02.エトヴァス
アリスは領地管理人の屋敷に着く頃には見事にヘトヘトだった。
「体力作りが必要だな」
エトヴァスは端的に感想を漏らす。
たった十分、屋敷までの道を歩いてきただけだ。しかも平面で、山道を歩いたわけでもない。なのに、アリスは今や足が震えるほど疲れているようだった。
アリスは幽閉されて育っており、エトヴァスのもとに半年前に来たときは、ろくに声も出せず、歩けもしない状態だった。十歳前後と年齢が若いこともあり、半年ほどで日常生活がおくれる程度には回復したが、やはり運動能力や体力には問題があるのかも知れない。
ましてや肉体的に強靱な魔族と比べれば雲泥の差だ。なんとなく理解はしていたが、城の外に出ればより際立つ。
「う、うん。でも楽しかったよ」
アリスは疲れて足ががくがくだったが、気にしていないようだ。エトヴァスの手を握ったまま、にこにこ笑っている。
そう言えば歩いているときも疲れているようだったが、抱っこを強請ったりはしなかった。
「なら、朝晩歩くべきかもしれんな」
体力作りなど一朝一夕でできるものではない。継続せねばならないだろう。それならば、朝晩十分ほど歩く時間を取っても良い。今までとは異なり、城のなかではなく外に出て歩き、その時間を延ばしていけば、少しずつ体力もつくはずだ。
「うん。エトヴァスと話ながら歩くのは楽しいよ」
エトヴァスはアリスの食糧としての健康しか考えていないが、アリスは別のベクトルで納得する。
どんな解釈であれ、エトヴァスとしてはアリスがやる気を持ってくれるなら、それでいい。
屋敷の前にやってくると、警備と思しき魔族が慌てた様子でなかに人を呼びに行った。
しばらくするつと、屋敷のなかからエトヴァスにとっては見慣れた、南の領地管理人がやってくる。三十代に見える枯茶に碧眼の男の大柄でふくよかな姿は、以前からそれほど変わっていない。エトヴァスと同じくらいの身長があるが、端的に言えば相当太っており、横幅だけでもエトヴァスの二倍はあるだろう。遠目からでも誰だかわかる。
それに続いて枯茶の髪の若い女がやってきた。男の娘だ。そして息子である艶やかな黄金の髪の少年の姿もあった。
「よくおいでくださいました」
昨今では魔族のなかにも礼儀作法という概念が生まれ、迎えに出てきたり頭を下げる魔族が増えてきた。魔力のある家畜と麦を主食にし、比較的穏やかな生活を数百年続けているエトヴァスの領民たちは混血化も進み、その傾向が強かった。
また領地経営に役立つ会計技術などを持っている魔族は混血に多いことから、エトヴァスも積極的にそういう魔族を採用している。合理性を考えれば、その方が楽なのだ。
「お妃さまははじめてですね。私はクレーレンともうします。あと娘のクレールングと、息子のオレルスです」
クレーレンは太った体を折り曲げ、アリスに挨拶をする。それに続いて、若い女性と少年も深々と頭を下げた。
アリスもつられて頭を下げて挨拶をしようとしたが、エトヴァスはそれを手で制す。
エトヴァスは千年以上、妃はおろか恋人もいなかった。そのため領内の法で、領主は法から逸脱した存在でなにをしても許されると法律のなかに規定している。エトヴァスが将軍になった九百年前、エトヴァスは自分が妃や子供を持つ想像ができなかったため、領主の家族に関して規定しなかった。
だが今回アリスを妃にするにあたり、エトヴァスは自分の妃とその子供を領主と同じく法律から逸脱した存在に規定した。またアリスは幼く、人間であるためどうしても舐められるだろう。領主の「妃」の権限はできる限り大きく取り、領主の代理を務められる権限も認めた。
つまりアリスはエトヴァスの食糧であるだけでなく、魔族の社会のなかで、そしてエトヴァスの領地のなかで、正式に「妃」の地位を得たのだ。少なくともエトヴァスの領地内でアリスが頭を下げる相手は、自分の伴侶であるエトヴァス以外いない。
