10.アリス
アリスは目の前の少年をぼんやりと眺める。
黄金の髪の少し長めの髪に、水色の大きな瞳。年の頃は少しアリスより上と言ったところだろう。彼はからっとした笑みを浮かべ、アリスに笑った。
「俺、オレルスって言うんだ!」
「・・・わたしは、アリス」
アリスは言いながら、内心ではっきり言えば良かったとため息をつきたくなった。
アリスがエトヴァスにさみしいと言ったせいか、領地管理人のクレーレンとエトヴァスが話している間、エトヴァスはアリスの同年代でもある領地管理人の息子のオレルスが相手をするよう、手配してくれたようだった。
たしかにさみしくはない。さみしくはないけれど、エトヴァスではないので、アリスとしては複雑な気分だ。別にアリスはエトヴァスのことは好きだが、同年代の子供と遊びたいわけではない。ましてや同年代の子供など初めての相手で、アリスは逆に何を話せば良いかすらわからなかった。
ただオレルスはそんなこと気にしない。
「これで、馬を作るんだぜ」
彼は水色の瞳をきらきらさせて、どんぐりをテーブルの上に広げる。そしてぐさっとまるで林檎か何かに刺すように軽く、爪楊枝のような細くて真っ直ぐな棒をそのどんぐりに突き刺した。あっという間に足のように四本の棒が刺さる。
それをアリスもやれと言われているようだ。
「・・・」
アリスはじっと彼のやっていることを見つめる。
「それ、わたしできないと思う」
「なんで?」
「わたし、そんな力ないよ」
やってみなくてもわかる。アリスはその細い棒をどんぐりに突き刺すことなど絶対にできない。
「なんで?」
「人間って弱いの」
「弱いってどのくらい弱いの?」
「うーん、」
オレルスに聞かれても、アリスには説明が難しい。悩んでいると、彼はにっと笑った。
「じゃあ、俺がやってやるよ!」
「う、うん」
彼はさっさとどんぐりに五つの棒を刺し、一本の上には頭かわりにもうひとつのどんぐりを刺す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
あっという間に出来た馬をのんびり眺めながらアリスがお礼を言うと、彼は楽しそうに笑った。
「俺、姉ちゃんと年が離れててさ。同年代の奴と遊ぶのってはじめてなんだ。喜んでくれて良かったよ」
別にこれを楽しいと思っているわけではないのだが、オレルスもこちらを気にかけてくれているのだろう。ただ同年代と言われても、アリスはそもそも目の前の少年がいくつなのかを知らない。少し年かさなのはわかるが、一体いくつなのだろう。
「オレルスは、何歳なの?」
「十二歳!」
「わたしより二つ年上なんだね。お姉さんとはどのくらい離れてるの?」
「うーん、二百年くらいかな」
「に、二百年・・・」
まだ十年ほどしか生きていないアリスには途方もない時間だ。しかも人間は百年ほどしか生きない。200年などアリスの人生2回分だ。さらにいうとアリスには魔族の年齢や育ちをよく知らなかった。
「えっと、オレルスは混血なの?」
「うん。親父が巨人との混血で、お袋は純血」
「えっと、魔族とか巨人って、どのくらいで大人になるの?」
「え?二十年くらいじゃね?・・・人間とか、エルフとか巨人とかも同じだろ?成人って認められるのは魔族18歳くらいだけど、種族でいろいろだった気がする。でもだいたいどの種族も体は20歳くらいまで同じように成長すんじゃねぇの?」
オレルスとしては常識らしいがアリスは知らなかったので、子供から大人への成長のシステムに納得する。
どうやら他の種族でも変わらず、大人になるまでは二十年くらいらしい。アリスは人間が二十年で大人になることすら知らなかったので、少し驚く。寿命が同じでも、大人になるのにかかる時間はそれほど変わるものではないのだ。
大人になってからの時間がたつのが、遅いだけ。
「魔族は長生きするから子供って、少ねぇんだよ。このへんじゃあ、俺の前は五十歳で家畜の世話をしてるシュヴァインだけだ」
「・・・そ、そうなんだ。でも、わたしも子供には、貴方以外会ったことがないな」
アリスもなんとなく、エトヴァスに言われるので「子供」という言葉は知っている。
ただ幼い頃から結界の動力源として幽閉されていたので、同年代の子供はおろか、まともに生きものと話したのはエトヴァスところに来てからだ。当然同年代の子供などほぼ見たこともないし、年齢が近くて知っているのはエルフのヴァラのところで見た人間のシグルズくらいだ。とはいえ彼ももう十代半ばだった。
同じくらいの身長の子供に会ったのは、オレルスがはじめてかも知れない。
