プロローグ エトヴァス
アリスを自分の領地内を連れ歩くと決めて、エトヴァスが最初に会わせたのは、家令のヴィントだった。
「・・・何から突っ込めば良いのかしら・・・」
ヴィントはアリスを見ると、酷く困惑していた。だが、困惑するのはアリスの方だとエトヴァスは内心で思う。
実際にアリスはその大きな紫色の瞳を何度も瞬いて、ヴィントを見ていた。
ヴィントは細身の男だ。身長はエトヴァスより少し低い程度だ。年齢は人間で言う二十代後半とエトヴァスとそれほど変わらないように見える。だがエトヴァスのような明るい金髪とは対照的な真っ直ぐで固そうな黒髪で、それを長く伸ばしてうなじでとめている。
顔立ちはそつなく整っており、黒い髪と明るい金色の瞳のコントラストが人に強い印象を与える。
服装は白いシャツに黒いズボン、黒いベストという人間の使用人と似た出で立ちだ。実際家令なので、使用人で間違いない。
魔族にしては彼の仕事ぶりは真面目で、優秀なのはエトヴァスも理解している。だから言うことはない。だがアリスが戸惑うのは理解できる。
「うーん、何かしら」
頬に手を当て、くねくねしながら悩む姿を、アリスはじっとその無垢な紫色の瞳で映す。子供なのでまだ、変な人を見てはいけないという常識がないらしい。
「アリス、他人をじっと見るのは良くない」
「え、そうなの?・・・ご、ごめんなさい」
アリスは慌てて謝るが、「言い方、悪いわよぉ」とヴィントは口を尖らせて、エトヴァスを非難したが、また悩ましげにため息をつく。
「何から突っ込めば良いのかしら・・・本当に、困ったわ」
ヴィントの戸惑いも、わからなくはない。
なんと言っても、アリスは普通の人間の少女だ。年齢は十歳前後、よく手入れの行き届いたまっすぐで長い亜麻色の髪に珍しい紫色の大きな瞳、ふっくらした唇とよく肉のついた柔らかそうな頬。シュミーズドレスを着た姿は、人間の良家の令嬢といった雰囲気だ。
今は制御させているため魔力も普通の人間程度しかないので、なおさら、彼女が要塞都市の対魔族結界の動力源をさせられていた、莫大な魔力をもつ人間だと言っても信じられないだろう。
ましてやソファーにいるアリスは酷く緊張しているのか、隣にいるエトヴァスにくっつくように座っている。人間から見捨てられ、人を食う魔族のエトヴァスに差し出されたというのに、その捕食者本人に懐いているとなれば、なおさら戸惑うだろう。
「人間ってこんな小さな子を生け贄にするものなのかしらぁ?最っ、低!」
「そうだな」
「喰ってんのは貴方よ!!貴方でしょぉ!?」
甲高い声で叫ばれる。うるさいなとは思うが何かを口にするほどではない。それに対してヴィントはハンカチで目尻を拭ってみせるが、これもふりだけだろう。
「私はヴィント、家令といってこの領地と城の采配を任されております。これからはよろしくね。アリスさま」
ヴィントは唐突に居住まいをただし、そして深々とアリスに頭を下げる。その拍子にさらりと黒髪がこぼれた。アリスはというと、頭を下げられたのに驚いたのだろう。
「よろしくおねがいします」
つられるように頭を下げる。
「か、かわいいわぁ~」
それを見て、ヴィントは明らかに身もだえてくねくねしだした。だがヴィントが誰かわかって安心したのか、アリスはソファーに戻り、今度は周囲をきょろきょろと見回した。
ここは城の応接間で、先日の魔王城への外出をのぞけば、アリスを塔にある部屋以外に連れ出したのは今日がはじめてだった。
「でぇ?なんて言ってつれまわすおつもりなんですかぁ?その子」
ヴィントがため息交じりに聞いてくる。
有名な子。アリスが要塞都市クイクルムの動力源であり、人間に差し出されたことは、魔族の誰もが知っている。同時にそれはエトヴァスの領地内の魔族も同様だ。アリスが例え領主の食糧でも、食糧ごときを誰も丁重には扱わない。
「あぁ、妃だと言っておけ」
エトヴァスはそう口にした。
魔王や将軍の正式な配偶者は、「妃」と呼ばれる。将軍の「妃」自体は非常に少数だが、魔族の世界では将軍の正式な付属物であり、寵愛の証でもある。領内ではそれぞれの将軍の見解によるが、エトヴァスは「妃」を領主に準じる地位と規定した。また人間を妃にした例も他の将軍でも少ないが存在する。実際に魔王であるオーディンも最後の妃は人間だったし、エトヴァスの弟のヘルブリンディもそうだった。
