07.アリス
アリスはじっと目の前の女性を見つめる。
領地管理人のクレーレンの隣に、ものすごい魔力量の女性が立っていた。
クレーレンは横にも縦にも大きい人だ。エトヴァスも男性としては大きい方だが、クレーレンも同じぐらいある。さらに横幅がエトヴァスに比べて二倍以上あり、端的に言えば太っている。だから一瞬身長はエトヴァスと同じなのに、クレーレンの方が大きく見える。
そしてその隣に、今日はそれに負けないくらい見事な体格の女性が立っていた。
三十代の後半くらいだろうか。全体的に横に大きな女性だが彼女が何より目立つのはそのふっくらとした体格と鮮やかな金色の髪だ。足下まである長い髪は緩やかに波打っていて、それなのにきらきらと輝き艶やかだ。
エトヴァスも明るい金髪をしているが、輝きがまったく違う。まるで金が流れているようだ。
しかもその女性はエトヴァスほどではないがものすごい魔力量で、最近他人の魔力が明確に読めるようになっているアリスは、思わずエトヴァスの後ろに隠れてしまった。
どう見てもクレーレンと隣り合う彼女は使用人ではなさそうだ。ただ領地管理人のクレーレンから家族として紹介されたのは娘と息子だけだった。彼女は誰なのだろうかと内心首を傾げていると、エトヴァスが口を開いた。
「シヴ、」
エトヴァスの知り合いらしい。アリスは顔を上げて彼を見るが、相変わらずの平坦な表情だった。懐かしんだり、親しげな雰囲気は一切ない。いつもどおり無表情なエトヴァスからは何も読み取れず、アリスはまた視線を目の前の女性に戻す。
すると彼女は水色の瞳を細め、アリスを見返してきた。
「あらあら、これが噂の?」
女性にしては低く、しっかりとした声だった。
彼女はエトヴァスの陰に隠れるアリスの方へと歩み寄り、アリスのと目線が合うように膝を折った。アリスはエトヴァスから顔だけをのぞかせてじっと彼女を観察する。
エトヴァスが自分を食べる化けものだ。そのかわり彼はアリスをほかの魔族から守ってくれる。それはよくわかっているので怖いという気持ちと、シヴと呼ばれた女性への興味で心が揺れる。彼女は穏やかに微笑んで、視線はアリスのままエトヴァスに口を開いた。
「思っていたよりずっと小さいわねぇ。いくつなの?」
「十歳くらいだ」
エトヴァスがいつもどおりの平坦な声音で答える。
幽閉されていたアリスにはどのくらい閉じ込められていたのかわからないので、年齢は曖昧だ。ただ見た目から十歳程度だとエトヴァスは常々言っていた。
シヴは頬に手を当てほぅっと息を吐く。
「なんて美味しそうなのかしら」
細められた水色の瞳の奥には、魔族特有の食欲がある。それを目の当たりにしてアリスは怖くなったが、エトヴァスの大きな手がアリスの肩を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「やらんぞ」
「あんたが食糧わけ与えるたまじゃないことくらい知ってるわ。本当に肝っ玉の小さい男ねぇ。男は体も心も大きい方が素敵よ」
彼女は潔く立ち上がり、肉のしっかりついていそうな手でばんばんとエトヴァスの胸を叩いてからクレーレンの隣へと戻る。
「私は大きい男が好みだからね」
シヴはもうエトヴァスに興味がないのか、領地管理人のクレーレンに熱烈に抱きつきにいった。アリスはそれをぼんやりと眺めた。
アリスはよくエトヴァスに抱きつく。それは彼が大好きだからだ。だからきっと彼女はクレーレンのことが好きなのだろう。そう思ってエトヴァスを見上げると、彼もまたシヴにまったく興味がないのかシヴを見てすらおらず、アリスの小さな手を取って近くのソファーに腰を下した。ソファーの前にあるローテーブルの上にはすでにお茶やお菓子の準備がされている。
「座れ」
アリスはぼんやりと立ち尽くしていたが、当たり前のように促される。
「う、うん」
アリスは慌てて頷き、エトヴァスの隣に座る。だが女性が気になる。アリスがソファーの背もたれの向こう側で熱烈な口づけを交わすシヴとクレーレンを眺めて、エトヴァスが口を開いた。
「シヴは魔族の将軍のひとりだ」
「!」
ぶんっとエトヴァスの方を振り返る。
魔力が大きいとは思ったが、アリスの感覚は間違いではなかったらしい。少し納得していると、エトヴァスが続けてシヴの情報を口にする。
「そしてシヴはトールの妃だ」
「トールさんって・・・」
