13.オレルス
オレルスが丸一日遊んだアリスへの感想は、弱くて頼りない奴だった。
アリスは林檎農園のおいじさんと話していた午前中からもう眠たそうにしていて、ラケットでバトミントンをし、おやつに林檎をもがせてもらって食べる頃には一度元気になっていたが、また昼過ぎた頃から酷く眠たそうだった。
まわりの魔族たちが屋敷に帰ることを勧めていたが、楽しいので帰りたくないらしい。そうしてアリスの希望を優先していたのがいけなかったのだろう。
秋になり、六時を過ぎれば暗くなる。
オレルスは別に暗くても目はよく見えていたが、アリスはまったく見えないらしい。近くにあった煉瓦に手をぶつけ、二の腕に大きな痣も作っていた。そして今やっと手をつないで帰路についたが、アリスは足下がおぼつかない。すぐに何かにけつまずく。
「人間って、暗いと目も見えないし、本当に弱いのな」
オレルスは足下をみながらよたよたと歩くアリスに、思わずそう言ってしまった。
非力だとはアリスから自己申告されていたが、本当になにもできない。はしごに登ったときもバランス感覚が悪くて地面に落ちていたし、今も暗いなかあまりよく見えていないのか、足もとの石にすぐ蹴躓く。まだこけていないが、時間の問題だろう。
「腰も大丈夫なのかよ」
「うん。痛くはないよ。でもこんなにけつまづくのはじめてかも」
アリスは眠たそうに目をこすりながら笑っているが、笑いごとではないと思う。領主がアリスと手をつないで散歩をしているとの噂を聞くが、単純にこけるからではないかと思わされるほどだ。
林檎農園のおじいさんも、人間は個体として身体能力が低いとは話していた。ただ誰もが魔族で人間の感覚はわからない。同年代のオレルスからしてみれば、ひとまず危なっかしくてたまらないことしかわからなかった。
「あのさ、おんぶしてやるよ」
「え?いいよ」
「いや、このまんまじゃおまえ絶対こけるって」
オレルスはアリスの前に膝をつく。
「でも、重たいよ」
「別に俺、魔族だもん」
そう言えばアリスが躊躇いがちに後ろから腕を回してくる。オレルスは立ち上がりぽんっと何度か揺らして態勢を整える。はじめて誰かをおんぶするが、大丈夫そうだ。オレルスはアリスがあまりに心配するのでアリスの重さが気になったが、背負ってみればやはりそれほど重さを感じない。
「すごいね、わたしもオレルスをおんぶできるかな」
「ぜってー無理」
オレルスがアリスをおんぶできても、逆は絶対無理だ。今日一日で、オレルスはアリスが体力がないこと、非力であることを痛いほど知った。きっと魔族のオレルスと人間のアリスには大きな違いがあるのだろう。
「せっかくオレルスが梨園もあるって教えてくれたのにね」
本当は林檎農園のある山の裏の梨園も行こうかと思っていた。ただアリスは林檎農園まででバテてしまい、結局行けなかった。目的だった林檎農園のおじいさんの話は聞けたが、眠たそうにしていたアリスを気にし、周りの魔族たちもリンゴ狩りや別の遊びをすすめてくれ、結局そこで長居して一日が終わってしまった。
「梨園行くなら、行きも帰りも俺のおんぶな」
「え、なんで?」
「バテるだろ。結構距離あるんだよ」
梨園まではそれほど遠くはなく、歩けば二十分ほどだが山道だ。ただ今日の様子を見る限り、平面で十分が限界だろう。足下が悪い山道などこける可能性もあるし、そもそもたどり着けないはずだ。
「ごめんね、わたし歩くの上手になったのになぁ」
アリスは悲しそうな声で息を吐く。
首に回された柔らかそうな肉のついた腕から良い匂いがする。それがオレルスのなかにある欲求をくすぐる。それに気づいてはいけない気がして、感覚を遠ざけるために頭を振った。
「歩くの上手になったって、なんだよ」
「わたし、半年前は歩けなかったんだよ」
