14.エトヴァス
アリスはオレルスにおんぶされて帰って来ると、疲れたのか食事もそこそこに目をこすりだした。
エトヴァスはでかけたこともあり風呂に入るように促したが、今度は風呂の湯船で眠ってしまい、扉を叩いて起こす羽目になった。今はエトヴァスに髪を乾かされ、枕を抱きしめて今日のことを話している。
紫色の瞳は半分しかあいていないがテンションが高い。
「オレルスは人間は夜に目が見えないのかって、驚いてたんだよ」
アリスは嬉しそうに話している。声はぼんやりしているのに、話は淀みない。
エトヴァスはベッドの上でそれを聞きながら、今日確認しそびれた書類を確認していく。アリスの話は別段難しい話ではないので、確認しながら聞いても内容は入ってくるので問題はなかった。
「おまえ、夜に目が見えていないのか?」
「オレルスいわく、全然見えてないって。わたしの目、悪いのかな」
「おまえの視力は魔族でも良い方だがな」
アリスの昼の視力は驚くほど良い。魔族と比較しても良い方だが、暗い中では見えないのかも知れない。そんなこと、暗い中外に出るときはエトヴァスがアリスを抱きかかえていたので、気づきもしなかった。そう言えば百年前にともに暮らしていた頃も、人間は夜になると何かと明かりを持ちたがっていた。
アリスは今日、日が暮れてから帰ってきた。
しかもオレルスにおんぶされてだ。それにはなんとなくエトヴァスにはふつふつと湧き上がる澱んだ感情があったが、アリス自身が疲れて歩けないと座り込んだのかと思っていた。どうやら違うらしい。
「何故気づいた。暗いから蹴躓いたのか?」
「うん。それもあるけど、最初は詰んであった煉瓦が見えなかったの。それに手がぶつかったんだよ」
どこ見てるんだって怒られちゃった。
アリスはたいしたことではないかのように笑って見せるが、エトヴァスは見ていた書類をサイドテーブルに置く。
「ちょっと見せろ」
「うん?」
最近は寒いので分厚い長袖の服を着ていることが多い。だからエトヴァスも見落としたのだろう。
アリスは小さな手で、白いパジャマの袖をめくり上げる。見てみると二の腕の外側に手のひら大のかなり大きく真っ赤な痣が出来ていた。かなり膨らんでいる。
「見た目はひどいけど、痛くないよ?」
アリスはよくわかっていないのか、痛くないから大丈夫だというが、そういう問題ではない。
「おまえ、他にもこけたり、おちたりしたんじゃないのか?」
「林檎取るときにはしごから落ちたかな?でも、そんな」
「脱がすぞ」
「え、寒いよ」
言葉のつたないアリスに聞くだけ無駄だ。
エトヴァスはアリスのすっぽりかぶっているワンピース型の寝間着を問答無用で引っぺがす。寒いだろうと一応毛布を渡し、柔らかそうで白い体全体を丁寧に確認していく。
予想通り脱がせればすぐにわかるほど、あちこちに痣が出来ていた。とくに手足には大小様々な痣が出来ている。血が出るような擦り傷がないのが不思議なほどだ。大量の打ち身に、エトヴァスは思わず自分の眉がよるのを感じた。
「なにをしたんだ。怪我には気をつけろとあれほど」
「何もしてないよ?普通に遊んでただけ」
その答えを聞いてエトヴァスはため息をつきたくなった。
アリスの血肉には莫大な魔力が宿る。血が体表に出ればどれほど魔力を制御したとしても、混血児でもくらりと来るだろう。幸いあざですんでいるが、それが奇跡の状態だ。アリスはこの怪我を大きなことだとは考えていない。
エトヴァスの認識が甘かったのだろう。
アリスはエトヴァスのところに来るまで幽閉されていた。だから恐らく、アリスは血が出るほどの怪我をしたこともないし、あざも作ったことがない。そしてエトヴァスのところに来てからも、エトヴァスはアリスを部屋のなか以外で遊ばせたことはないし、外に出るときはいつもアリスの傍にいて目を離すことがほとんどなかった。目を離したとしても大人がいる場所で、危なくないかは確認している。
魔族と人間の身体能力はまったく異なる。魔族の子供同士の遊びなど、想定の範疇外だ。しかもアリスは加減を知らない。そのことに、エトヴァスはまったく気がつかなかった。
「手首も腫れてる。なにか手を使ったんじゃないのか」
「手?・・・あ、なんか、ラケット打って遊んだの」
とても楽しかったとアリスは笑って見せる。だが、エトヴァスは笑えない。
袖が長くてよく見えなかったが、アリスの右側の手首は真っ赤に腫れ上がって、熱を持っている。そしてなにより危険なのは、アリスが痛みを感じているふうがないことだった。
「なんかね、こー、羽をこうわっかにしたものを打つんだよ」
アリスの声は眠たさのせいかうわずっている。だが、それでも寝るにはあまりにテンションが高く、痛みも感じていない。
エトヴァスはシヴの言葉を思い出す。