「マジで?おまえもなの?大人って面白くねぇよな。みんな、口うるさくってめっちゃ退屈なんだよ」
オレルスはアリスを同じ「子供」と認識し、「大人」を罵る。
それは十二歳という思春期のはじまり特有の反抗期故だったが、アリスはなんとなく「子供」「大人」という枠組みがまだなんとかわかる程度だ。しかも「大人」として見る生き物がエトヴァスとメノウくらいであるため、「大人」が嫌だという感覚もない。
「うーん、そこまでは思わないけどな。口うるさくもないし、退屈になるより勉強しなくちゃいけないし」
アリスは半年以上エトヴァスと城の一室で暮らしているが、退屈とまで思ったことはない。
エトヴァスのところに来た頃は話す練習や歩く練習で、それどころではなかった。だいたい話せ、歩けるようになっても、次は文字の読み書き、算術、魔術などの勉強が待っていた。
アリスはできないことが沢山ある。
だから退屈どころか、常に時間は足りない。エトヴァスが出かけたりして思い悩んだり退屈に思ったことはあったが、今はエトヴァスがいるので、退屈を覚える前にエトヴァスに聞く。彼も丁寧に物事を教えてくれる。エトヴァスがそばにいる今となっては大人が面白くないとか、退屈だと思うことはあまりなかった。
「勉強?おまえ、マジで?」
オレルスは信じられないと大げさに身を引く。
「勉強なんて退屈なもんだろ?面白くねぇもんじゃん」
「そうでもないよ。全部教えてくれるし、」
「だれが?」
「ビューレイストだよ」
アリスは領地管理人であるオレルスの父親と話しているエトヴァスを振り返る。魔族のなかで彼は「ビューレイスト」と呼ばれているので、素直にそう答える。
アリスの勉強はすべて彼が見ている。概ね読み書き、算術と魔術だが、たまに本を読んでくれる。どれも毎日丁寧に間違いを教えてくれるし、チェックは欠かさない。アリスも最初は難しいと思っていたが、やるべきものだと淡々と促されるので、そういうものだと今では受け入れていた。
「領主さまが教えんの?」
「うん。全部そうだよ」
「へんなの」
「へんなの?普通なら誰が教えるの?」
「先生だよ。専門の先生」
「せんせい?」
先生とは、なんなのだろうか。アリスはその単語すら知らず、首を傾げる。
「おまえ、先生を知らねぇの?勉強とかそういうの教えてくれる人だよ」
「じゃあ、ビューレイストが “先生”なのかな」
エトヴァスは「先生」なのだろうかとアリスが言うと、彼は半目になって首を横に振った。
「領主さまは先生じゃねえだろ。そうじゃねぇよ。先生ってめっちゃ賢くてさ。何でも知ってて」
「え?でも賢くて、何でも知ってるよ」
エトヴァスは、何でも知っている。アリスが知らない人間のことも、魔族のことも、沢山知っている。だから、多分アリスにとって、エトヴァスが「先生」なのだろう。だがオレルスはちっとも納得できないようだった。
「なんかおまえ、いろいろ変な奴だよな」
「そうかな?」
「だって、先生しらねぇっておかしいよ。人間は先生っていねぇの?」
「・・・さぁ?どうなんだろうね」
アリスは幼い頃から対魔族結界の動力源として幽閉されて育ち、そのまま魔族のエトヴァスに食糧として差し出された。だから人間社会のことなど、何一つ知らない。だから人間に「先生」がいるかどうかはわからない。
アリスが答えると、ますますオレルスは訝しそうな顔をした。
「おまえ、人間だよな」
「うん」
「でも、人間のこと、知んねぇの?」
「うん」
「わけわかんね。おまえって、変な話ばっかだな」
オレルスは二頭目のどんぐりの馬を作りながら、言った。
どんぐりに軽く押し込まれていく棒をアリスはぼんやり眺める。これが単純な魔族と人間の身体能力の違いなのだろう。当然、力のない人間のアリスが逆立ちしたって魔族になれるわけではない。だが、人間でありながら人間を知らないアリスは、はたして人間と言えるのだろうか。
気分がだんだん沈み込んでいく。
ぽっかり目の前に穴が開いてそこに吸い込まれていくような不思議な感覚。アリスがよって立つ瀬など、どこにもないのだと思い知らされるようで、アリスはドレスの裾を握りしめる。
「そもそもさぁ、おまえ、その年で領主さまの妃って、おかしくね?」
「・・・そうなのかな?」
そんなこと言われても、それはアリスが決めたことではない。エトヴァスが決めたことだ。おかしかったとしても、アリスに決定権などない。どうしようもない。
そもそもアリスには「妃」がなんなのかもわからないのだ。
「姉ちゃんだって、おかしいって言ってたしさ。なんでおまえみたいに小さいのが、領主様の妃なんだよ」