オレルスの金色の髪に、アリスの吐息があたる。アリスの長い亜麻色の髪がくすぐったい。背中にある重みが、温かい。色々感じるけれど、それを無視して、オレルスはアリスに尋ねる。
「は?なんで?」
「わたし、ずっと一つの部屋に閉じ込められてたんだ。長い間歩かないと、歩けなくなっちゃうんだって」
アリスは普通に話す。彼女にとって当たり前なのだろうが、話している内容が重すぎる。
「・・・おまえさぁ、要塞都市の結界の動力源だったんじゃねぇの?」
オレルスでも聞いたことがある。
半年以上前、千年前に張られた要塞都市クイクルムの対魔族結界が破られた。この地の領主で、魔族の将軍でもあるビューレイストによってである。そしてその結界の動力源だったのがアリスのはずだ。結界が破られたことで、人間側が一年の休戦の代価として魔族側に差し出した。
上位の魔族は莫大な魔力を維持するために、同じく莫大な魔力を有する食糧が必要になる。
だからアリスは領主の「妃」とされているが、同時に食糧でもある。そのことはオレルスも知っている。だが少なくとも人間にとっては自分たちを守る盾でもあったわけで、丁重に扱われる存在だと思っていた。
「そうだよ。でもずっと閉じ込められてたから、歩いたことなかったの。練習したんだよ」
「領主さまと手をつないでか」
「うん。そうなんだ」
アリスは領主に絶大な信頼と愛着を抱いている。それは何も知らないオレルスでもなんとなくわかっていた。
彼女は領主が大好きだ。領主のことを悪く言うと怒るし、何かと彼のことを嬉しそうに話す。本当なら、アリスは領主の食糧だ。魔術があってもそれは痛みが伴うだろう。それでも彼女が領主を好きでいるのは、歩行訓練などに協力したからなのかも知れない。
だから、可哀想にも思う。
「おまえ、なんで領主さまといんの?」
「なんでって?」
「だって、お妃さまなりたくなかったんじゃねえの?」
オレルスの姉のクレールングのように、自分が領主の妃となりたいと思う魔族はたくさんいる。だがアリスは別に領主の妃になりたそうではなかった。人間で弱いしアリスは、きっとたくさん傷つくことになるのだろう。
「なりたいとかなりたくないとかじゃなくて、多分、わたしを守るためにそうしてくれたんだと思うんだ」
「・・・まぁ、食糧じゃかっこつかねぇもんな。まぁ人間の妃は例もあるし」
「そうなの?」
「そうだよ」
人間のアリスは知らないだろうが、将軍が食糧を性欲の対象にして妃にした事例はいくつかある。だから別にアリスが妃でもおかしくはない。ただ、十歳という幼い年齢で食糧になり、妃にされた人間はいないだろう。
「でもさ、領主の妃は複数いても良いはずだから、今はひとりだけだけど、同じ立場の人ができれば危ねぇんだぞ」
「・・・そうなの?」
「あぁ、ヘルブリンディの惨劇って知ってっか?人間の妃を、他の妃が殺して、将軍のヘルブリンディが、領民も含めてみんな皆殺しにしたんだ」
将軍のヘルブリンディが、寵愛した人間の妃が殺されたことをきっかけに領民を皆殺しにした、魔族なら知らない者がいない話だ。
生き残りがほぼいないのでいずれも憶測の域を出ないが、間違いないのは妊娠中の人間の妃を、別の妃達が結託して殺したことがきっかけだったことだ。ヘルブリンディは性欲に忠実な魔族で、寵愛した人間の妃のほかにも妃を抱えていた。
そのなかで人間の妃を寵愛したこと、彼女だけが妊娠したことが他の妃にとっては面白くなかったのだろう。
これは大方将軍の暴挙としてあちこちで語り継がれているが、人間の妃の立場に立てば最大の無辜の被害者といえる。そしてアリスは下手をすれば、同じ立場になってしまうだろう。
「そっか、わたしは、死にたくないな」
