16.ヴィント
ヴィントは自分の主を眺める。
明るい金色の髪に、切れ長の翡翠の瞳。彫刻のように彫りの深い面立ちをしており、ソファーで肘掛けに肘をついているだけで身長も高く手足も長いので、座るだけで格好がつく。
常の彼は、ヴィントがミスをしても指摘するだけで叱責することもない。魔術でプログラムされているかのように、やるべき仕事を淡々とこなす。仕事のパートナーや上司としては極めて良い相手だ。
だが今日は違った。
いつもならば翡翠の瞳はよどみなく書類の文字を追う。今日もそれは同じだが、たまにその翡翠の瞳が窓の外へと動く。何を見ているのだろう。こんなに気を散らす彼ははじめてだ。何かいらだちもあるのか、たまに不快そうに翡翠の瞳を細める。
暗くなり始めてからずっとだ。
「アリスさま、帰ってこられませんねぇ」
ヴィントが頬に手を当てて言うと、黙殺された。
ヴィントが彼に仕え始めて七百年になる。だが、彼が魔族を含めて他者と生きようとしたことはない。妃はおろか恋人も愛人も見たことがない。ヴィントですらかわりのきく使用人で、特別な感情はないだろう。
その彼がはじめて自分のそばに置いたのが、食糧であり形だけの妃のアリスだ。
十歳の人間の少女。亜麻色の長い髪に大きな紫色の瞳で、本当にただの、莫大な魔力を持っていること以外特筆すべきことのない少女だ。それがいま、彼をいらだたせている。
「・・・」
彼は書類から視線を外し、今度はじっと外を見ている。
何か魔術でも使って彼女の位置を確認しているのか。それはヴィントにはわからない。だがヴィントは緊張のあまり彼から目を離せなかった。
そして彼は唐突に立ち上がる。
「迎えに行ってくる」
急いでいるふうはなかった。声音もいつもどおり落ち着いており、平坦だった。だがどこか冷たく、それでいて満足げな感情が透けて見えていて、ヴィントはなんとなく背筋がぞっとした。
彼らいったい何を喜んでいたのだろうか。
ヴィントは恐怖を誤魔化すように、残された書類を整理しながら息を吐く。
部屋から出て行ってくれた方が気楽だ。七百年一緒に仕事をしていて、これほどの恐怖を感じたのは今回がはじめてだった。
魔族は感情の起伏が乏しく、純血の魔族、とくに男性の方がそれが顕著だ。
だからヴィントの主である彼は常に表情一つ変わらないし、何を考えているかもわからない。逆に言うと、平坦で、冷静で、常に態度が変わらない。予想外に殺されたり、襲われることはないのだ。
そのためヴィントは彼の前に立って緊張したことはなかった。
ただ、今日は、違う。
彼は何か、感情的な起伏があった。張り詰めるような、冷たいような、感情の起伏が黙っていてもこちらにもひしひしと伝わってきて、恐怖を感じずにはいられなかった。気を遣って仕方がなかった。
きっとアリスのせいだ。
「そんなに心配なら、さっさと迎えに行けばいいんだわ」
ヴィントはひとりごちる。
そんなに気に食わないなら、アリスにオレルスと遊びに行くなと言えば良いし、さっさと自分で迎えに行けば良いのだ。そうすればきっとアリスは素直に従うだろう。
ヴィントは綺麗に書類を揃え、今日何度目とも知れないため息をつく。
「失礼?」
恰幅の良い女性が部屋へと入ってくる。誰よりも美しい黄金の髪を持つその人物に、ヴィントは慌てて頭を下げた。
「シヴさま、」
シヴは12人いる魔族の将軍の一人であり、この屋敷に住まう領主管理人は、シヴの愛人だ。そのためこの屋敷に滞在していることは知っていた。
ヴィントは訪れたシヴに少し緊張する。彼女はあたりを見回して、ビューレイストと入れ替わりになったことに気づいたのだろう。
「ビューレイストは迎えに行ったのね?」
「はい」
「やっぱり固執しだしたのね。嫌な男だこと」
シヴは女性にしては少し低い声で鷹揚に言って、首を振る。