「アリスだ」
エトヴァスはアリスの肩を自分の方へと引き寄せる。アリスはエトヴァスの方を見上げてきたが、何も話さず彼らを軽く一瞥しただけだった。
「お食事にしますか。もしくはお部屋に」
「部屋に案内してくれ」
数日はこの領地管理人の屋敷に泊まる予定だ。エトヴァスが言うと、男は深々と頭を下げた。
「では、お妃さまはこちらのお部屋で、」
男が娘にアリスを別の部屋へと案内させようとする。
「あぁ、アリスは一緒で良い」
エトヴァスは相手の意図がよくわかっていたので、そう言ってアリスの背中を叩く。
「おまえもその方が良いだろう?」
「うん」
アリスは他意なく抱っこを強請るように手を伸ばしてくる。エトヴァスも拒まず彼女の軽く、柔らかい体を抱き上げた。ついでに軽く頬に口づける。それが嬉しかったのか、アリスは柔らかな笑みを浮かべた。
だが効果はてきめんだったようで、男の娘が酷く残念そうな顔をする。
エトヴァスは千年間、妃も恋人もいない。そのためとりつく島もないと思っていた女たちも、領主の「妃」が出現したことで、自分にもチャンスがあるかも知れないと思ったのだろう。ただ食糧のアリスを得たからと言って、エトヴァスが何か変わったわけではない。
ただエトヴァスは以前なら、こうした牽制に意味を見いださなかった。
他人をうかがわずとも、何をされようと自分は構わない。すべてなぎ倒していける力があるので気にも留めなかった。だが、アリスのためにはこうして言葉にせずに牽制することも重要だ。
エトヴァスはアリスを大切にしている。
人間で脆弱なアリスの「妃」としての立場を保証するのは、エトヴァスからの寵愛のみだ。ならばなおさら、アリスを魔族たちの目の前でそれらしく大切に扱うべきだ。
そしてまだ幼いアリスはそれを素直に嬉しく思うはずだ。
アリスはエトヴァスのことに対しては鋭いが、対外的なことには疎い。幼い頃は両親と、対魔族結界の動力源だった幽閉時代は誰とも、魔族のエトヴァスに差し出されてからはエトヴァスと世話係のメノウとしか関わってこなかったアリスに、社会性や恥らいなどまだない。
もともとエトヴァスにひっつくのは好きだし、今も抱っこされ、頬に口づけられたことを喜んでいる。きっとエトヴァスの意図など、まったく理解していないだろう。
「こちらをどうぞ」
男がエトヴァスとアリスを通したのは、かなり広い部屋だった。この屋敷で一番広い客用の寝室だ。ベッドもどう見てもひとりで使うようなレベルではない。ただ部屋は例年と同じで、使い方などはわかりきっていた。
「あと、食事は基本部屋に用意させてくれ。話は食後に時間を設ける」
「わかりました」
アリスは疲れているようだし、食事まで一緒にさせる必要はない。エトヴァスとしても別に領地管理人と食事までともにしたいわけではない。今年の収穫状況を確認したいだけだ。
「くれぐれも、俺とアリスの邪魔はするなよ」
エトヴァスが釘を刺すと、男は緊張した面持ちで頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
男が退出していくのを確認してから、エトヴァスはアリスをソファーに下ろす。
どの程度の牽制で、どの程度の反応を返してくるのか、これはまだエトヴァスとしても未知数で、答えのわからないゲームのような心地だ。良い退屈しのぎだと考えていると、アリスが笑った。
「疲れたね」
「おまえだけな」
たった十分歩いて疲れたなど、アリスだけだ。ただアリスは真剣らしく、足が痛いようで小さな手でふくらはぎを撫でている。今日は慣れないブーツを履いているので、なおさら痛いのかも知れない。