「対外的にも領内にもそう通達しろ」
実際には食糧だったとしても「妃」と言っておけば牽制にはなる。お遊びで手を出そうという魔族はいなくなる。ましてや領民のような低中級の魔族は領主の妃だと言われれば怖くてアリスに手を出さないだろう。
「きさき?」
話が途切れたのを見計らって、アリスが不思議そうに尋ねる。
「配偶者のことだ、・・・おまえ、父親がいただろ。父親にとっての母親だ」
「・・・エトヴァスがおとうさんで、わたしがおかあさん?」
そう尋ねられるとエトヴァスですらしっくりこなかった。
案の定アリスには理解できなかったらしい。また適切な説明を考えることにして、エトヴァスは早々に話題を変えることにした。
「アリスを、秋の視察に連れて行く」
家令のヴィントに宣言すると、彼は少し困ったような顔で頬に手を当てて見せた。
秋になればエトヴァスが治める領内では農作物の刈り入れや、魔力のある動物の屠殺など冬への用意がはじまる。どの程度の収穫量があるのか、視察もかねてエトヴァスとヴィントが手分けして統治を任せている北と南の領地管理人を秋の終わりに訪ねるのが恒例行事だった。
今年はエトヴァスが南、ヴィントが来たの領地管理人。昨年は逆だった。
二週間ほどの日程だが、アリスもエトヴァスと離れるのを嫌がるし、怖がり、怯える。夜魘されているので、アリスを城の塔にずっと閉じ込めて放っておく訳にはいかない。
大分魔術も使えるようになってきたし、魔王城の結界までぶち破る魔力砲もある。低級、中級の魔族になら、負けないだろう。エトヴァスが彼女にかけている魔術の防御もある。実力としては視察くらいなら十分に外に出せるレベルだ。
ただ、それはエトヴァスの見解であり、城や領地の会計を取り仕切る家令のヴィントの意見を聞きたいとエトヴァスは考えていた。
「まぁ、領民には混血も増えましたし、他の魔力のある食事にありついていますから、変な興味を抱くもの以外は襲わないとは思いますけどぉ、どの程度かによるかとぉ?」
ヴィントはアリスの本当の魔力量を見てみないことにはわからないと言う。
アリスには今、一般の人間程度の魔力に魔力を制限させているので、ヴィントは元がどの程度かわからないのだろう。
「アリス、ちょっと魔力制御を外せ」
「いいの?」
アリスは驚いた顔をした。
魔族にとって魔力の多寡は味だ。魔力が莫大であればあるほど美味しく感じるし、食欲を煽ることになる。それを教え込まれているアリスは、迷っているようだった。だが、エトヴァスは迷わず頷いた。
「安心しろ。襲ってきたらヴィントを殺すだけだ」
「本当に最悪ぅ。でも大丈夫だから見せてちょうだい」
ヴィントは悪態をついたが、アリスに笑いかける。
安心させるような笑顔に促されるように、アリスは戸惑いながらも自分の魔力に意識を向ける。アリスは魔力制御が得意で、すぐに莫大な魔力を纏う。エトヴァスの口角は自然と上がるが、ヴィントはそうではなかったらしい。
ちらりとエトヴァスがヴィントをうかがうと、その目は限界まで見開かれ、恐怖に揺れていた。
「・・・貴方にはこれが、美味しそうに見えるわけ?」
「あぁ、この上なくうまそうだろう?」
尋ねられてもエトヴァスにとって、アリスはいつでも食らいついてしまいたくなるほど美味しそうだ。
上位の魔族なら誰もがそう思うだろう。今こそ毎日その魔力を喰らっているのでうっとりする程度だが、エトヴァスでもアリスほどの魔力なら他の将軍の食糧でも手を出したくなったかもしれない。
家令のヴィントは巨人と魔族の混血児とはいえ、魔族のなかではかなりできる方だ。もちろん将軍職にあるような上位の魔族とは違うが、それでもあと千年ほど生きれば可能性はあるだろう。そう思っていたが、彼は額を抑えて首を横に振った。
「むしろ貴方たち、こんな莫大な魔力を持つ生きものが美味しそうに見えるの?」
尋ねられて、エトヴァスの方が疑問に思う。
「大きな魔力をもつ生きものは美味だろう?」
「でもどんなに肉食でも、イタチは巨大な角を持った牡鹿を襲おうとも思わないのよ」
ヴィントの言葉は的確だった。
美味な血肉なのはわかる。だが、イタチのような小さな肉食獣が巨大な鹿を襲わないように、ヴィントはアリスの魔力を見れば、捕食不可能と感じるのだ。襲おうなどとは思わない。むしろ自分が踏みつけられる可能性の方を考えて逃げてしまうのだろう。