おかしい、変だと。そう言われもアリスはどうすればよいのだろう。どこにいけばよいのか。何が変で何が正しく、普通なのか。人間でありながら人間に捨てられ、魔族のエトヴァスに育てられるアリスには、そうしたきっと当たり前だろう価値観を押しつけられてもわからない。
頭がぐるぐる回ってうまく言葉が出てこない。座っているのに足下が不安定で、揺れているようだ。
エトヴァスには、不安になればすぐに言ってこいと言われた。だが、いまエトヴァスは領地管理人のクレーレンとなにかを話し込んでおり、アリスの様子に気づいていない。それに説明しろと言われても、言葉が何も出てこなくてうまく説明できないだろう。
俯いてただ耐えるためだけにぎゅっと白いドレスの裾を握りしめる。
「・・・え、」
アリスが黙り込んだのに気づいたのか、オレルスがその淡い水色の瞳をまん丸にして、酷く焦った声を出す。だがそうではなかった。
「ご、ごめん!!おまえを悪く言うつもりはなかったんだよ!!」
酷くうわずった謝罪だった。アリスは顔を上げて、目を瞬く。その拍子に、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「・・・」
言われて、アリスは自分が泣いていることに気づいた。でも、止まらない。困って自分の服の袖で目元をこすると、オレルスは酷く困惑したように情けなく口をへの字にした。
「・・・おまえ・・・、よく考えたら、なんで領主様といるんだよ。人間なんだよな?」
「わ、わかんないよ・・・わ、わたし、つれてこられただけだから」
母がアリスを要塞都市の一室に対魔族結界の動力源として捨てていったから、エトヴァスが対魔族結界を破って都市にとってアリスはいらなくなったから、だから一年の休戦のためにエトヴァスの食糧として差し出されたから。
何故と言われても、どれもアリスが選んだことではなく、否応なしにここまで来た。
「じゃあ、なんで領主様の妃なんかになったんだよ」
「わ、わかんないよ、だ、だって、そうするって言われたから」
どれもアリスに拒否権があるだろうか。
アリスには「妃」の意味すらわからないのだ。本当にエトヴァスに突然、そう扱うと言われた。アリスは「妃」というその言葉の意味すらまともに知らない。だから、変だと言われても、自分にはどうしようもないし、何が変なのかすらもわからない。
既存のものから逸脱してしまった責任や理由をアリスに求められても、アリスにはどうしようもない。
アリスは自分が抱く感情を上手くオレルスに説明できなかった。だがアリスの戸惑いは十分に伝わったのだろう。
オレルスは本当に申し訳なさそうに肩を落とした。
「ごめん。・・・確かに、変とか、酷いこと言ってごめん。おまえが要塞都市の動力源で領主様に差し出されたって話、聞いたことある」
「・・・」
「人間知らなくても、ここにいたくなくても、非力なおまえが領主さまに逆らえるわけねぇもんな」
「・・・」
「おかしいのは、領主さまじゃん」
「え・・・?」
アリスは彼の結論に目を丸くする。
「だって、領主様がおまえをほしがらなきゃ、普通に人間として暮らしてたんだろ?」
「・・・」
そんなことを考えたことがなくて、アリスは言葉が出なかった。
アリスは要塞都市の対魔族結界の動力源だった。その結界はエトヴァスによって壊された。莫大な魔力を持つアリスを、魔族のエトヴァスに一年の休戦の代償に差し出したのは人間側だったと聞いている。だがもしエトヴァスがそれを拒否していたら、どうなっていたのだろう。
動力源として長く幽閉され、声も出ず、立つこともできないアリスは、対魔族結界のなくなった要塞都市で生きていけたのだろうか。
エトヴァスはアリスを食糧として美味だと思うから、少しでも長生きさせようと肉体的にも精神的にも大事にしてくれる。だが、はたしてアリスに何のうまみもない人間が、見ず知らずのアリスに何かをしてくれるのだろうか。
だからといって他の魔族でも、きっとアリスは食い尽くされて終わりだっただろう。
「わ、わたしは、ビューレイストに差し出されて、良かったよ」
「でも、領主様がいなけりゃおまえ魔族と一緒に暮らさなくても良かったじゃん。妃にしたのだって、領主様だろ?アリスがなりたかったわけじゃないんだろ?」
「たしかに決めたのはビューレイストだけど、わたしを守ってくれる。守ろうとしてくれてるんだもの、」
なにもかも、アリスにはよくわからない。でもエトヴァスが悪く言われているようで、なんだかいやだ。
「ビューレイストは悪くないよ」