「こっちは自分の息子が殺されないか気にしてるってのに」
「はぁ・・・」
アリスがシヴの息子でもあるオレルスと出かけていることはヴィントも知っている。だが、わざわざ他の将軍の息子を殺すだろうか。そう思ったが、今の彼ならアリスのためになんでも殺しそうだと思い直した。
シヴは自分の息子を心配してやってきたのかも知れない。ヴィントがそう思っていると、シヴは腕を組み、ため息をつく。
「アリスには、誰か付き人はついているの」
「日頃ですか?それは・・・」
誰をアリスにつけているのか、それはアリスの身の安全に関わることだ。ましてやシヴは将軍である魔族で、アリスが狙われるかも知れないのにヴィントがそんなことを口にすることは出来ない。
だがシヴはじとっとヴィントを睨んだ。不思議な、違和感のある視線だった。
「女?」
「・・・」
「年かさの出産経験のある女がアリスについている、・・・わけではないわよねぇ」
「え・・・?」
男女や種族、強さを聞かれるならわかるが、あまりに意外な質問に、ヴィントは驚きとともに答えが顔に出てしまった。すると、シヴは呆れたようにはぁっと額を抑えてため息をついた。
「本当に気の利かない男だこと」
彼女の意図するところがまったくわからず、ヴィントは首を傾げる。
確かに、十歳というアリスの年齢を考えれば、子供のいる年頃の付き人がベストだったかも知れない。ただ前提が魔族ではないと言うことで、該当者がいなかった。それに今のアリスの世話係の鬼のメノウは献身的にアリスの世話をしている。これからもヴィントの主がアリスの付き人を変えることはないだろう。
だがそれを不十分だとシヴは誹る。
「まったく、未婚の、出産経験のない女が、男女のことや男女の機微を教えられるわけがないわ。年頃になったら、一度あの子をこっちによこすように言っておいて」
「ど、どうしてですか」
何故アリスを将軍にあるような魔族のもとに、送り出さねばならないのか。ヴィントが尋ねると、シヴは呆れたように半目でヴィントを見る。
「今、10歳・・・、10年は持たないわね」
アリスは現在10歳。10年後は20歳になっているだろう。
ヴィントは幼いアリスの今の姿しか想像できないが、アリスは大きなくりくりした紫色の目に白い肌をしている。きっとそれなりに綺麗な女性に成長しているはずだ。
ヴィントが想像していると、シヴが毒づいた。
「・・・男なんてみんなクソみたいなものよ」
鷹揚な声音とともに言われると、すごみがある。ましてや将軍職にあるシヴの魔力はヴィントが退くには十分だ。
「あの・・・私も一応男なんですけどぉ?」
「知っているわよ」
舌うちでもされそうな口調で、ヴィントは一歩下がる。それにすら不快そうに、シヴはふーと息を吐いた。
「でも、経験のないこじらせた男よりはまし」
あまりに確信に満ちた口調だった。
ヴィントも何か似たようなことを聞いたことがある話だ。ここで「経験のないこじらせた男」と言われているのは、自分の主だろう。
ただ千年も生きている自分の主は、恐らく女性との経験はあるはずだ。何を言われているのだろう。誰かと間違われているのだろうか。
「・・・それ、誰のこと言ってます?」
「性欲ないってこじらせてるやつがやばいに決まってるの」
「でも、本当の話ですよね」
それは将軍ビューレイストの、有名な話だった。
魔族は食欲と性欲に衝動を持ち、固執する。それは純血の魔族であればあるほど強い傾向があるが、七百年以上見てきて、ヴィントは彼にまともな性欲があるところを見たことがなかった。自分でも公言しているので有名な話だ。時々魔族でもそういうタイプはいるので、別におかしくはない。
実際に彼は千年生きてきて妃はおろか、特定の女性ができたことすらなかった。
「あの男に女との経験がないと思う?」
「あの顔ですよ。同性愛者じゃないみたいですし、若い頃にはそれなりにあったみたいじゃないですか?」
