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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
四章 少女、領地を視察する
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05.アリス


 アリスはじっと、大きな手に重ねた小さな手を眺めているエトヴァスを見上げる。

 中途半端な長さの柔らかそうな明るめの金色の髪がかかる、金色がかった翡翠色の瞳。その眼差しは静かにアリスの手に向けられていたが、ほどなく眉間に皺が寄った。次に宙に向けられた翡翠の瞳は酷く冷たくて、アリスはびくっと手を震わせる。

 アリスは、エトヴァスが怒ったところをほとんど見たことがない。彼はいつでも平坦で、なにごとにも感情的になることがない。だからこんなに冷たい目をする彼をはじめて見た。

 だがアリスが怖がっていることに、エトヴァスは気づいたのだろう。


「アリス、」


 頬を大きな手につつみ込まれ、目尻にたまった涙を親指で拭われる。間近にある金色の光彩の入った独特の翡翠の瞳はいつもどおり平坦だ。アリスがどんな失敗をしても、彼が怒ったことはない。淡々と言葉を返してくる。それが彼だ。

 だからたまに、無性に不安になる。彼はアリスのために平然と何でもしてくれるけれど、アリスは自分のことすら自分でできない。

 

『私は貴方と違って、なんでもして差し上げられるわ』


 アリスは、彼女が言ったことをとても羨ましく思った。

 彼女は魔族で、大人で、きっとアリスよりできることは多いだろう。アリスは人間で、子供で、何もできない。それは事実で、目の当たりにすれば酷く落ち込んでどうしたら良いかわからなくなった。

 せめて自分のことはしたい。でも、身長も、何もかも足りない。それが歯がゆくてたまらない。


『私が選ばれれば、貴方は捨てられるかも知れないわね』


 また、自分は捨てられるのか。

 ぞっとするような、体中が底冷えするような感覚だった。その言葉を向けられるだけで、ぽっかりと心に穴が開く。彼の言葉ではないとわかっていても、心がざわついて、凍りついていく。

 捨てられたくない。

 自分を生んだ母も、人間も自分を捨てた。エトヴァスは拾ってくれたけれど、また捨てられてしまうのだろうか。捨てられたら、自分はどうなってしまうのだろう。手間のかかる自分など、いらないと思われても当然だ。

 だが、それはすぐに現実に引き戻される。ぶにっと頬が引っ張られた。


「まず、他人の言葉を信じるな」


 目の前のエトヴァスの翡翠の瞳は静かで、揺らがない。

 アリスの気持ちがぐらぐら揺れても、泣いていても、平坦なままだ。いつの間にかぼろぼろと涙が溢れていて、彼に拭ってもらっていても何の意味もない状態になっていた。


「良いか。おまえと俺の関係は、他人が決めるんじゃない」

「それは・・・そうだけど」

「俺が一言でもそう言ったのか?」


 アリスの記憶を見た上で、彼はアリスの不安を一蹴する。

 エトヴァスはいつも、アリスと自分との関係に他者を挟もうとしない。誰かがアリスがこう思っていると言おうと、必ずアリスにもう一度同じことを問う。アリスがどうしたいのか、どう思うのかを確認する。そしてそれを確認した上で、はじめて言葉を口にするのだ。

 

「何度も言っているが、俺はおまえを捨てる気はない」


 エトヴァスの手がアリスの腰に回され、抱き寄せられる。ベッドに座っている彼と、立っているアリスの背はそれほど変わらない。でも力はずっと強くて、抵抗することはできない。いや、仮に抵抗できたとしても、アリスはしない。彼を拒絶したいわけじゃない。

 いつだってそうだ。アリスにはエトヴァスしかいない。だから、本当に縋りたいのは、躊躇いがあっても疑っても、いつでも彼だ。

 でも、アリスはまだ素直に手を伸ばせない。

 だからアリスはエトヴァスに抱き寄せられ、背中を撫でられても、ぎゅっと自分の寝間着の裾を握りしめることしかできなかった。

 聞くのが怖くて、言いよどむ。疑う。怖くなる。彼が自分をどう思っているのか、葛藤する。不安でたまらない。

 ぼろぼろ涙を流しながら、アリスは言葉を押し出す。

 

「・・・でも、なんでもしてくれるって・・・」

「なんでも?」


 エトヴァスがアリスの体を抱きしめており、彼の顔はアリスの肩にある。だから彼の表情は見えない。でも笑った気がした。


「おまえだって、なんでもするだろう?」


 寝間着から出ている首元に、わざと牙があてられる。


「そ、それは、べつに」


 血肉をエトヴァスに分け与えるのは、半年で慣れてしまった。別にさほどのこととは思っていない。魔術で痛みを緩和されていても牙を立てられる瞬間は痛いこともたまにあるが、じっとしていれば終わる。それ以上を求められることもない。もはや夜のルーティーンワークのようなものだ。