アリスの答えはどこかおっとりとしていて、人ごとのようだった。
人間と魔族の通婚は少ない。それは魔族が人間を食糧と見なしているからだ。人間は常人でも一定の魔力を持つのに、肉体的に脆弱だ。混血のオレルスはさほど衝動を持たないし、今では魔力の高い動物が家畜化され、人間を喰うことはほとんどない。
だが、オレルスでもアリスの莫大な魔力を感じると、美味しそうだなと感じてしまう。それが性だ。
だから将軍職にいる上位の魔族で人間を正式な妃にしたのは、オレルスが知る限り領主以外にふたりしかいない。惨劇を引き起こしたヘルブリンディと、今の魔王オーディンだ。
「・・・今の魔王のオーディンも、人間の妃がいた時期があるんだぜ」
「え?そうなの?」
「うん。将軍のバルドルの母親だよ。でもそいつも他の妃に襲われて怪我したことあるって」
アリスが背中で驚いた気配がした。
今の魔王オーディンは将軍だった頃、ふたりの妃がいた。純血の魔族であるヨルズと、もうひとりは人間だ。ヨルズは将軍のひとりでもあり、彼女はだからこそ人間の妃を傷つけた。そして一族は族滅に近い扱いを受けたと聞く。
アリスは人間で立場が弱い。領主が別の妃を得ればかなり厳しい立場に追い込まれるだろう。
「・・・まぁ、その人間の妃は前の魔王に襲われたときに追い詰められて、魔族の入れない白銀の檻にいたのに、自殺しちゃうんだけど」
オーディンの人間の妃は、一度別の妃に襲われてから魔族の入れない白銀の檻で過ごしたと言われる。だが前の魔王がその檻を襲ったとき、喰われるのに怯え、自殺した。檻は魔族が入れなかったのに自殺したのは、人間が感情的な生きもので、恐怖に耐えきれなかったからだと言われる。
いつの世も、捕食者である魔族と食糧である人間の悲劇は、ありきたりなメロドラマだ。
「だからな、マジで気をつけろよ」
「心配してくれるの?ありがとう」
「そんな軽い調子で大丈夫なのかよ」
何を言っていてもアリスは相変わらずふわふわした空気をまとっていて、真剣味も悲壮感もない。だからオレルスは心配になって念を押すように言う。
背負っているので表情は見えない。だがぎゅっと後ろから回されていた腕の力が強くなった。
「だって、わたしにはそうするしかないから」
ふっと後ろから響くその声は、先ほどの無邪気なものではない。
「こうして、生きていくしかないの」
か細い声だった。それでオレルスは思い知る。
アリスはちゃんと知っている。自分の生がどれほど薄氷を踏むような危ういものであるのか、誰かに縋って成立しているものだと理解している。
「でもね、これで良かったって思ってるんだ」
柔らかく、アリスは穏やかに言う。
「なんで?」
「いまこうして話せているのも、おんぶしてもらえるのも、わたしが対魔族結界の動力源だったら、閉じ込められていればできなかったことだから」
オレルスは優しい声を聞きながら、背中の重みに言葉にしがたい切ない感情を抱いた。
魔族と人間は寄り添ってもろくなことにならない。そう一般的に言われるのは、将軍の妃の悲劇があまりによく知られるからだ。それでも彼女たちはアリスのように、将軍たちと寄り添って幸せだったのかも知れない。
魔族のなかにいた人間たちは、多くの場合食糧として魔族に捧げられた。アリスのように人間に捨てられた人間もいたかもしれない。彼女らの幸せがどこにあったか、他人のオレルスたちにはわからない。彼女らと時間を、生をともにした魔族にしかわからないのだ。
いや、生をともにしていてもわからないのかもしれない。
「・・・また、明日になったら梨園行こうぜ、」
オレルスにできることはない。だからアリスが小さな幸せを重ねられるように、オレルスは笑う。
「うん」
アリスも笑う。
それでいい、何も気づかなくて良いのだと、オレルスは思った。