ヴィントの主のビューレイストはもともと前の魔王の三人の息子のひとりで、顔立ちは美形で有名なバルドルほどではないにしろ整っていて、しかも目を引くあの長身だ。目立つ存在だった若い頃から相手ができれば噂になった。
ヴィントでもひとりふたり噂は聞いたことがあるから、経験がないわけではない。ただそれ以降、少なくともここ千年くらいは噂すら聞いたことがない。
魔族で千年身ぎれいだというのはなかなか聞かないし、彼は自分でも性欲がないと公言していた。
「あいつ、特定の女に対する性欲はないかも知れないわ。でも機能は正常なんでしょ?」
「・・・え?」
「機能がなければ、勃たないって噂が立ったはずじゃない」
「・・・すごいこと言ってますよ」
「事実でしょ」
シヴは腕を組み、僅かに胸を張る。確かに、ヴィントも口元に手を当てて少し考えた。
魔族は良くも悪くも性におおっぴらだ。
もし使いものにならないほどなら、若い頃の相手からその噂がたったはずだ。つまり彼は、多分性欲処理という観点で自己処理と女性を相手にするのにさしたる差を感じなかったのだろう。
だから面倒くさいので相手を持たなかった。
「・・・え、ちょっと待ってください。なんかこの話の結論が見えちゃったんですけど・・・」
ヴィントは額を押さえる。
ヴィントの主であるビューレイストは、確かに千年間妃も恋人も愛人もいなかった。同時に他者に対する興味もなかった。だから性欲に関しては自己処理が基本で、そういう観点では他人に興味がないのだから、他人に向ける性欲などありはしない。
だがいまはアリスをそばにおき、アリスに固執し、こだわっている。
「このままいけば、あの男は十年以内にあの子を襲うわ」
決定事項のようにシヴは言う。
ヴィントはそこまで言い切ることはできない。
彼に仕えてきて、傍で見てきて、そう言った感情を抱く彼の姿が想像できない。だが実際に今までになかった感情の起伏が表に出てきている今、ないとも思えなかった。
恐らく、彼は変わる。
アリスを得ることによって、変わっている。千年誰とも生きていなかった男が、別の生きものと生きるのだ。
「・・・だったとして、私たちにどうしろと」
ヴィントはシヴが何の話をしたいのかが理解できなかった。
アリスは素直にビューレイストを慕っている。なのに襲われることになるだろうアリスを可哀想に思う。だが、はっきり言ってヴィントにはどうしようもない。むしろシヴはこの話を使用人にして、どうしようというのだ。
「どうもできないわ。・・・彼が本気なら誰も。そうでしょう?」
シヴは静かに言う。
彼は間違いなく魔族有数の力を持っている。その彼が人間の少女を望んだとして、誰が止めることができるだろうか。ましてや相手は彼が所有している食糧で、妃だという体裁もついた。公的にも私的にも彼が彼女を襲うことを誰も責めやしない。
かわいそうに彼女にその意志がなくとも、あの小さな少女は誰を味方にすることもできないのだ。
「私はね、他人はどうでも良い。でも、自分の子供が殺されるのはごめんなの」
シヴは、感情の起伏に乏しい純血の魔族だ。アリスの事を心配しているのではない。それはヴィントにもわかった。
自分の子供たちを心配している。そしてだからこそ、念のために彼女はここに来たのだ。
ヴィントの目から見ても、シヴの息子のオレルスはアリスに興味があるように見えた。それは自身も将軍の息子でかなりの魔力を持つため、莫大な魔力を持つ人間であるアリスが美味しそうに思えるのか、はたまた幼さ故の同年代への慕わしさなのか、わからない。
だがいずれだったとしても、ヴィントの主は間違いなく、オレルスを疎ましく思っている。そして、恐らくシヴは彼がそういう感情をオレルスに抱くであろうことを予想していたのだろう。アリスに近づいたが故に。