「もはや恐怖だわ。これが美味そうと考えるのは多分、莫大な魔力を持つ上位の魔族だけよ。まぁ、私らからしたら、将軍みたいな上位の魔族も同じで魔力ばっかでっかくって怖いんだけどさぁ」
ヴィントがはぁっとため息を漏らし、半目でエトヴァスを睨む。
「もしかして、魔力あっても狙われないの?」
アリスはきょとんとした顔でエトヴァスを見上げてくる。
総じて難しい話はまったくわからないアリスだが、なんとなく話の論点はわかったらしい。アリスの意見がまさに核心だった。
エトヴァスは少し考える。
さてアリスの魔力を制御するとしてもどの程度に固定しておくかは大きな問題だ。ヴィントが恐怖を抱くほどなら、あまり怖がられても領内の視察には差し障る。だが、あまり魔力がなくても狙われる。
「・・・魔力を上で絞れるか?」
「うん。別にできるよ」
アリスは気楽なもので、あっさりと頷く。
アリスは魔力制御が得意だ。その魔力が大きければ大きいほど難しくなるので、普通ならあり得ない話だ。エトヴァスでも常に一定の魔力を出しているが、その一定量を増やす場合、少なくとも完全に揺らぎなく維持するには一週間ほどの訓練期間がいる。
だがアリスは別に訓練もなく魔力を小さくするのも大きくするのも、どちらでも苦がないらしい。
「なら俺と同じくらいに魔力を絞っておけ」
「どっち?」
アリスはすぐに今のエトヴァスの魔力値か、本当のエトヴァスの魔力値か、どちらにあわせるのかを確認してきた。
それでエトヴァスは、アリスが気づいていることを理解する。
エトヴァスは魔力の増減を偽造している。エトヴァスはアリスの血肉を奪うことで、かつてないコンディションを維持している。魔力値も最高値だ。だが、その魔力の最高値が偽造であることは、恐らくアリス以外誰も知らない。
何故わかったのだろう。千年生きてきて誰にもばれたことがないというのに。ただそれは、ここで問いただす話ではない。
「そうだな今の俺と同じくらいにしておけ」
「うん」
アリスの魔力が急激に縮小し、エトヴァスと同じになる。それをヴィントは眼をぱちくりさせてみていたが、はぁっとまた細いため息をついた。
「それでもざわざわするわよ。落ち着かない。私の方が襲われるかと思うわ」
「なら問題ないな」
エトヴァスはそう結論づけた。ヴィントはなんとも言えない複雑そうな表情で、口を開く。
「まあ、魔力探知のできない超低級な魔族は人間だというだけで襲うかも知れないけどぉ、逆にそういう奴らこそ、将軍の妃という肩書きにびびってくれると良いんだけどねぇ」
「・・・だめなら殺す。見せしめも時には必要だ」
エトヴァスはアリスという己の食糧に手を出したら、誰であれ容赦する気はない。上位の魔族同士で他人の食糧に手を出すのは御法度だが、そんなことは低級、中級の魔族は百も承知だろう。どちらにしても、殺されても文句は言えない。
「あとは怪我だわ。少しでも血がにじむような怪我には、気をつけなさいよ」
ヴィントは直接アリスに言う。だが、アリスはよくわからないのか、首を傾げてエトヴァスの方を見た。
「なんで?」
「おまえの血肉には、高濃度の魔力が含まれる。要するに血が流れれば、魔力制御に関係なく、魔族はおまえにひかれるということだ」
アリスの血肉は、日頃であれば怪我もないため、表面に出てこない。だが、怪我などをして血が流れれば、その血液に含まれる魔力が、魔族の食欲をそそることになる。これは魔力の制御には関係ない。魔族を狂わせるかおりになる。
「・・・食べたくなるの?」
アリスはヴィントを見上げて尋ねる。
「それは魔力制御みたいに試さないでちょうだいね。私、彼に殺されたくないのよ」
ヴィントは苦笑して見せた。
アリスはというと不思議そうで、またエトヴァスへと視線を向けてきた。いまいち魔族の認識も、血肉のこともわからないのだろう。人間のアリスにはない感性だから仕方のないことだ。
「・・・じゃあ、魔族の前で怪我をしたらどうしたら良いの?」
アリスは困ったような顔をする。
治癒の魔術というのは緻密で高度な魔術だ。構造式も複雑で、エトヴァスにはできるが、アリスにはできない。
「脱兎のごとく逃げた方が良いわよ」
「・・・いや、おまえが俺と離れることなんてないから、何もしなくていい」
エトヴァスはそれだけを言って、話を終えた。それが単純な事前準備だった。