04.エトヴァス
その男は、エトヴァスにとって歓迎できない客だった。
「久しぶり、直接顔を合わせるのは百年ぶりくらいかな」
城の応接室のソファーにふんぞり返って紅茶を飲んでいる男を、エトヴァスは無感動に見下ろした。
明るい金色の髪はエトヴァスより短く、キラキラ輝く翡翠の瞳は平坦な感情を抱いていることが多い魔族のなかでは珍しく、活力に溢れているようにすら見える。
年齢はさほど変わらない。人間で言うと二十代後半くらいだろう。身長はエトヴァスより少し低く、より細身で、人間の着るシャツとズボンをはいているところまでは一緒だが、その上から彼はコートを着ている。そのため上背がエトヴァスよりもないのに、服装のためか日頃より一回り大きく見えた。
エトヴァスはそれをぼんやり見据える。
魔族が寒暖の差に鈍いとは言え、この暑い時期にどうして彼はコートを着ているのだろう。ただそれを質問しようとも思わない。どうでもいい。興味もない相手だ。
「ほんと、餌取るときくらいしか、全然出てこないからさぁ。元気だった?」
エトヴァスが一言も答えずとも、喋り続ける。
これが昔から変わっていないこの男の性格だ。アリスもよく話す方だが、比にならないくらいよく話す。しかもわかりきったことをなぞるだけだ。
「見たらわかるだろう、ロキ」
エトヴァスは短くそう言って、ロキの前のソファーにローテーブルを挟んで座った。
見る限り、さほど百年前と魔力量が変わった様子はない。千年も生きていれば百年くらいで何も大きな変化はないだろう。
魔族というのは単純に強さで順位を図る野蛮な生きものだ。同時に食欲と性欲以外固執せず、感情の起伏に乏しい。当然、食欲と性欲に関連しない限り他人にさしたる興味も抱かない。共感もしない。純血の魔族、特に男はその傾向が強く、自分のこと、相手が強いかどうか以外さしたる関心もない。
そして強さに関して上位の魔族はみな魔力の量を測る目を持っているので、ある程度はわかる。
だから昨今は混血が増え、少しずつ変わりつつあるが、それでも純血の魔族同士であれば刃を交え、実際に上下を決める必要はあっても、言葉をかわす必要はない。具体的な利益のともなわない情報交換など、個人主義の塊の純血の魔族には価値がないのだ。
エトヴァスも、ロキも同様に両親を同じくする純血の魔族だ。言葉など大して必要ない。なのに、この男は言葉を覚えた頃から「変」だった。
「あははは、だって前のやつを喰ってから、そろそろ百年だったでしょ?みんなびびってたんだよ」
ロキがけらけらと面白そうに笑うのは、ある程度エトヴァスの食糧事情を知っているからだ。
魔族は魔力のある生物を食糧にする。それはエルフでも人間でも何でも良いが、ひとまず魔力が高ければ高いほど滋養に良い。逆に魔力の高い生物を一定期間食べなければ、自分の保有する魔力は下がり続けるし、下手をすれば死ぬ。あまりに弱くなると、同じ魔族に喰われることもある。
エトヴァスは争い事が好きではない。ただ生きるためには喰わねばならない。
効率的なのは弱い魔力を持つ生物を大量に喰うのではなく、高い魔力を持つ生物を喰うことだ。そうすれば他の生物を喰わずにすむ期間を長くすることができるし、戦わずにすむ期間も長くできる。ただ当然高い魔力を持つ生物は戦闘力も高い。
魔族が人間をよく襲うのは、単純に高い魔力を持つ割に肉体的に脆弱だからだ。
エトヴァスは百年前、人間を喰った。莫大な魔力を持つ人間だ。ただそれはもう百年も前の話で、エトヴァスの魔力は随分と下がっていた。次の獲物を確保するべき時期だったのだ。
極端な話、魔力の高い同族でも良かった。だがいろいろ面倒事が伴う。
だから百年前から頭にあった要塞都市クイクルムの結界を破った。人間がわざわざ対魔族結界の動力源で、恐ろしく莫大な魔力を持ったアリスを差し出してきたのには驚いたが、そこには結界に守られた魔力を持つ人間たちがいることはあらかじめ知っていたし、人間なら戦闘力の程度はしれている。
魔族にとって、人間は大方簡単に捕獲できる魔力を持つ食糧だ。対魔族結界さえなければ。
「どうやって結界を破ったのさ」
ロキは間違いなくそれを知りたいと思っているだろう。
