奥歯を噛みしめ必死で痛みに耐える。

 手が勝手に震える。エトヴァスは気づいているだろう。アリスの痛がる姿を楽しむように、アリスの手を食んでいたが、しばらくすると軽くなめて唇を離した。その時には、もう傷は治されていたが、疼く。


「っ、」


 傷があった場所を労るように薄い唇が重ねられれば、今度は状況を忘れてしまうほどにくすぐったくて、アリスは目を細めた。


「馬鹿だな。いつかはそうなっていただろう」


 遊んでいれば、いつか擦り傷などの怪我はしただろう。そしていつか、思い知ることになったはずだ。

 人間と魔族は違う。

 魔族にとって、人間は食糧だ。莫大な魔力を持つアリスの血肉は魔族の理性を壊すのに十分で、アリスはいつかそれを思い知ることになっただろう。アリスとてそれは理解していた。わかっていたけれど。


「で、でも、」


 こんなやり方をしなければならなかったのだろうか。

 治っているはずの、エトヴァスに掴まれている手が痛い。傷は治されているのに、痛みを増したように感じる。

 

「おまえは俺が不愉快だと知っていただろう?」


 低い声が夜の闇に溶けていく。底冷えするような、低い声だ。

 夜の風が、亜麻色の長い髪とともにアリスの頬を撫でていく。いつの間にか濡れていた頬が、凍り付くように冷たい。アリスの手を握るエトヴァスの手は温かいはずだ。なのに、その温もりがぞっとするような寒気をアリスにもたらす。


「無視したのが悪いんじゃないのか」


 エトヴァスの口からアリスを責めるような言葉が出てきたのは、はじめてだった。


「・・・え?」


 隠しきれないほどアリスの声はうわずって震え、狼狽えていた。

 アリスはエトヴァスの金色がかった翡翠の瞳をまっすぐ見つめる。驚くほど平坦なのに、酷く冷たい目がそこにある。

 いつもと、違う。


「わ、わたしはエトヴァスを無視したわけじゃない」

 

 冷たい風が頬を撫でていく。突然、あたりの空気が氷点下まで冷え切った気がした。

 彼が不愉快に思ったことはわかっていた。だからアリスは、今日を最後にすると言ったはずだ。オレルスと遊ぶのは最後にすると。

 エトヴァスが不快に思うことを、無視したわけではない。


「さ、さよ、ならを、言おうとしただけで・・・」


 手ががたがたと勝手に震え、口が言葉を紡ぎ出す。

 きちんと決別をしようと思っただけ。

 アリスだってわかっている。アリスにはエトヴァス以外と寄り添う未来なんてない。アリスはエトヴァスの食糧だ。彼以外の誰かと生きることが出来るはずもない。エトヴァスがオレルスを不快だと感じた時点でアリスがオレルスと遊ぶことは許されないとアリスもちゃんとわかっている。

 アリスはエトヴァスがいなければ、生きていけない。

 アリスはエトヴァスの食糧だが、それでも彼だからこそ人間で莫大なアリスの長期飼育をめざし、食い尽くしもせず、大事にされているのだ。他の魔族ならアリスを食い尽くしているだろうし、彼のように魔族の将軍のなかでも強くなければ、アリスは他の将軍や上位の魔族に食われている。

 アリスが莫大な魔力を持つアリスを喰らい続けることにこだわるように、アリスもまた彼でなければならないのだ。当然、エトヴァスとオレルスを天秤にかけたら、アリスは即座にエトヴァスを選ぶ。

 だから、せめて、さようならをしたかった。気持ちに整理をしたかった。

 だが、エトヴァスの翡翠の瞳は冷ややかだ。どこまでも冷ややかでで、アリスの言葉を聞いてもそのなかにある冷たさは変わらない。


「それが俺に関係があるか?」


 アリスの決別も、他者の納得も関係がない。迷うこと自体が裏切りであるかのように、エトヴァスは冷ややかな眼差しでアリスを見下ろす。

 手が静かにアリスが背にしている木につかれる。顔が近くなる。戯れるように頬に口づけられるこれはきっと、慕わしさからではない。こんな冷たい唇を、アリスは知らない。そのまま唇が静かに耳元でささやく。

 

