15.アリス
翌日、アリスは梨園に来ていた。
オレルスにおんぶされることなくへとへとになりながら二十分歩いて梨園まで来て、昼ご飯を食べて、夕方になる頃に、アリスは彼に言った。
「あのね、遊ぶのは今日で最後ね」
もうあたりは緋色に染まっていて、綺麗だ。もうそろそろ帰らなくてはならない。
「え、一週間くらいいるって言ってなかったか?」
オレルスの黄金の髪も、赤く染まっている。
「うん。でも・・・やらなくちゃいけないことができたんだ」
アリスは目を伏せ、昨日のエトヴァスの様子を思い出す。
彼はオレルスを不快に思っているようだった。多分アリスが怪我をしたからだろう。たいした怪我ではなかったと思う。痣や内出血、腱鞘炎程度で、血がにじむような怪我ではない。だが、彼は食糧であるアリスをとても大切にしていて、体に傷をつけるのを嫌がる。
だからその原因になったオレルスが不快になったのだろう。
「・・・」
エトヴァスはアリスの体調を、将軍のシヴを呼んで確認させるほど心配している。なのに、迂闊だった。アリスも昨日は調子に乗りすぎたのだ。
楽しかった。純粋に彼はアリスとそれほど変わらない年で、会話の速度も知識もアリスの方がものを知らないが、それほど差があるわけではない。子供同士の会話や遊びはエトヴァスとはしたことがないようなものが多くて、純粋に楽しかった。
多少の怪我や腱鞘炎なんて気にならなかった。気づかなかった。でも、気づかなくちゃいけなかったんだと、エトヴァスが魔術で自分の怪我を治しているのを見て、思った。
「ごめんね」
アリスが謝る。オレルスは何も言わなかった。だがその水色の瞳を伏せ、ため息をつく。そして、まっすぐ水色の瞳をアリスに向けてきた。
「領主さま、だろ」
「え?」
アリスはオレルスと遊べない理由を、なにとも言わなかった。だが、彼は確信を持って頷く。
「わかってる。昨日、おんぶしてるおまえを渡したとき、すげぇ顔してた」
「そ、そうなの」
アリスはすぐにエトヴァスの首に抱きついたので、彼の表情をよく見ていなかった。だが正面にいたオレルスは違ったのだろう。
エトヴァスは元々無表情だ。それにもかかわらずオレルスが「すげぇ顔」という限り、エトヴァスはよほど怖い顔をしていたのだろう。アリスはあまりに疲れていて彼の顔など見る余裕もなく、まったく気づかなかった。
「・・・ごめん」
怪我を見たときからではなかった。オレルスと帰ってきたときから、エトヴァスはオレルスのことを不快に思っていたのだ。
何故だろうか。
エトヴァスは当初、アリスがオレルスと出かけることに悪い印象を持っていなかったはずだ。おんぶという接触を嫌ったのか、それとも途中で気が変わったのか。アリスは楽しすぎて何かを見落としたと、自分の額を抑えて思い出そうとする。
だが、見ていなかったことは思い出せない。
「考えが、足りなかったな」
結局アリスも楽しさで、エトヴァスのことを忘れていたのだ。
昨日のエトヴァスは、本当にはじめてみるような顔をしていたし、はじめてみる態度だった。アリスがオレルスの話を出すのが嫌なようだったが、あれは怒っていたのかも知れない。エトヴァスは事実を淡々と言うだけでほとんど怒ることはない。そう思っていたが、思い込みだったと思わされる。
なにがきっかけだったのか、読み切れていない。そのことに不安を覚える。
「そんなしょげんなよ」
オレルスがアリスの頭を撫でてくれる。アリスと少ししか大きさの変わらない手だ。
「・・・俺が強かったら良かったんだけどさ」
悲しそうにオレルスは肩を落とした。
エトヴァスに勝てればとでも思っているのだろうか。でもそれは違う。きっと彼とエトヴァスが戦うなら、アリスはきっとオレルスの敵になるだろう。
「いやだよ。わたし、オレルスに囓られたくないもの」
アリスは首を横に振る
もうエトヴァスに毎日血肉を奪われることには、慣れてしまった。むしろ、揺るぎなく必要とされているという、心地よさすら覚えている。なのに、ほかの魔族に喰われると思えば、身が震えるほど恐ろしい。きっと、アリスはエトヴァスに誰にも抱かない特別な好意があるのだ。
アリスはそれを自分でもう、なんとなく理解していた。
「わたしは、不満はないんだよ」
「でも、出かけらんねぇじゃん」
「それは、小さなことだよ」