かつて大魔術師ルシウスが要塞都市に張った六つの対魔族結界。それらは千年間、魔族に一度も破られることがなかった。要塞都市の結界は人間を守る象徴であり、魔族が簡単に莫大な魔力を持つ人間を確保できない原因でもある。
しかし、半年前、エトヴァスはそれを魔族ではじめて破り、都市から莫大な魔力を持つアリスを手に入れた。
上位の魔族からすれば、対魔族結界を破る方法を聞きたくてたまらないのだろう。
「さぁ」
エトヴァスは確かに要塞都市クイクルムの結界を破った。だがそれは百年前、結界の外側の人間の街に随分と長い間、人間に紛れながら住んだからだ。その間に暇だったので十年近く、結界の構造式を分析していた。それだけだ。
他の要塞都市の結界はまた構造式が違うので、クイクルムの結界が破れたからといって他が破れるわけではない。それに仮に破れる方法を知っていたとしても、言うわけがない。そんなこと、ロキはわかっているはずだ。
百年後なりなんなり、また莫大な魔力を持つ食糧が必要になる。その時に取っておきたいと思うのが上位の魔族の性だ。食糧を他の魔族に分け与えるなど絶対にない。だから、ロキの用事が結界の破壊方法を聞くことではないとエトヴァスも知っていた。
「ねえ、今回の人間、生かしたんだよね?」
また無駄口かと、エトヴァスは内心で嘆息する。
アリスを殺して喰えば、エトヴァスの魔力は一気に戻っただろう。だがそこが最高地点で、数日でもわずかなりとも下がる。しかしエトヴァスは食糧を殺さなかった。半年ほど継続的にアリスの血肉を喰らうことで、百年下がり続けていた魔力値を緩やかに回復させた。
そして、アリスを生かして継続的に血肉をもらっておけば、エトヴァスは魔力を最大値のままキープできる。なんと言ってアリスの血肉を喰らったのは、昨晩だ。恐らく今のエトヴァスはロキが見る限り、最大値の魔力を保有しているだろう。
ロキはエトヴァスの魔力量を見て、そうした事情をすべて理解しているはずだ。
上位の魔族には僅かな魔力値の差も見逃さない眼がある。ロキのエトヴァスも千歳を超える上位の魔族だ。魔力ごときを読み違えるなどあり得ない。だからそんなことを言葉で確認してどうするのだと思う。
魔力量を正確に読み取れないような魔術に精通しない人間ならば、感情的にプレッシャーをかけているとも考えられるが、感情の起伏に乏しい。エトヴァスはわかる事実を口にされたところで、なんとも思わない。
「僕、人間って大好きなんだ」
ロキがにぃっと笑ってみせる。本題は、それだろう。エトヴァスが長期飼育している人間を見てみたいと、言っているのだ。
要塞都市の対魔族結界は莫大な魔力を持つ人間でなければ動かすことができない。魔族にとって魔力が莫大であればあるほど、その血肉は美味と感じるし、食べなくてもいい期間を長く取ることが出る。エトヴァスがその動力源を生かして餌にしていると聞けば、味見してみたいと思っても仕方がないだろう。
ただ、エトヴァスはロキの兄だ。彼の興味はそういう魔族として「まとも」なものでないこともわかっていた。
「おまえに会わせる気はない」
エトヴァスはソファーの肘置きに肘を置き、はっきりと結論を口にした。
「まだ何も言ってないじゃん」
「食糧をわけあう気はない」
「会ってみたいだけだよ!」
ロキは口を尖らせるが、エトヴァスは無駄な話をする気はない。
魔族は感情の起伏は乏しいが、魔力が高ければ共食いするほど食には貪欲な生き物だ。食欲と性欲に忠実などは魔族の習性だ。当然エトヴァスも誰かと食事を共有することはない。上位の魔族なら食糧を独占できるため、あり得ないと理解しているはずだ。
こんなことあらためて口にする意味もない。
「別に食べないよ、ただ会ってみたいだけ」
「なんのために、」
「だって、気になるじゃん!どんな気分なのかなって、聞いてみたいんだよ」
ロキは大げさなほど手を叩いて笑う。
昔から、この男は人間のような感情がまるであるように振る舞う。だが所詮は魔族だ。魔族は感情の起伏に乏しい。当然、たいそうな感情など持つはずもない。
「人間が人間に捨てられるって、どんな気分?って」
翡翠の瞳は、無邪気で残酷な興味に輝いている。
