03.アリス
エトヴァスの領地を管理するという魔族とエトヴァスが話している間、アリスの相手をしてくれたのは、領主の娘だという女性だった。
「こんにちは」
アリスは彼女をまっすぐ見上げた。
身長は一七〇センチ弱、艶のある枯茶色のまっすぐな長い髪に、同じ色の瞳。彫りが深く、はっきりとした目鼻立ちをしていて、めりはりのある体格から見た目は人間で言う二十代前半といったところだ。ただ魔族なのできっと見た目の年齢など、まったくあてにならない。数百年は生きているのだろう。
彼女は大人の女性らしく服装も体の線に沿った漆黒の服を着ていて、それが色こそ暗いが華やかな容姿にとても似合っていた。アリスの文通仲間で将軍のフレイヤは金髪碧眼の絶世の美女なので着ても似合うかも知れない。きっとアリスは子供なので、黒い服など似合わないだろう。
「はじめまして、私はクレールングよ」
彼女はアリスににこやかに微笑んで見せる。枯茶色の瞳はじっとり吟味するようにアリスの全身を見回して、不思議そうに首を傾げた。
「貴方が好みなのかしら」
「・・・?」
どういう意味なのだろうか。アリスにはわからない。なのに、彼女はとつとつと独り言を呟く。
「身長が小さい方が良いのかしら」
アリスのことだろう。
アリスの身長は、エトヴァスのもとにやってきてよく食べるようになったから、五センチも伸びた。とはいえまだ140センチもなく、小さい。それが良いとはどういう意味だろうか。
エトヴァスは食糧であるアリスを極力長く貪りたいので、よく食べることを推奨しているし、大きくなれば奪える血肉も多くなるらしい。そのため彼はアリスの身長や体重が伸びることを歓迎している節があった。
ただ目の前の彼女は小さい方が「良い」のだという。
「残念だわ」
赤く塗られた唇を自分で人差し指で撫でながら、彼女は本当に残念そうに笑う。
「私が、夜をご一緒したかったのに」
彼女の言葉はどれも意味が掴みがたかったが、ふとアリスはエトヴァスの言葉を思い出した。
『だいたい城以外の場所に外出すると毎回夜這いをかけられたりするから、結界を張るのが面倒だった』
エトヴァスはそう言っていた。
「貴方は、ビューレイストによばいしたいの?」
ビューレイストとは魔族として一般的に使っているエトヴァスの名前だ。アリスが尋ねると、彼女はなんとも言えない複雑そうな顔をした。
「その言葉はあまり良くないわ。領主様が教えたの?」
「え?」
なんと答えれば良いのだろうかと迷っていると、彼女は頬に手を当てて、ため息をついた。
「・・・性欲はない方だと聞いたけど、あったのね」
「・・・?」
魔族は食欲と性欲に忠実だと聞く。ただアリスが知るのは食欲だけだ。性欲とはなんだろうか。エトヴァスから魔族の生態を教えてもらうときにうっすら聞いたことはあったが、具体的に教えてもらったことはない。
ちらりとエトヴァスを見れば、彼はまだ領地管理人と紹介されたクレーレンと後ろで話している。少し離れているので、アリスと彼女がどんな会話をしているのか、聞こえていないようだ。
あとで「性欲」とはなにか聞いてみようと考えていると、目の前の彼女が物憂げにため息をついた。
「魔族では、少し変わってきてはいるけど、強いことが正しいわ。だから強い方と寝て、子供を身ごもるのは正しいことよ」
彼女の枯茶色の瞳が、不思議な色合いを放つ。
「私よりは魔力が大きいらしいわね」
比較的上位の魔族は、相手の魔力をはかる「眼」を持っているとエトヴァスから聞いたことがある。
今、アリスは魔力をエトヴァスくらいで放出している。とはいえ彼とて本当の魔力量は隠している。そしてその僅かな読み違いが、恐らく上位の魔族同士では命取りになるのだろう。アリスもそんな気がしているから、極力上位の魔族の前では小さなことも注意しているし、いらないことを話さない。
だが、恐らく目の前の女性に、そうした「眼」はないようだった。
アリスの魔力探知では、彼女はたいした魔力を持っていないように感じられていた。そして多分彼女はアリスの魔力が自分より「大きい」ということ以外正確にあまりわかっていない。だからこの女性は家令のヴィントのようにアリスの魔力を見てアリスを恐れないし、自分とアリスを比較し、対抗意識もあるようだった。
「結局私ももう少し魔力があれば、選ばれるのかしらね」
「えらばれる?」
アリスは彼女の言うことがちっともわからない。問い返すと、「そうよ」と彼女は頷いた。
「魔族は複数の夜の相手を持つことが普通よ」
アリスがエトヴァスの妃だったとしても、複数の相手を持つのが魔族では普通だ。そう彼女は言ったのだが、彼女が指し示すところがアリスにはよくわからなかった。
