05.メノウ
メノウがエトヴァスに仕えている原因を聞いたアリスは、口をぽかんとしていた。
「・・・魔術って、そんなことができるんだ・・・」
「えぇ。複雑な条件をつけることはできませんが・・・」
メノウはエトヴァスとの間に主従契約を結ばれている。主従契約と言えば聞こえは良いが、現実は隷属契約だ。
ただし、かなり異常な契約でもあった。
メノウが付与されているのは、「アリスが命じる限りアリスの傍にいて、エトヴァス以外がアリスを傷つける場合、アリスを守るのに全力を尽くすこと」だ。メノウが主従関係を強いたエトヴァス自身を襲うことは許容されている。
「まぁ、いいんですよ。いつかやり返しますから」
だからエトヴァスを殺したいならアリスのそばにいればいい話だ。メノウはこの状況にそれなりに納得していた。
はじめて見たとき、メノウはこの小さな少女に心底同情した。
アリスの魔力はこちらが恐怖を感じるほど莫大なもので、しかも人間であることは一目見ればわかった。ただ血で斑模様になったサイズの合わないシャツを着て、魔族であるエトヴァスの傍でぼんやりとこちらを見ているガリガリの人間の少女を見たときの衝撃は、主従契約への不満を吹っ飛ばすほどだった。
要塞都市クイクルムの結界が魔族の将軍に破られ、その結界の動力源だった人間が魔族にさしだされたというニュースはすでに聞いていたから、それがアリスだと推測することは簡単だった。
これほど莫大な魔力を持つ人間を、アリスは五百年におよぶ自らの人生のなかで一度も見たことがない。
彼女はまだ幼く、人間にもかかわらず、同族から捨てられたのだ。挙げ句の果て血肉を奪うためだけに、魔族に飼われている。人間も人間だが魔族も魔族だ。少しでもどうにかしてやりたいとは思うが、メノウがエトヴァスをどうにかすることは現時点では不可能だった。
「そもそも主従契約には大きな魔力差が前提になります」
「エトヴァスって魔力が大きいの?」
「大きいなんてものじゃありません。それも魔族のなかでも有数の、強い魔族ですよ」
魔力で強制的な主従契約には、圧倒的な魔力差がいるのだという。戦闘の末に魔力を削られたとはいえ、鬼は元々かなりの魔力を保有しているので、主従契約を結ばされるほどの差を感じたのはメノウもはじめてのことだった。
だが当然だ。
「・・・天空のビューレイストは魔族の将軍としてはあまりにも有名です。魔王候補にも挙がったことのある人物ですよ。でも、彼がそうだとは」
彼はエトヴァスと名乗っているし、アリスにそう呼ばせているが、彼の本当の名は「ビューレイスト」、魔族で十二人いる将軍のひとりだ。
「ふぅん、エトヴァスのお名前はビューレイストなの?名前がほかにもあるんだね」
アリスは無邪気に小首を傾げてみせる。それは外のことをなにも知らないからだろう。
「本当の名前がどちらかはわかりません。有名な魔族ですが、ほぼ姿を現さないので・・・」
魔族はかなり繁栄している種族で、人間と並ぶほど支配領域も広い。そのため情報は鬼であるメノウにも自然と入ってきていた。
魔族は長く生きるので強い魔族の入れかわりは少ないし、将軍となれば百年にひとりも変わらない。天空のビューレイストは領地を持つ十二人の魔族の将軍のひとりで、将軍のなかでも有数の力を持つ魔族だった。ただし名前は驚くほどよく知られているが、ほぼ姿を現さないことでも有名だ。
最後に表舞台に出てきたのは百年前、魔王を倒した男を喰ったとされるときだが、これも一瞬だ。
ビューレイストの領地は人間の支配領域と接しているが、彼の容姿に関する情報はまったくと言っていいほど出回っていない。だからまさかそれが目の前にいるなど、メノウは思いもしなかった。多分メノウはこの上なく運が悪かったのだ。
恐らく彼は単純に人間であるアリスを飼おうと思い、世話をできる種族を探していた。相手が魔族でなく、そこそこ強ければ誰でも良かったはずだ。
「・・・まぁ、魔族に人間の世話をさせるわけにはいきませんからね」
エトヴァスの判断は概ね正しいとメノウでも理解できる。
鬼であるメノウは魔族の生態をよく知るわけではないが、魔族は魔力の多寡を味覚に還元している節がある。だから脆弱な割に魔力の高い人間が食糧として大好きだ。魔族にアリスの世話をさせれば、なんとかして喰おうとするものが現れるだろう。
しかしながらアリスの身の安全を確保するためそこそこの実力者をつけねばならない。それが魔族であれば危険この上ないだろう。
要するにあのエトヴァスという魔族は、自分自身はアリスを喰いものにするが、それを他の共有する気はないのだ。魔族は食欲と性欲に忠実で、それ以外のことに関しては感情の起伏に乏しく、無頓着だと聞く。そういう意味では彼の行動は、食糧を独占しようとする純血の魔族らしいと言えた。
「なんかでも、ごめんね・・・その、行きたいところがあれば、行ってくれてもいいよ。」
アリスはしょんぼりし、心から申し訳なさそうに言う。