将軍会議で会った、一際がたいの良い魔族だ。アリスは気のよさそうな赤毛の男を思い出し、「ん?」と眉を寄せる。
「・・・妃?」
「あぁ」
エトヴァスは、アリスを面倒だから対外的には「妃」として扱うと言っていて、「妃」とはアリスの父にとっての母のようなものだと説明した。
そしてクレーレンと抱きあっているシヴは、トールの妃だという。
アリスは両親の顔を覚えていないし、父には抱きしめられた記憶があるが、母にはほとんどない。実際にアリスを捨てたのも母だ。ただ父と母が抱き合っているところをなんとなく覚えているし、父と母はいつも寄り添っていた。
エトヴァスの最初の説明は、矛盾していないだろうか。
「ねえ、わたし、やっぱりわからないよ。妃ってなに」
「上位の魔族にとっては、便利な同盟者」
「・・・」
なんなのだそれは。なにもわからない。アリスがどう解釈すれば良いのか困っていると、エトヴァスが使用人が出したコーヒーを飲みながら息を吐いた。
「魔族は食欲と性欲に忠実だと教えただろ。俺は性欲はないが」
「ないの?」
「そうだな。だが一般的にはある魔族が多い。性欲はひとりで解消できない。その解消相手は将軍と妃、おまえだと父と母になるのか?ただそれでも満足できなければほかにもパートナーが必要になる」
「う、うん、・・・うん?」
「そのパートナーが、クレーレン。本命はトールなんだろうけどな」
「全然わかんないよ。じゃあ、妃はなんなの?」
「結婚した相手。つまり社会的に認められたパートナーだな」
「しゃかい・・・?」
「俺との関係だけで、社会とのつながりのないおまえに結婚制度の説明は難しいな。おまえは俺の妃になったわけだから、その事実だけでいいんじゃないか」
結局「妃」という存在の説明はすべて棚上げされてしまったようだ。アリスがわかったのはシヴがトールの妃で、同時にトールとクレーレンがシヴにとってともに過ごすパートナーということだけだ。
アリスには「妃」という地位の価値は一切わからないが、わからないことにこだわっても仕方がない。
そう思っていたが、エトヴァスはシヴの情報をつらつらと口にする。
「シヴはトールとの間にもクレーレンとの間にも子供がいるが、体が大きい相手が好みだそうだ」
「え?」
大きいと言うが、トールはあくまで身長が高く筋肉質でがたいが良いだけで、クレーレンはどう見ても太っている。これを同じように「大きい」と表現するのはどうかと思う。だがエトヴァスは落ち着いた様子で出されていたクッキーをアリスのティーカップのふちに置いた。
落ち着いて食べろと言うことらしい。
「シヴは好みとして物理的に身長が百九十センチ、体重が百キロを超えていることが前提だそうだ」
「・・・全然わからないよ。エトヴァスってどのくらい?」
「身長百九十二センチ、体重八十五キロ」
「じゃあ、体重が全然足りないね」
アリスはおずおずとクッキーを口に入れる。林檎のジャムが入っているらしく、甘くてほんのり林檎の香りがした。
エトヴァスでも魔族のなかでは身長も体格も大きい方だ。だが、どうやら彼女が求めているのはそれ以上らしい。エトヴァスでも体重だけで三十キロほどのアリスの二倍は優に超している。百キロなどもう想像ができない。
「かあさん」
同じ黄金の髪のクレーレンの息子オレルスが、母親であるシヴに抱きつく。シヴは大きな腕で、息子を抱き上げた。娘で年長のクレールングは控えめに座っているだけだが、アリスはぼんやりと両親と過ごす子どもを眺めた。
アリスの両親はもう記憶の中ですら朧気だ。
顔や髪の色はもう覚えていない。声もだ。だからそういう姿を見ると少しだけ羨ましくなる。父はいなくなった。死んだという。母親には捨てられた。だからそれはもう自分が手に入れることの出来ないものだ。
アリスはエトヴァスの腰に抱きつく。
「なんだ」
「少しさみしい気分なの」
アリスがぐりぐりとエトヴァスのお腹に頭を押しつけると大きな手に宥めるようにぽんぽんと背中を叩かれる。彼の膝に頭をのせると、頭を撫でてくれた。
両親がもういない、人間から捨てられたアリスが縋れる相手は、もうエトヴァスしかいない。でも、彼がいることを幸運に思う。
「・・・」
大きな手が優しくアリスの髪を撫でていく。それだけなのに温かい何かで心がいっぱいになり、それだけで安心できて眠たくなってきた。最近魘されて夜によく起きることもあり、総じて眠いのだ。