『あの子は多分、まだ自分が何ができるのか、体の使い方がよくわかっていないわ。おとなしい子だからむちゃくちゃはしないとは思うけど、子供だからくれぐれもテンションを上げさせないことよ。怪我とか骨折に気づかなくなるわ』
まさにそれだ。シヴは子供が二人いるし幼いアリスを見て、ある程度予想していたに違いない。エトヴァスはその助言の意味を、あまりよく理解していなかった。
魔術で怪我を治そうとすると、アリスは首を傾げた。
「え、魔術で治すの?あんまり痛くないし、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
少なくとも手首の腫れと二の腕の痣は、大丈夫ではない。軽く押すとさすがにアリスも痛かったのか、顔を歪めた。ただ押しさえしなければ見た目ほど痛みを感じていないらしい。大きいもの二つを魔術で治し終わると、アリスはにこにこと笑ってまた話し出した。
「あのね、ラケットを振ってもわたしは全然羽に当たらないの」
アリスは嬉しそうに笑って見せる。
だがエトヴァスとしてみればたまったものではない。何が楽しくて、彼女が怪我をしたときの話をえんえんと聞いているのだ。
一週間遊んでいていいと言った約束、アリスがいないことによってはじめて感じた空虚感、来春の服の手配、想定外の怪我、運動能力の悪さと腱鞘炎、何から口にすべきなのか、エトヴァス自身少しとどまって考える。
「オレルスは打つのが上手だったんだよ」
アリスはまだ楽しそうに話している。テンションが高いせいか、途切れない。
オレルスの話など、エトヴァスには別にどうでも良いことだ。林檎農園の老人のところに、人間の話を聞きに行ったのではないのか。何で彼女は楽しく他の男と遊びに行って、挙げ句怪我をして、自分は空虚感に苛まれ、挙げ句の果て他人と遊んで楽しかったという報告を受けなければならないのか。
先ほどまで何から口に出すかの順序を考えていたのに、アリスの台詞が勝手に耳に入り、考えがまとまらない。
「オレルスが言うにはすぐに上手になるらしいんだけど、あんまりなりそうじゃなかった」
ふつふつと湧き上がるなんとも言えない感情、それなのに言いよどむ不思議な感覚。
「でね・・・」
「そんなことは、どうでもいい」
なんとも言えない言葉にしがたい感覚を、吐き出す。アリスは紫色の瞳を丸くして言葉を止め、酷く訝しげな顔をした。珍しい表情だった。
だがエトヴァスとしても関係がない。そして、考えるのがもう面倒だった。
食事をしようとエトヴァスはアリスの体をベッドに倒す。小さな体はころんという効果音が似合いそうなほどあっさりと転がる。
この不快な感覚も、空虚感も、食事をすれば全て払拭されるだろう。
アリスはというともう慣れているせいか、エトヴァスが押し倒してもちっとも動揺をみせなかった。寝間着を脱がせて傷を確認したところだったので、まだ胸元を毛布で押さえているだけで、肩などはむき出しだ。あらわになっている首元に軽く首に牙を立てたのに、アリスは動じる様子もなく天井に視線をむけたまま口を開く。
「そういえば、ヘイズルーン(山羊)育ててるおじさんが、ソーセージ?くれるって言っていたよ」
「・・・」
良かったなとでも答えれば良いのか。自分が食糧になっているのに、この会話はなんなのだろうか。
「林檎農家の隣で、オレルスの知りあ、」
エトヴァスはもうその名前を聞くのが嫌で、目の前にあった首に軽く吸い付いた。
「っ」
アリスが息をのんだのがわかった。やっと言葉が、途切れる。
それに満足し、魔術を使って痛みを緩和しながら、アリスの首と肩の間辺りに牙を立てる。ぷつっと牙が肌を突き破る感触とともになんとも形容しがたい満足感が心を満たす。
「んっ」
さすがにアリスも口を噤み、ぎゅっとエトヴァスの肩の服を掴んだ。自分でもそこそこ抉ったなと思ったが、口に広がる満足感がすべてを覆っていく。
美味しい。アリスは本当に驚くほど美味しいのだ。
「うっ、いった」
擦れた高い声。遠慮なくそれをすすり咀嚼すると、びくっとアリスが体を跳ね上げた。先ほど僅かに感じた気がした不快感はエトヴァスのなかにもうない。血の一滴すらもったいない気がして、溢れるすべてを舐めとる。
それからアリスの傷を治し、アリスを見下ろした。
「え、えとう゛ぁっ」
少し痛かったのか涙で濡れた紫色の瞳がぼんやりエトヴァスを映す。
体を引っ張り起こし、寝巻きを着せて背中を撫でてやると、ぐすっと鼻をすすりながら肩に頬をすり寄せてきた。体から力が抜けていて、エトヴァスが抱きかかえるとされるがままだ。先ほどのようにどうでも良いことを話したりはせず、ただ静かにエトヴァスに身を委ねていた。
それを何も考えずに抱きしめているとアリスが少し身を離し、先ほどまでアリスを喰らっていた唇に、アリスの指が乗る。それに軽く噛みつくと指先から血がこぼれた。わずかな血を舐めとるだけで美味しい。もったいない。
「・・・ねえ、エトヴァス」