エトヴァスがアリスの足下に膝をつき、アリスのふくらはぎに触れる。柔らかいふくらはぎだが、紐をすべてとかなければブーツが脱げないほど足首のところがむくんでいるようだった。
「むくんでる。運動不足だな」
「毎日歩くしかない?」
「そうだな」
むくみは運動不足も大きく影響すると言われる。エトヴァスがちらりとアリスの様子をうかがうと、アリスはやはり楽しそうにで、あまり痛みを気にしていないようだった。
「ひとまずコートを脱げ。休もう」
エトヴァスは自分のコートを脱ぎ、アリスを促してそちらのコートを脱がせる。それをまとめてハンガーに掛け、部屋のクローゼットにしまった。おそらくここのクローゼットもハンガーがつるされている位置が高く、アリスには届かないだろう。
それから魔力探知で外の動向をうかがい、エトヴァスは口を開く。
「それにしても、妃というのは素晴らしいな」
「・・・?」
「だいたい城以外の場所に外出すると毎回夜這いをかけられたりするから、結界を張るのが面倒だった」
今回は少なくともアリスがいるので、寝所に勝手に入ってくると言うことはないだろう。
魔族は食欲と性欲に忠実で、女は基本的に強い魔族を好む。男側もそれに応じるのが普通で、エトヴァスのようにあまり性欲のないタイプはいるにはいるが少数だ。そのため女側も夜這いをかけるというのはよくあることだった。
だがエトヴァスはそれを常に疎ましく思っていたし、女が入ってこないように結界を張るのが普通だった。ただ今回は魔力探知にかけてもうかがっている女がいない。エトヴァスが妃を得たと通達をしたからだ。さすがに妃が同室の場に乗り込んでくる強者はなかなかいないらしい。
どうやらアリスが傍にいる限り、煩わしい思いはしなくて済むようだ。もちろん来たら来たで妃のいる領主に、そして領主の妃に気も使えないようなレベルの女だ。始末すべきだろうが。
「よばい?」
アリスは言葉の意味がわからないのか、首を傾げてみせる。
「夜に部屋に入ってくる」
「えっと、みんなエトヴァスと一緒に寝たいの?」
子供のアリスには一緒に寝る以外の用事に心当たりがないらしい。
まだ十歳。男女の機微など、知るよしもない。ただ隠すことでもないような気がして、エトヴァスはそのままの答えを返した。
「そうだな。少し違うが、子供が欲しいのさ」
「・・・えっと、一緒に寝てたら、わたしにもエトヴァスの子供ができる?」
「できない」
「・・・よくわかんないよ」
案の定、アリスは理解できなかったらしく、紫色の瞳を瞬く。
「まだ、知らなくて良い」
十歳のアリスがまだ目の当たりにする必要のないことだ。
「うーん・・・?」
アリスは説明がわからないのでエトヴァスの話から意味を一生懸命考えているらしい。幼いアリスが男女のことなど理解できないだろうが、何を考えているのか。くるくると色を変える紫色の瞳を眺めながら、エトヴァスはソファーに腰を下ろす。
魔族は食欲と性欲に固執すると言われる。だがエトヴァスは性欲の方はからきしだった。
別にエトヴァスは不能というわけではない。ただ相手がいるから特別興奮するとかそういったことがまったくないので、相手がいる方が面倒で、自己処理が基本だ。多分、機能としては普通だが、性欲らしい性欲がない。千年間、そうだったのだから、変わるはずがないのだ。
そのときは心からそう考えていたが、あとから考えればこの頃から自分はもうおかしかったと、エトヴァスは断言することができる。
なんだ、「まだ」知らなくて良いとは。
エトヴァスはすでにこの頃からアリスとの「いつか」を無意識に想定していた。まったく自覚はなかったが、たしかに少しずつ準備をしていた。それがこの時はまったく理解できていなかっただけだった。