「あの男はアリスのためならなんでも殺すわ。男の嫉妬なんて見苦しいものと古今東西決まっている」
「嫉妬・・・ですか」
「嫉妬でしょ。あの男はまだそう思ってないかも知れないけど、事実としてそうよ」
本人であるあの男は気づいていないとシヴはいらだつようにはき捨て、腕を組んだままトントンと自分の腕を指で叩く。
「だからこそ、ふたりの間に不和があっては困るの。あの男に平和的にアリスをあてがっておかねばならない。あの子が逃げるようなことがあってはならないのよ」
彼とアリスの仲が円満であれば、彼はそれほど他者を問題にしないはずだ。アリスは彼が他者に手を出すのを穏便な形で止めるだろう。彼に殺されかかった領地管理人の娘クレールングをアリスが助けたように。
だが、逆にアリスとの間に不和があれば、ビューレイストはアリスを殺すわけにはいかないので、その苛立ちを外向きに発散する。またアリスが逃げれば誰かが巻き込まれる可能性も高い。
シヴにはふたりの子供がいる。
ひとりは将軍職にあるトールとの娘で将軍に憧れる複雑なお年頃だが、分別ぐらいはある。それに対して息子のオレルスは子供だ。しかもアリスと同じ年頃と来ている。今回顔見知りにもなった。変な巻き込まれ方をしては困るのだ。
「アリスには教えて覚悟させ、納得させておかねばならない」
アリスが襲われるのは恐らく決定事項だ。
性欲が自分にはないと思っているビューレイストは、間違いなくアリスに性教育などしようとは思わないだろう。その性欲が抑えられない衝動となったときにはじめて、後悔するに違いない。そしてまっさらの少女をむさぼれたことに満足を覚える。
魔族とはそういう生きものだ。
だが、そのとき彼との時間は、アリスにとって耐えがたいものになるに違いない。だから誰かが彼女が納得できるように事前に教えておかねばならない。可哀想だが、この件に関しては女たちの仕事だとシヴは考えているのだ。
「・・・そんなんで、納得できますか」
「するわ。あの子は、賢い子よ。身のほどはよくわきまえている」
アリスは、彼から離れて生きられない。あの莫大な魔力は、人間にとっても魔族にとっても利用価値が高すぎる。
アリスは馬鹿ではないからどうしようもなく耐えがたくならなければ、自分が生きるために納得するだろう。だから、争いを避けるためには、あの男が与えるものをアリスにとって耐えがたいものにしてはならない。あの子を絶望させてはならない。
外からは彼がいくらでも守るだろう。だが、彼女の気持ちも大事にせねば、人間は生きられない。
「だから、よこすように言いなさい」
「・・・よこしますかねぇ・・・。シヴ様に食べられるって思うかも」
ヴィントは首を横に振る。
ヴィントから見ても、自分の主は見たことのないような行動をしている。少なくともこちらが緊張するほどの感情の起伏がある。どんなことを吹き込まれるかわからないのに、アリスをシヴのもとにやるだろうか。
「なら周囲があの子に先に教えなさい」
それならそれで、シヴは男の方には期待しない。
「アリスは賢い。十歳の子供は千歳のこじらせた男よりもずっと柔軟よ。あの子にたくさんのことを教えなさい」
アリスは賢い。アリスは放っておいてもバルドルやフレイヤとは文通をしているようだし、これからシヴとも手紙でやりとりをしてくるだろう。問題が起きればうまく誰かと連絡を取る可能性が高い。
そうしたビューレイスト以外のとつながりを上手に切らないようにする。そしてそれは使用人も同様だ。
「・・・そうですね」
ヴィントも納得できるものがあり、シヴに頷いてしまった。
「まぁあんたたちも、振り回されることを覚悟するのね」
シヴの忠告が、耳に痛い。今日の彼の様子を思い出して、ヴィントはため息をついた。
そしてひとまずアリスが無事に帰ってきてくれ、明日にはすっきり機嫌が直っていることを願った。