「俺は不愉快に対処しただけだ」


 どこまでも現実しか見ていない。

 今、目の前のこの瞬間しか見ない冷酷さにアリスは言葉を失い、何を言っても、理解などしてもらえないとわかった。

 アリスは、読み違えた。読み違えたのだ。

 彼は怒らないと思っていた。多少不愉快に思っていたとしても、対処する時間くらいはくれると思った。だが彼が自分のなかの感情に気づいたとき、求めたのは何よりもアリスが自分を優先することだった。恐らく彼は単純に、アリスが自分の不愉快を無視したとしか思っていない。

 エトヴァスは感情の起伏に乏しい魔族だ。共感性に乏しい。だからアリスが気持ちの整理をつけるとかそんなことはどうでも良い。ただただ自分が不愉快で、不快で、それにたいしてアリスがエトヴァスを一番に考えた対処をしなかったことが許せなかったのだ。

 アリスは自分の冷え切った体を温める方法がわからなかった。


『だから近いうちに君は、すべてを、彼に捧げることになってしまう』


 前にエトヴァスと同じ、魔族で12人いる将軍のひとりであるバルドルは、アリスにそう忠告した。

 バルドルは人間であるアリスを酷く哀れんでいたようで、アリスにエトヴァスから自立する手段を持つように促した。オレルス曰く彼の母親は人間の妃だったと聞くから、母親をアリスに重ねたのかもしれない。

 そして彼は自分の両親の顛末から、きっと、こういう未来を予想していたのだ。

 アリスはバルドルの言葉を、たいしたことだとは思わなかった。血肉を奪われているのだから、体はもう彼のものだ。これ以上なにを捧げるものがあるのか、命くらいだろうと思っていた。だがこうしてアリスはエトヴァスなしで、彼以外の誰かと時間を過ごす機会を奪われた。

 気持ちを整理し、受け入れる時間も与えてはもらえない。エトヴァスが望むように、望む行動をしなければならない。多分アリスはこうして、エトヴァスに自分の感情や行動のひとつひとつを差し出していくのだろう。

 アリスの体は既に自分のものでない、彼のものだ。でも自分の心は自由だと思っていた。

 でもきっと、そうでなくなってくのだろう。体の自由とともに、心すらも支配されていく。それでも、アリスはエトヴァスと生きていくしかない。


「どうする?」


 翡翠の瞳がアリスに答えを求める。アリスは奥歯をぐっとかみしめ、震えを抑えるために、ドレスの裾を握りしめた。落ち着けと自分に言い聞かせる。

 なんとか震えが止まる頃に、アリスは真っ黒に染まった空を見上げて、大きく息を吐いた。

 空はどこまでも広がっている。だが、アリスの生きていける世界は、とてつもなく狭い。なにかが狂ってしまえばその瞬間終わるような、針の先に糸を通すような人生だ。

 アリスはもう気づいていた。アリスは詰んでいる。もう、詰んでいるのだ。

 どれほど魔力制御がうまくできようが、魔術の訓練をしようが、人間のアリスには限界がある。天地がひっくり返ろうが長い寿命を持つエトヴァスには敵わない。おなじように上位の魔族の何人かには、太刀打ちできない。

 エトヴァスのもとを逃げ出したとしても、アリスは誰かに捕らえられることになるだろう。自分で身を守ることが、アリスにはできない。

 対魔族結界のある要塞都市に逃げ込めば、魔族のエトヴァスからは守られるかも知れない。だが人間によって幼い頃と同じように結界の動力源にされるだろう。そしてそのまま、幽閉され、誰とも話すことなく命を落とすのだ。

 アリスは折り合いをつけ、エトヴァスと生きていくしかない。それに納得している。覚悟もしている。不満があるわけではない。だが、普通に仲間と笑いあっている魔族たちを、人間を見ると、羨ましくなる。自分もそのなかにいられるんじゃないかと思う。

 でも、それはエトヴァスを不快にさせるだろう。


「ごめんなさい」


 アリスは自分の目の前に膝をつく男に抱きつく。

 コートで分厚くて、抱きついても彼の体温は感じられない。それでもアリスが縋る温もりはきっと最初から最後までエトヴァスしかいない。彼が許さない。

 だから、どうか、どうか、せめて自分を裏切らないで、捨てないで欲しいと思う。

 アリスはほかに何も得ない。得られない。エトヴァスだけを見て生きていく。だが彼はいつでも他を得られる。そういう立場で、なのにアリスには彼しかいないから、どんどん不安になる。