オレルスと出かけられなくなるのは、残念だ。本当はもう少し遊びたかったし、今日だって時間を忘れるくらい楽しかった。それでも別にエトヴァスが言うのなら、オレルスにさようならをするのに後悔はない。
夜が近づいている。頬を撫でる風はもう冷たい。
遠くで、薪を割る音がする。鹿や山羊、猪の声がする。弱ったものは肉にされ、冬越しの糧にされる。長い冬のために、それを耐えて春を待つために、みなが急いで準備をしている。それをぼんやりと見るのは楽しかった。
アリスもエトヴァスの糧だ。
きっとひとりで長い冬は越せない。エトヴァスのもとでないと、誰かの糧にされて冬を越せない。彼の温もりがないと、凍えて死んでしまう。そしてこの冬を越せたとしても、結局いつかは彼の糧になるのだから、笑える話だ。
それをおかしいと思う瞬間はある。無性に頭をかきむしって、狂って、全部終わりにしてしまいたい瞬間がある。
でもそれしか道はないし、それしかアリスが些細な日常を繰り返す手段はない。
「守ってもらっているから、今がある。わたしに、今この迷いも、全部くれるのは、彼なんだよ」
アリスはわかっている。彼がいなければ、こうして迷い嘆く瞬間すらアリスにはない。
エトヴァスがいなければ、アリスはこうしてオレルスと話すことも出来なかった。遊びに行くのが楽しいと思えるのも、今こうして別れが悲しくて悩めるのも、別れを告げるこの時間も、エトヴァスがくれるものだ。
例えそれがあとから覆されるものでも、彼のくれた時間に他ならない。
オレルスはなんとも言えない表情をしていた。本当はアリスを止めたいのかも知れない。でも彼に力があっても、アリスはオレルスを選ばないだろう。
「なにがあっても、わたしは、あの人と生きるって決めてるの」
アリスは笑って見せる。無邪気に、そして無垢に笑う。本心だから、アリスは無邪気に笑える。
利点も欠点も、すべてを納得している。納得した上で、エトヴァスとともにいる。これからも泣くこともあるだろうし、辛いと思うこともある。ぶつかることだってあるだろう。それでもアリスは彼とともに歩む。
それ以外の道を選ぶとき、アリスは恐らく即座に終わる。そんな、予感がする。まだ予感だが、これから確信に変わっていく気がする。
アリスにエトヴァスを受け入れる覚悟があってもなくても、アリスの終わりはエトヴァスに喰われる未来だけだ。だからその日を少しでも遠くするために、アリスはどんなに苦しくても悲しくてもエトヴァスとともに生きる。
例えオレルスと遊ぶのが楽しかったとしても、その点に関して迷ったことはない。
最優先するのべきはエトヴァスだ。だから、今回はアリスが悪い。アリスは楽しさのあまり、エトヴァスをきちんと確認していなかった。責められても仕方がないのだ。
「・・・俺、いつか、将軍になれるかな」
唐突に、オレルスはぽつりと俯いてそう言った。
「さぁ、シヴさんは将軍だけど・・・」
アリスは首を傾げる。
オレルスの母親であるシヴは純血の魔族で、女性ながら将軍位にあるのだ。可能なのかも知れない。
アリスが見たところオレルスの魔力はそこそこだが、エトヴァスなど将軍の中でもより強い魔族に比べればまったくおよばない。きっと魔族の魔力は年を経るごとに成長するものなのだろう。混血でもバルドルはエトヴァスに匹敵するほど強そうだった。オレルスにも見所はあるのかも知れない。
だが、どちらにしてもそんなことは数百年先の話で、百年ほどしか生きない人間のアリスには関係ない話だ。
その頃にはエトヴァスはどうなっているのだろう。きっと今と変わっていない気がする。
「帰ろっか」
「うん」
オレルスに手を差し伸べられ、その手にアリスは自分のそれを重ねる。
アリスはエトヴァスが甘くないことを知っている。オレルスを殺さないまでも、アリスが会えるのは最後だろうと思った。
だが、それ自体が甘かった。
「っ、」
アリスは気づいた。魔術の気配だ。先ほどまでは何もなかったのに歩き出そうとしたアリスの手を、何かがかすめる。手のひらだ。切れたと右手を確認し、アリスはぱっと顔を上げた。
オレルスの水色の瞳が、色をなくし、食欲という欲望を映したのに気づく。
『脱兎のごとく逃げた方が良いわよ』
家令のヴィントがアリスにした助言を思い出す。
アリスはオレルスを見ることもなく、全力で逃げることしか出来なかった。