 だが、彼が小さく笑った気配がした。

 あぁ、ずるい。きっと彼はアリスが一番欲しい言葉をもう知っている。


「おまえが生きている限り、俺はおまえ以外と一緒に寝ることはしない」


 低い声が耳元で、ささやく。平坦で、抑揚の乏しい声だ。

 なのに、まるでアリスのすべてを満たしていく。アリスを安心させ、納得させていく。急速に、エトヴァスの大きな体の温もりを感じる気がした。強ばった体が、少しずつ氷が溶けるようにほぐれ、何かに満たされていく。


「そう約束して欲しいと最初から言えば良い」


 アリスはエトヴァスの体に手を回し、力いっぱい抱きつく。それに呼応するように、彼の腕にも力が入った。涙がぼたぼたこぼれ、口から抑えきれない嗚咽が漏れる。大丈夫だという安心感が、つぎつぎに涙を押し出す。泣きたくないのに、涙は止まらない。

 それをアリスは彼の肩に目元を押しつけ、こらえる。


「良いかアリス。これからそういうことを言ってくる奴らはたくさんいる。それにいちいち反応するな」

「・・・うん」


 惑わされてはならないとエトヴァスはアリスを諭す。だが、アリスも歯切れ悪く曖昧に頷いてしまう。そんなに強くなれるだろうかと疑問に思う。

 それを見透かしたように、彼が言った。


「疑うなら、最初に俺に言え。望む約束をいくらでも返してやる」

 

 エトヴァスはできないことはできないと言う。だから、できない約束はしない。黙っていることはあっても、嘘は絶対につかない。逆にできることは約束にして淡々と守ってくれる。そしてそれがわかっているから、アリスはあまり約束を重ねたくない。

 アリスにはまだその約束に、彼が望むような永続性など誓えない。彼ほど変わらないと言い切る自信がない。同じだけのものを返すことができないことが申し訳ない。

 だが、エトヴァスはアリスが泣くのを見て、納得していないか不安に思っていると考えたのだろう。

 

「不安なら、あの女を殺しておくか」

「・・・え、え?」

「おまえにいらないことを吹き込んだらどうなるか、見せしめとして悪くない」


 いらないことというのは確かにそうなのかも知れないなとアリスは思う。クレールングにはアリスを排除しようとする意図があった。だが、少し彼から体を離し、首を横に振る。

 

「さ、さすがにそれはやりすぎじゃ・・・」


 彼女はただ、口でそう言っただけで、それをアリスが本気にしただけだ。エトヴァスはアリスの答えに不思議そうに首をひねる。


「そうか?はじめが肝心だぞ」


 見上げたエトヴァスは、むしろ見せしめにクレールングを殺すことが合理的で良い対処策だとでも思っていそうだった。いつもどおり淡々としているのが逆に怖い。

 

「そ、それに、・・・彼女はエトヴァスのためになんでもしてくれるって」

「おまえもできるだろう」

「わたしは、死にたくはないよ・・・。エトヴァスに美味しいから手足ちょうだいって言われても、困るし」


 アリスは自分で言っていて情けなくて、また涙がこぼれそうになった。

 確かにエトヴァスに血肉を与えることはする。ただなんでもできるわけじゃない。この場で死ねと言われれば、エトヴァスに彼のためだと言われても死にたくないと断るだろう。手足をくれとか言われてもやめて欲しいし、怖い。

 アリスは真剣だったが、そう言うと彼は意味ありげに数度その翡翠の瞳を瞬いた。それから口を開く。

 

「おまえは正直なだけだな」

「・・・?」


 意味がわからない。だが、エトヴァスはなだめるように、アリスの濡れた頬に口づけてくる。


「あの女だって、それほど何でもできるわけじゃない」


 エトヴァスの平坦な声に、どこか冷たいものが混じった気がした。怖いと思うと同時に、彼に宥めるように背中をぽんぽんと叩かれる。


「魔族も人間も、口だけというのはよくある」


 そういうものだとエトヴァスは言うが、アリスは魔族も人間もどちらのこともよく知らない。わからない。それが顔に完全に出ていたのだろう。ふにっと頬をひねられた。


「教えてやろうか?」


 だから、当然彼の言葉の意味も、よくわからなかった。



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