 確かに魔族は個人主義だが、強いという理由だけでエトヴァスの子供が欲しいと言った魔族の女性のように魔族には魔族の価値がある。

 アリスはそれの何も知らない。あるのはこの莫大な魔力をもてあます体ひとつだ。

 それはすべて捧げても良いから、最後まで、あますところなくアリスのその血肉を平らげる日まで、誰も顧みず、自分だけのものでいて欲しい。どんなことでもするから、捨てないでほしい。

 そんなことを口にすれば、彼はどうするのだろう。


「帰るぞ」


 エトヴァスの大きな手がアリスを抱き上げ、アリスの背中をぽんぽんと叩く。

 

「うん」


 アリスは彼の肩に頬を寄せ、頷く。頷くしかない。そもそも彼が来なければアリスはここで一晩を過ごす予定だったのだ。


「そう言えば、おまえは何がしたかったんだ」


 帰る途中、エトヴァスがふと思い出したように尋ねてきた。

 何の話だろうか。アリスがエトヴァスを見上げると、彼は足下に注意を向けず、よどみなく歩きながらアリスの方へと視線を向けてきた。


「あの子供としたいことがあったんじゃないのか」

「え?なんだろう。・・・どんぐりで馬を作ったり、ラケットで羽打ったり、あとやってないのは、なんかりんご園のおじさんが言ってた落ち葉で焼き芋出来るとかかな」


 アリスはエトヴァスが気を悪くするのではないかと思いつつ、上手に誤魔化す言い訳も思いつかない。

 つらつらとオレルスとやったことや、やろうと思っていたことを並べる。オレルスと遊ぶのが楽しかったのは、恐らく、あまりエトヴァスがやらなそうなことだったから楽しかったのだ。


「一緒にやってやろうか?」

「・・・え?」


 軽い調子で言われて、アリスは思わず驚く。


「え、エトヴァスがどんぐりの馬作るの?わたし、棒刺さらないから、ほとんど作るのエトヴァスだよ?」


 そもそも人間のアリスは非力なので、どんぐりに棒を刺すなんてことはまったくできない。そのためオレルスと作ったときも、オレルスが棒を刺してくれたものにアリスが馬の目と耳を書いただけだ。


「難しいことではないだろう。ラケットで羽を打つのもそうだ」

「え、う、うん。っていうか、わたしほとんどあたらないよ。羽」

「良いんじゃないか。べつに」


 あっさりしたものだが、エトヴァスが作る、やると思うと何やら酷く不思議だ。ただきっとどれをやらせても、彼はアリスよりずっとうまくやるだろう。


「・・・よく考えてみれば、なんで楽しかったんだろう・・・?」


 どんぐりの馬も、ラケットで羽をうつのも、アリスとオレルスの二人でやったと言うより、ほぼオレルスがひとりでやったに等しい。アリスはどれもろくすっぽできなかったのだから、むしろオレルスが楽しそうにアリスと遊んでいたことも今思い出せば不思議だ。

 同年代だから、気分だろう。

 

「わからんが、あの子供にできるなら俺にもできるだろう」

「エトヴァスが、やってくれるの?」

「俺でできることならな」


 エトヴァスはいつもどおりの平坦な声音で言った。アリスは嬉しくなって、彼の首に手を回し、強く抱きつく。

 きっとエトヴァスは、アリスがオレルスという友人を失うことを悲しく思う気持ちをまったく理解できないだろう。だが、アリスがやりたかったことをかなえてやろうとはしてくれるらしい。

 

「わたしは、本当はね、オレルスじゃなくて、エトヴァスにかまってほしいんだよ。エトヴァスと一緒にいたいの」


 すりっとアリスはエトヴァスの広い肩に頬をすり寄せる。

 

「でも、エトヴァスは忙しいでしょう。だからわがままは言いたくないの」


 本当は構って欲しいのも、甘えたいのもいつも彼だけだ。アリスには彼しかいない。本当は彼がいつもいてくれれば良いのにと思う。


「そんなに忙しそうに見えるのか」

「うん。だから、さみしいんだよ」

「悪かった。次からは書類仕事はヴィントにやらせる」


 エトヴァスはアリスを宥めるように、背中を撫でてくれる。それが温かくて、嬉しくて、アリスは目を閉じた。

 もうそろそろ眠気も限界だった。


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