そう、ロキは昔から人間に興味を抱いている。ただその興味は人間の言う相手を思いやる興味ではなく、人間の子供がカエルの足を引きちぎったりしてはしゃぐのと変わらない。どんな風に動くのか、どんな風に表情を変えるのか、それが喜怒哀楽どれであったとしても興味深いというのだ。
「それに食糧の気持ちが変わると、血肉の味も変わるもんだよ」
エトヴァスはロキの話を聞きながら、魔族らしいなと興味すら抱けなかった。
食糧があまりに美味しかったからと長期飼育を目指して食糧を飼い始めたエトヴァスも魔族としては「変」だが、食べ物の味がそのものの感情で変わるなどと、食糧の感情に興味を持ったロキも違う意味で「変」だ。
ただ所詮その異常性も、魔族が固執すると言われる食欲や性欲など人間ならばろくでもないものに落ち着く。つまるところ結局、魔族の性の範疇内なのだ。
「長期で飼うんだろう?僕は人間をよく知ってる。役に立つと思うな」
ロキが楽しそうに笑ってみせる。
「長期飼育、したことあるのか?」
「ないけど、人間の喜怒哀楽はすごくよくわかるよ?」
「・・・」
魔族の支配領域のなかでエトヴァスの領地も、ロキの領地も同じく人間の支配領域に接している。だから人間を捕まえることも容易だ。そのため魔族のなかで、ロキは人間をよく知っていると有名だった。ただ、エトヴァスはその「知っている」をまったくあてにしていない。
ロキのその興味は、食欲に固執するという魔族の域を超えるものではない。また、暇つぶしに食糧で遊んでいるだけだ。そうしてもてあそんで得た人間の喜怒哀楽の情報はさして役に立たないだろう。
「なら、100年前の知識で十分だ」
エトヴァスは、静かにロキに返した。
エトヴァスは百年前、人間とともに10年ほど暮らしている。そのときに一番重要だったのは、生活だ。
まず、食事をし、風呂に入り、そうした当たり前のことを当たり前にできるようにする。長く幽閉され、話すことも歩くこともできなかったアリスは、エトヴァスやメノウの手を借りながら、半年で生活がやっと回るようになってきたところだ。それをのちのちは手を借りずにできるようにならねばならない。
また、魔族や人間に対する知識をある程度つけねば、会話にならないたまろう。アリスは年の割にあまりにものを知らなすぎるのだ。わからない単語が多く、エトヴァスが本を読み聞かせても、ほとんど頭に入っていない。
あれでは仮に城で襲われたときに、柱の陰に隠れろと指示をしても「柱」の意味がわからず首を傾げることになるだろう。
喜怒哀楽、感情云々より、生活面でやるべきことの方が山積みだ。
「それにしても兄弟で魔族としてまともなのはヘルブリンディだけか」
食糧である人間の長期飼育を目指すエトヴァスも、人間の感情を知ろうと人間をもてあそぶロキも魔族として「変」なので、兄弟そろってなにをやっているのかとエトヴァスは息を吐く。
しかし弟のロキは同じ色合いの翡翠の瞳を瞬いた。
「何言ってるの。三百年前の記憶で止まってんじゃない?」
「・・・そうだったな。あいつもまともじゃなかった」
エトヴァスにはロキ以外に弟がもうひとりいる。
食欲と性欲に忠実で、食い荒らす魔族の典型のような男だった。戦いを避け、性欲のないエトヴァスと人間の感情や味に変な固執をしているロキに比べれば単純に食欲と性欲に忠実で、魔族らしいといえば魔族らしい奴だと昔はよく思っていた。
だが、ヘルブリンディは三百年前に魔力のたいしたことのない人間を何故か妃にした。そしてその妃が妊娠中に惨殺され、領民を皆殺しにしたと聞いた頃からよく知らない。百年前に魔王が殺されたときに魔王を決める将軍会議があったが、それにすら出て来なかった。
そもそも弟だと言っても、魔族にとってそれは同一の血筋は高い能力を保証するだけで、他人である。300年会わなくてもさしたる興味はない。
ただし警戒すべきなのは間違いない。エトヴァスの能力は魔族としても非常に高い。血筋を同一にする弟の能力もそこそこ高いのだ。
だからエトヴァスはロキを警戒する。
「ねぇ、見せてよ。ビューレイストの食糧」
ロキはあらためて楽しそうに、楽しそうに笑う。
ビューレイスト。久しぶりに魔族としての自分の名前を呼ばれた気がした。そして最近アリスとばかり過ごしていたので、「エトヴァス」としか呼ばれていなかったなと思い出す。アリスはいつも嬉しそうに笑って名前を呼ぶ。「エトヴァス」と呼ぶ。