エトヴァスは魔族でアリスとは行動規範が違う。違うけれど、少なくともアリスの身を案じて、「妃」にしたはずだ。だからきっと、アリスが理解できないだけで、彼は悪くない。それに今改めて考えてみても、やはりアリスの最善の道は過去も未来もきっとエトヴァスといることだ。
アリスがはっきりと言い返すと、オレルスは少し困った顔をした。
「・・・おまえ、自分のことはちっとも言い返さないのに。領主さまのことは言い返すのな」
「え?」
「ひとまず、悪かったよ。・・・魔族の女はさ、強い魔族の子供を産むのが幸せって考えがあるんだよ。だから将軍の妃になりたいとか、そういうのあるから、姉ちゃん悪口言ってるのかも」
彼の姉のことだろう。もしかするとアリスがおかしいと声高に言ったのは、彼の姉だったのかも知れない。
「まぁ、かあさんもかあさんで、ちょっと変なんだけどさ」
彼の母で将軍のシヴのことを言っているのだろう。ただ彼女も夫は将軍のトールだと聞いているから、仮に魔族が強い男の子供を産むのが幸せだと考えていたとして、間違いなく魔族の価値観にそう、強い男を得たということになるだろう。
ならば、オレルスの姉のクレールングは、強い男であるエトヴァスの「妃」であるアリスを羨ましく思っているのだろうか。「妃」には、そういう力があるかも知れない。
「そういや、人間の女の幸せって、なんなんだ?」
オレルスは驚くようなことを聞いてきた。だがアリスはそんなこと、まったくわからない。想像したこともない。
「なんなんだろう。あとでビューレイストに聞いてみるね」
アリスはそう言ったが、オレルスは不思議そうな顔をする。
「なんで魔族に聞くんだよ。領主さまって魔族じゃん。さっきからおかしくね?」
「・・・長く生きてて、わたしよりよく知ってるから?」
エトヴァスが人間の間で暮らしていたことがあるとか、そういう詳しいことは言わない方が良いだろう。それにエトヴァスがアリスよりも長く生きているというのは本当だ。
アリスが言うと、オレルスはぱっと良い案を思いついたのか明るい表情になった。
「じゃあ、林檎農園のじじいの方が、よく知ってんじゃね?六千歳とかだった気が」
アリスも会った林檎農園の老人は、千年ほど前の人間との戦役にも参加したと言っていた。エトヴァスは千歳を越しているというが、老人の方が年上なのかも知れない。アリスには魔族の年の取り方がよくわからないが、同じ魔族のオレルスが言うならそうなのだろう。
「明日一緒に、人間ってなにか、聞きにいかね?」
無邪気な笑顔でオレルスが誘ってくる。
「・・・う、うーん」
「なんかまずいのか?」
「・・・ちょっと、聞いてからじゃないと」
エトヴァスはまだ後ろで領地管理人と話している。難しい話をしているだろうし、大人の話はあまり邪魔をしない方が良いことは、魔王城に行ったときもそうだったので、なんとなくわかっていた。
「そうだな、おまえお妃さまだもんな!」
オレルスが笑って言った。
だがやはり、そのお「妃」さまがなになのかがわからない。エトヴァスは、アリスの父にとっての母みたいなものだと言っていたが、どちらも朧気にしか覚えていない。ただ、仲が良かったのは覚えている。
すべてが狂いだしたのは、父がいなくなってからだ。
もう、声すらも覚えていない。ただ眠るときに背中を叩いてくれた大きな手や、抱きついたときの温もりはなんとなく覚えている。アリスが小さかったので父はイメージとしてはエトヴァスよりずっと大きい。でもたぶん、体格などは随分小さかった。
「アリス、」
低くて平坦な声が、自分の名前を呼ぶ。話が終わったらしい。
「あのね。明日もお話する?」
「あぁ、明日は北の領地管理人のところに行っていた家令のヴィントが来るからな」
まだ仕事は続くらしい。その間、アリスは暇を潰すことになる。
「なら、オレルスと一緒に、この間会ったおじいさんのところに行ってもいい?」
エトヴァスは少し驚いているようにも見えた。ただ顔色は変わらないし、瞳の大きさも変わらない。いつもどおり聞き心地の良い落ち着いた平坦な声音で、アリスに事実を確認する。
「何をしに行くんだ?」
「人間が何かを聞きに行くの」
「・・・はぁ?」
今度は完全に驚いたのがわかった。だが、何が変なのか、何に驚いているのか、アリスにはちっともわからない。
「・・・人間?」
「うん」
エトヴァスは小首を傾げていたが、満面の笑みで頷いた。エトヴァスは相変わらず訝しげだ。その後ろでは領地管理人で、オレルスの父親クレーレンは恐怖と困惑の入り交じる表情で呆然としている。
でもそれが何故なのかアリスは何もわからなかった。