エトヴァスはアリスが疲れないようにと何かと気を遣ってくれているが、もともと体力がある方ではない。しかも毎日朝晩散歩をするようになってから、この三時くらいがとくに眠たい。うとうとしていると、いつの間にかシヴとクレーレン、その娘クレールングと息子オレルスも席に着いていた。
『私が選ばれれば、貴方は捨てられるかも知れないわね』
昨日のクレールングの言葉もあり、アリスはクレールングが怖かったが、彼女は気にした様子もなく長い枯茶の髪を後ろに払って紅茶に手を伸ばした。どうやら彼女はアリスを傷つけるために言った昨日の言葉をさほど気にしていないらしい。
アリスはそれを忘れるためにも、さっさと眠ることにして目を閉じた。暗闇は酷く怖いが、それでもエトヴァスがいれば、少しだけ心が和らいでいく。
「あぁ、シヴ」
エトヴァスの低い声が、何かを言い出した。それを半分眠ったような意識で聞いていたが、次の瞬間、覚醒した。
「その娘、死んでも構わんか」
いつもどおりの、あまりに平坦な声音だった。だが内容が内容だけに、アリスはばっと身を起こしてアリスの向かいに座るシヴを見た。シヴの隣に座る領地管理人のクレーレンが怯えたような枯茶の瞳でシヴを見ている。斜め向かいに座る娘のクレールングはガタガタと震えていた。
だが、シヴはそんなこと知らないとでも言うように鷹揚に微笑む。
「彼女は私の娘じゃないわ。それが私に関係ある?」
どうやら、オレルスはシヴの子供だが、クレールングの方はそうではないらしい。そしてシヴの口調は、エトヴァスとよく似た、まさに他者に対する興味のない態度だった。
アリスは背筋にぞわっとしたものを感じたが、この恐怖はエトヴァスに縋り付いても払拭できない。エトヴァスもまったく同じことをよく言い捨てるからだ。
魔族、特に純血の魔族は感情の起伏に乏しい。食欲、性欲が関わらない限り親族でもたいした情などないし興味がないのは普通だ。そうそれは純血の魔族の、典型的な発言だった。
「おまえの食糧だと困るからな」
エトヴァスはいつも通り平坦にそう言って、アリスの背中をその大きな手で撫でる。
食欲に固執する上位の魔族同士で他者の食糧に手を出すのは御法度だ。どんな理由があろうと、殺されても文句は言えないと、アリスも聞いている。だからエトヴァスはわざわざ将軍職にあるシヴに確認したのだ。
いったいエトヴァスは何を言う、いや、するつもりなのだろう。アリスは背中に添えられたエトヴァスの手から恐怖と不安が這い上がってくる気がした。
彼の金色の光彩の入った翡翠の瞳は昨日見た酷く冷たい色をはらんでいて、彼の膝に置いたアリスの手が小刻みに震える。
顔色は変わらない。だが、彼は怒っている。アリスははじめてそう思った。
「アリスに、俺のためなら何でも出来ると言ったらしいな」
平坦な、いつもどおり静かな声音だ。それが身を小さくしているクレールングに向けられる。
昨日の話だ。何故そんな話を今更エトヴァスはするのだろう。アリスはなんとなく恐ろしくて、迎えに座るシヴを見る。
だが彼女はちっとも興味がないようで、クレールングをまったく見ておらず、にこにこと笑いながらアリスを見ていた。うっとりしたその表情は、どう見ても美味しそうなご飯を見る目だ。冷え切った空気のなかで、彼女だけが浮いている。
アリスと同い年くらいに見える少年のオレルスは、その水色の瞳で冷たく姉を見ている。領地管理人のクレーレンはエトヴァスに怯えきっているようで、あわあわと話の成り行きを見守るしかないようだった。
「ならこの場で、両手を切り落とせ」
エトヴァスの言うことは、唐突だった。だが、彼は今、彼女に自分の言動を証明しろと迫っている。
『私は貴方と違って、何でもして差し上げられるわ』
昨日、クレールングはアリスに言った。そのことは、エトヴァスもアリスの記憶を見たので知っている。
アリスはエトヴァスに言われても死にたくないし、手足がもがれるのも嫌だ。だから何でもできると言える彼女に劣等感すら抱いたのだが、エトヴァスはそれを実際にできるものなのか、確認しようとしているらしい。
ここは応接間で、皆おやつを食べている。ただ全員手は止まっていた。
何故こんなところでそんなことを言うのだと思ったが、エトヴァスはいつもどおり肘置きに頬杖をつき、アリスの背中を宥めるように撫でる。その手があまりにも優しくて、そしてクレールングに向ける目が冷たすぎて、アリスはどうして良いかわからなかった。