アリスが手を引っ込め、躊躇うようなそぶりをみせながらも、口を開く。
「わたしがオレルスと遊びに行くの、いやなの?」
唐突な質問だった。エトヴァスは「・・・いや?」とアリスの言葉を反芻する。
魔族とはいえオレルスは子供だ。アリスがそれと出かけ、襲われたところで何ら問題はない。防御魔術で弾かれて終わりだ。別に出かけたところでエトヴァスが不利益を被ることはない。
ましてや領地管理人の息子であるオレルスとアリスの関係をとりもったのはエトヴァスだ。アリスとは同年代であり、仕事をしているエトヴァスのそばにいるより、アリスはきっと楽しいだろう。さみしさも紛れるに違いない。
だからオレルスとアリスが遊ぶのを嫌がる理由はエトヴァスにない。そう思ったが、否定の言葉が出てこない。なにかが心にひっかかる。
「・・・」
アリスが紫色の大きな瞳を瞬く。エトヴァスはなんとなくいたたまれなくて、視線をそらしてふと気づく。いたたまれないとはなんだ。アリスはこちらを見ているだけだ。何故、視線をそらす必要があるのだろうか。
何かがおかしい。体調でも悪いのだろうか。だが莫大な魔力を持つアリスの血肉のおかげですこぶる体調は良いから、問題はないはずだ。
「何故そう思う」
「・・・エトヴァスがわたしの話すことを遮るのを、はじめて聞いたから」
アリスに言われてエトヴァスは気づく。
退屈な話だと思ってもエトヴァスは基本的に他人の話を遮らない。寿命が長く一分一秒を急ぐ必要もないので、役に立たない、必要がないと思っても黙って聞いている。
確かにさきほどエトヴァスはアリスの発言を、心底どうでも良いと思った。思って、遮ったのだ。そうするのが、当然だと思った。だが、常ならば面白かろうと間違っていてもエトヴァスは常に人の話は最後まで聞く。暇で時間があるからだ。エトヴァスは面倒だと思っている弟の長話でも遮らない。一応聞いている。
なのに、先ほど何故自分はアリスの話を遮ったのだろうか。
たいした内容ではなかったはずだ。そもそも言葉が拙いアリスの発言に、たいした内容はない。アリスはオレルスと今日したことを話していただけだ。
エトヴァスはなにかを思い、感じ、アリスの言葉を遮った。
「それは・・・」
空腹だったからだとエトヴァスはそう口にしようとしたが、口を閉ざす。
空腹が理由ではない。どちらかというとエトヴァスはこの不快感を払拭するために、そしてアリスの口を塞ぐために、アリスの血肉を喰らおうと思った。だからそれは理由ではない。
エトヴァスはどうしてこんな澱んだ感情を抱えているのだろうか。
「おじさんのソーセージの話は、良いんでしょ?」
アリスは子供だが馬鹿ではないと感じるのは、こういうときだ。
恐らくアリスはつまらない会話を繰り返すことで、エトヴァスが何を不快に思ったかを確認し、それがオレルスだと確信したから口にしたのだろう。
ただエトヴァスはアリスの指摘を否定も肯定もできなかった。
オレルスとアリスの関係は、あくまでエトヴァスが誘導したものだ。それを不快に思うことなど、あるだろうか。ある程度の不快感が先ほど血肉を喰らうことで解消されてしまったこともあり、納得しきれない。
アリスはエトヴァスの煮え切らない態度に酷く困ったような表情をした。
エトヴァスがオレルスに不快感を持った断片は捉えた。だが、明日もオレルスと遊ぶ約束はしているだろう。そのまま遊びに行くのか、どうするのか迷っているらしい。
エトヴァスはじっとアリスの答えを待つ。
「・・・明日、最後にするよ」
エトヴァスには子供の言い訳のように聞こえた。そう、子供の言い訳だ。
アリスはきっとオレルスと遊ぶのが楽しかったのだろう。だから明日を最後の一日にして、最後に多少の話をして、もう遊べなくなったと説明する気なのだ。アリスは最後の一日を手放すことを惜しんだ。
そして、エトヴァス自身もその瞬間にはっきりとわかった。さきほどアリスの血肉を奪い、払拭されていた感情が戻ってくる。エトヴァスはそれを口に出さなかった。そして同時に自分の感情としてそれを理解した。
「・・・」
なんて気分が悪いものなのだろうか。
これは不快感だ。エトヴァスは明確にオレルスとアリスが出かけることが、不愉快だ。アリスが自分のそばにいないことが、オレルスと出かけていることが不愉快だ。しかもアリスはエトヴァスが面白く思っていないことを知っている。それにもかかわらず、こちらを無視する気らしい。
それをエトヴァスはアリスが自分よりオレルスを優先したように感じた。
アリスはもう自分を見てはいない。オレルスにどう説明するか、最後になにを言うのかを考えているのだろう。だが、エトヴァスはアリスの亜麻色の旋毛をじっと見つめる。多分エトヴァスは自分で信じられないほど冷たい目でアリスを見ていた。
不愉快だと認識すれば、それを排除するのに容赦はなかった。
絶対、エトヴァスさんのほうが子供