メノウも最初こそ人間に仕えるなどふざけるなと思ったが、この少女はおっとりしていて、無茶苦茶を言うこともない。それにメノウに与えられた主従契約は「アリスが命じる限りアリスの傍にいて、エトヴァス以外がアリスを傷つける場合、アリスを守るのに全力を尽くすこと」だ。
彼女が死ぬまでのたった百年ほどが終われば、メノウは自由になれる。エトヴァスも、アリスがいなくなればメノウを捨て置くだろう。彼は基本的にメノウに一ミリも興味がない。彼はアリスが死ねばアリスを喰うだろうから、メノウごときの血肉などほしがらないはずだ。
鬼も長命な種族であるため、百年はまぁ許容できる範囲だった。
「待遇も悪くはないです。まぁここでの生活は平穏ですし、貴方のことも心配ですから」
メノウは自分よりかなり背の低い、まだ幼い少女の頭を撫でる。
労働環境は悪くない。城にいる他の魔族たちは鬼とはいえ魔力と戦闘力が高いメノウを一切襲ってこない。特別な立場にいるため、誰かに押さえつけられることもない。契約上エトヴァスがアリスを傷つけるのを止めることはできないが、メノウがエトヴァスを攻撃することは禁じられていない。
いつかエトヴァスの息の根を止め、アリスを外の世界に連れ出せる日が来るのかも知れない。それが魔族に押さえられるという屈辱を受けたメノウが、その屈辱を晴らす唯一の方法だ。鬼は獰猛で、誇り高い生き物だ。踏みにじられたことは絶対に忘れない。
だから、そのいつかがあまりに遠いものであることを、メノウは知っている。
「うん。わたしもとても楽しいんだよ」
アリスが紫色の瞳を細めて笑う。メノウはその無邪気な笑顔に心が痛んだ。
初めて会った時、彼女は青白い肌をしていて、亜麻色の髪もボサボサだった。声すらまともに出せず、ガリガリで痩せ細り、歩けるどころか座るのですら支えなしにはできなかった。
それは魔族のエトヴァスのせいではない。人間が彼女をそう扱っていたのだ。
アリスがぽつぽつ話すことを総括すると、人間は幼い頃からアリスを要塞都市の結界の動力源として結界の術式のある一室に閉じ込めていたようだ。しかも彼女の母親がそこにアリスを置いていったという。それを彼女はこともなげに拙い言葉で話していた。
そして誰もアリスに閉じ込められている理由を話さなかったようだ。
恐らくアリスは対魔族結界の動力源だったことも、己が莫大な魔力を持つことも知らない。ただ一室に閉じ込められ、魔族にさしだされたとそれだけを認識している。
そう、アリスはどれも当たり前すぎて、辛いことだともたいして酷いことだとも思っていない。
他方、エトヴァスはアリスを食糧としてしか見ていない。どれほど戯れに勉強を教えたりしても、食糧以上ではない。その証拠に半年たった今でも、彼はアリスに魔術を教えない。
莫大な魔力を持つアリスは、魔術師として、もしくは騎士として極めて優れた才能を持っている。しかし彼女が食糧である限り捕食者が武器を与えるはずもない。優れた武器の使い手になるとわかっている相手に、武器など与えないだろう。
あまりに酷い扱いだ。それでもメノウはアリスの前でそれを口にしない。
アリスはふわふわと笑っている。彼女は何もわかっていない。わかっていないから無邪気に笑っていられる。
アリスの世界はあまりに絶望まみれだ。
アリスは人間から息をすること以外のすべてを奪われてきた。そしてアリスは今、自分の足で歩き、食事をし、話す権利を得た。だが、それを得たかわりに、これから一生を魔族に囲われ、奪われる。なんて残酷なのだろう。
「・・・でも他にもたくさん楽しいことがあるんですよ」
メノウは切なくなって、アリスの小さな手に自分の手を重ねる。
このくらいの年頃の人間なら、同じ年頃の少女たちと街に出かけたり、学校に行ったり、話したり、大きくなればいつか恋をしたり当たり前のことができる。アリスはおっとりしているが明るいから、きっとすぐに友達ができるだろう。容姿もかわいらしいから、大人になれば普通の同年代の男の子とデートをすることだってできるはずだ。
「今で十分楽しいよ」
アリスはよくわからないのか、曖昧に笑う。想像もできないのだろう。メノウにはこの哀れな少女をどうすることが幸せなのか、わからない。
ただひとつだけわかるのは、今、メノウにはどうすることもできないことだ。
きっと外に出たら、魔力の制御もできないアリスは、この魔力故に上位の魔族に狙われる。人間はアリスを魔族に差し出した本人たちで、また差し出されないとも限らない。
悲しいことにアリスは有数の魔族である天空のビューレイストのもとだからこそ、何も心配せず、こうして笑っていられる。何も知らずにいられる。他に、行き場所などないのだ。
メノウはぐっと拳を握りしめる。だが、ふと、何かが聞こえた気がした。
ぱっとアリスが顔を上げる。どうやら彼女にも聞こえたらしい。メノウにも聞こえた。室内ではない。ふたりは同時に、廊下に面した扉を見た。