「魔族だろう?どうせはえてくる」
人間は手足を切り落とせば、はえてこない。だが魔族は違うのだとエトヴァスはクレールングに追い打ちをかける。
両手を失うというのが魔族にとってどの程度の痛手なのか、アリスにはさっぱりわからない。だが、はえてくるとしても魔族にとって両手は重要だったのだろう。
「・・・そ、それ、は」
クレールングは細い自分の手を握りしめて震えている。
弟のオレルスの方が心底呆れたようにため息をついた。父親のクレーレンはエトヴァスが怖いのか娘を庇うことすらできず震えている。
まずいなとアリスは思った。
エトヴァスの翡翠の瞳は冷淡で、平坦で、何を考えているか一見するとうかがえない。だが彼は邪魔なものを排除することを躊躇わない。そしてエトヴァスは彼女に自分の言ったことを証明しろと突きつけているが、本質はそこにはない。
彼はアリスにいらないことを吹き込んだことを、そして吹き込んだその浅慮さを排除し、他の面々を牽制しようと思っている。
「なんだ、みんな同じなんだね」
アリスはごくりとつばを飲み込んだが、いつもどおりを心がけて言葉を紡ぐ。
「わたしだってさすがに手足なくなるのはいやだもん」
アリスはゆっくりした調子で言う。それは本心でもあったので、一度口にすれば淀みなく、するすると出てきた。アリスの声がゆったりとしているが高いこともあり、言葉は想像していたよりずっと子供っぽく響く。
要するに彼女はアリスに勝ちたくて、「嘘」をついたのだ。そしてアリスは単純に、彼女の言うことを真に受けすぎたのだろう。
そういうことだ。そういうことにしなければ、エトヴァスは間違いなくクレールングを殺す。
アリスは表向きには穏やかに、内心は必死でそう言ったが、クレールングは納得できなかったらしい。悔しそうにぐっと唇を噛んだ。ここでクレールングがアリスに謝罪の一つでもさっさとすれば些末なことで終わった。
なのに、彼女はわかっていない。
そしてエトヴァスは彼女の態度を静かな翡翠の瞳で眺めている。そう、静かな色合いだったが、その奥にある冷淡さにアリスはぞっとする。彼もまた納得していない。
「だから言っただろう。納得したか?」
エトヴァスはアリスにこの女には口ほどの覚悟はないと教えたと、そういう風に思わせようとしているのかも知れない。エトヴァスは肘をついていたが身を起こし、アリスに来るようにと両手を開く。アリスも知らないふりで笑ってエトヴァスの首に抱きついて、クレールングに背を向けた。
ただ、アリスはエトヴァスの首に手を回しながら、必死で頭を働かせる。彼は甘い男ではない。
答えがどうであれ、何でもできるとうそぶいた限り、何でもさせる気だろう。彼女の腕を落とすはずだ。そしてその後、始末する気でもいる。そのためにアリスが背を向けるように抱きしめたのだ。彼女が消えてしまっても、わからないように。
でもアリスはちゃんとわかっている。
するりとうしろ手に、エトヴァスの左手をとる。アリスの小さな右手とは違う、大きな手だ。彼が左手で魔術を使うことが多いことを、アリスはよく知っている。そしてもう片方の自分の左手でエトヴァスの頬に触れる。頬骨が張っていて硬い。
翡翠の瞳を真っ直ぐ見据える。彼はクレールングではなく、今度はまっすぐアリスを見ている。
「でも、わたしは手がはえてくるならあげてもいいよ」
だからアリスはゆっくりと彼の耳元に唇を寄せ、はっきりとそう言う。
人間の手足は再生しないし、エトヴァスに囓られれば傷は魔術で表面上は治るが、失った血肉は戻らないので貧血で倒れることもある。人間のアリスの肉体は魔族のように再生しないし、頑強ではない。だが再生するなら手足くらいあげても良いとアリスは本心から思う。
言葉を口にすれば、間近にあるエトヴァスの翡翠の瞳が僅かに大きくなる。それを見てアリスはエトヴァスの頬に唇を寄せた。
「それなら、最高だな」
機嫌がいいのかもしれない。
エトヴァスはアリスの肩に自分の額を押しつけた。表情は見えない。だが笑っていて、それを隠しているようだった。
「でしょう?」
アリスもそれを知らないふりをして笑う。たいしたことではないと笑って見せる。
これで誤魔化されてくれるのか、のってくれるのかはエトヴァス次第だ。だから、肩にある彼の頭に頬を寄せた。彼が笑ってこのまま見逃してくれることを願っていた。