かつて、常に生きることに退屈していたエトヴァスは、弟は食糧である人間をもてあそぶという趣味を見つけ、人生楽しそうだなと思っていた。だが今は本当に無邪気に今を楽しむアリスが傍にいるので、それがいかに薄気味悪いものかがわかる。
退屈なのだ、ロキも。
笑っていても目が笑っていない。長い人生が退屈でたまらない。それはエトヴァスにも理解できる感情だ。
どういう名前のつくものかは知らない。
ただいつも、時間は動いているのに、自分だけ止まっているような空虚感がある。退屈というのか、なんなのか。長い寿命を持つというのは、そういうものだ。やるべきことは、おおかた後回しにしてもいい。だから、空虚になる。虚無感だけが雪のように降り積もる。
そしてだからこそ、生きていくために必要な食欲、食糧に固執する。
エトヴァスはソファーの背もたれに背を預け、この男自体の対策を少し考える。だが答えの方は考えるまでもなく決まっていた。
「おまえが何もしない保証がない」
「一緒なら何もできないじゃん」
「そうとも限らない。おまえが人間をどういう風に扱っているかはよく知っている」
エトヴァスは興味がないが、ロキが人間の感情を玩具にし、遊んでいるのは知っている。
人間の親子を殺し合わせたり、拷問をしてみたり、そして絶望した人間を喰うのだ。彼の人間への興味というのは悪趣味この上ない、自分にはない人間の感情を散々もてあそび、最後には喰らう類いのものだ。だから彼の言葉をまだアリスに聞かせてはならない。
邪神のロキ。彼がそう呼ばれるのは、その性癖のためだ。
もちろんアリスがロキの言葉を信じるかどうかはわからない。ただアリスは魔力制御すら覚えていない、莫大な魔力を持つだけの子供だ。混乱し、感情のままに行動すれば、エトヴァスがかけている防御魔術を吹っ飛ばす可能性がある。人生に絶望してもらっても困る。
せっかく彼女の寿命が続く限りあと百年ほど、そして彼女の屍を喰ってまた最低百年ちょっと。あの美味しい血肉を長期間むさぼり、しかも日頃の倍の時間、エトヴァスは安穏に過ごせる予定なのだ。
長命の魔族にとっても二百年はそこそこの時間だ。
そのためにもアリスには肉体的にも精神的もそれなりに健やかに生きてもらわなければならない。人間世界の言葉で言うなら、エトヴァスは人間で言うところの「健康で文化的な生活」をアリスに与えるつもりだった。
「顔くらい良いじゃないか、本当にケチだな」
「帰れ。おまえに構っている時間が惜しい」
魔族には長い寿命があるとは言え、人間にとっては一瞬なのだから、こんな無駄な会話をするよりアリスに本の一つでも読んでやった方が有意義だ。
しばらくは何冊か人間の歴史を読んでやる予定だ。千年ほどは、エトヴァスの感覚では生きているときに起こった事柄だが、彼女にとってはまさに「歴史」で、実感もないだろう。寿命が短いからこそ、人間は「歴史書」を頻繁に遺す。
エトヴァスが頭の中でアリスのことを考えていたが、ふと気づくとロキが得体の知れないものを見るような目でエトヴァスを見ていた。
「なんだ」
「いや、なんか、時間の話を聞くなんてって」
ロキの声が驚きに浮いている。
確かに、魔族にはありあまる時間がある。ロキがやってきて疎ましいと思うことはあっても、時間が惜しいなどと口にしたことはなかったかも知れない。だいたいロキがひとりで喋り続けているのを、ぼんやりと見ているだけだった。
「その食糧と過ごす方が楽しいってこと?」
「楽しいなどという感情はわからんが、おまえと食糧との時間を比較して、どっちが有意義かなんてわかりきったことだろう」
何と比べているんだろうか。
心底疑問でエトヴァスが言うと、ロキが軽やかに「そりゃごもっともだね」と大きく頷いて見せた。
結局、魔族の本質など、食欲や性欲などろくな願望にもとづいてはいない。そういう生きものだ。
だからこそ、信用はしない。アリスの部屋に戻る前に、結界の状態を確認しておこう。ロキは油断ならない。千年以上付き合っていればそれはよく知っている。
自分の平穏のためにエトヴァスはソファーから腰をあげ、部屋から出ることにした。
・ルフティクスはドイツ語でLuftikus軽薄な男の意
→ロキの名前の原義の一説