アリスは人間だし、そもそも人間と暮らしたのは両親だけで、それも四歳前後までだ。そこからはずっと幽閉されてきているので、「普通」と言われても、魔族の常識はおろか、人間のそれもわからない。だから、エトヴァスが教えたことしか知らない。
「・・・ベッド、いっぱいにならない?」
エトヴァスが言うとおりなら「よばい」というのは夜に部屋に入ってくることだと言うから、要するに一緒に寝たいのだろう。魔族が複数の夜の相手を持つのが普通なら、たくさんの魔族で一緒に寝ると言うことなのだろうか。
確かに城にあるアリスとエトヴァスのベッドは広いので眠れるだろうが、少し違和感がある。
アリスが言うと、目の前の彼女は少し驚いた顔をした。
「貴方・・・」
少し間があり、次の瞬間、アリスに見せつけるような嫌な笑顔をした。
「性欲のない方という話は本当なのかもしれないわね」
彼女はふふっと楽しそうに笑って見せる。先ほどとは打って変わったアリスに見せつける笑みだ。それを見てアリスは心がざわつくのを感じた。彼女の言っていることは何もわからない。ただ彼女がアリスの立ち位置を脅かそうとしているのは、嫌というほどわかった。
「でも私にもチャンスがあって良かったわ。寝所に行くのは貴方もいるからはばかられるし、一度直接言ってみるのも悪くないかも」
その言葉は、アリスに向けられている。
なんのチャンスかはアリスにはわからない。だが悪意とあからさまにわかるような笑み方で、アリスは自分でも眉間に皺が寄るのがわかった。
彼女は内緒話をするように、顔を近づけてくる。
「享楽的な魔族は知らないけど、私は一対一で寝たいわ」
「・・・貴方もエトヴァスと寝たいの?」
アリスはおずおずと尋ねる。アリスにはわからない。彼女が示すものがなにも。だがそれすらも彼女は楽しそうに、同時にアリスを嘲るように笑って見せた。
「ええ、そうよ」
アリスの戸惑いを察したかのような満足げな、微笑み。それは心からの笑顔ではなく、アリスのなかにある何かと、自分のなかにあるそれを比較し、足りないアリスを嗤っている。
心が、勝手にざわつく。だが、それをおさめる方法をアリスは知らない。
「私は貴方と違って、何でもして差し上げられるわ」
ふふっと彼女は艶やかに笑って見せる。その意味をアリスは知らないのに、酷く嫌な感じがして、一歩後ずさる。
ずきんとアリスの心が痛んだ。
アリスは、エトヴァスになんでもあげられるわけじゃない。死ぬのは怖いし、足とか手とかを求められても、震えて動けないだろう。だからなんでもと言える彼女に、酷い劣等感を覚えると同時に、羨ましくなる。
アリスには、そんな覚悟はない。
「私が選ばれれば、貴方は捨てられるかも知れないわね」
ばくばくと心臓が口から出てしまいそうなほど鼓動をはじめる。それなのに、悪寒が体中に走った。
母親からも、人間からも捨てられてきた。それがアリスだ。だからこそ、捨てられることには強い忌避感がある。だが、だからといって彼女のようにエトヴァスのために何でもできるわけではない。エトヴァスのために死や、手足を求められても困る。
そんなこと、覚悟なんてできない。
だがその覚悟のなさを笑われているようで、ぎゅっとアリスはシュミーズドレスの裾を握りしめる。狼狽え、黙り込んでいたので、呼びかけられたことに気づかなかった。
「アリス?」
呼ばれて答えなかったからだろう。気づけばエトヴァスがアリスの背中を叩いていた。
「話は終わった」
見ればこのあたりの領地管理人だと言っていた魔族のクレーレンはもういない。ここにいるのは彼女と、エトヴァスと自分だけだ。アリスは手の震えを隠すように両手をすりあわせる。
「部屋に戻るぞ」
エトヴァスに促され、なんとか足を踏み出す。足がガクガクしているような気がしていたが、案外普通に歩けたことにほっとした。
「ふたりで、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
彼女が意味ありげにアリスに微笑んでから、エトヴァスに声をかける。そこで彼ははじめて彼女に視線を向けた。何故かそれすら見るのが嫌で、アリスは俯く。
「・・・アリス、戻っておけ」
エトヴァスはしばしの沈黙の後そう言って、先に帰るようにアリスの背中を押して促した。
「ひとりで戻れるか?」
「・・・」
いやだと、素直に言えば良かったのかも知れない。そうすれば彼はアリスを無視せず、話を聞いてくれただろう。
だが、彼女の言葉がぐるぐる回る。
まわりすぎて、声が出ず、ただ頷くこともできなかった。
9章まで書き終わったから、週2更新にしてみます
4章が一番穏やかで、プロローグ、エピローグ含めて今のところ20話ジャスト予定