11.フリカ
「トールを、トールを見逃して頂戴」
何度フリカが懇願しても、オーディンの答えは一向に変わらなかった。
「うっせぇな。その話はもう終わった」
オーディンは疎ましそうに耳を塞ぎ、舌打ちをする。
「魔族の事情に口だしてくんじゃねぇよ」
一蹴されても、フリカはずっと言い続けた。だが、ここで手をこまねいていれば、間違いなくオーディンの部下はトールを見つけるだろう。彼は潜伏に関してはそこそこだが、もともと魔術が苦手な質だ。見つかってしまう可能性は高い。
「最後にもう一度聞くわ」
フリカはオーディンの後ろ姿に微笑む。
「考えを変える気はないのね?」
百八十センチを超す身長のある背中、フリカも女性としては170センチ近く身長は高い方だが、彼の身長は高く、しかも細身に見えるが結構良い体をしているので逞しく見える。
年齢だって数千歳、三十年そこそこしか生きてきていないフリカとは比べものにならないだろう。
彼の判断は、正しいかもしれない。だが、フリカはもう残された時間と自身の限界を知っている。だから、最善の、得るものの多い手段を選ばなければならない
「ねえに決まってんだろうが」
オーディンはそう言い捨てて、フリカの部屋を床を蹴るような勢いで出て行く。その後ろ姿を見守り、フリカはため息をついた。
わかっていたことだが、胸が痛む。こみ上げてきた涙を歯を食いしばって耐え、服を握りしめる。やりきると決めたのだ。今さら舞台を降りたところで、より悪い未来しか待っていないとフリカは知っている。だから、やりきらなければならない。
だが、こんな終わりを望んでいたわけではない。その気持ちはいつもある。
「・・・お兄様、お姉様・・・」
フリカは幼い頃からエルフの村で育った、エルフと人間の混血児だった。ただ母がエルフ、父が人間のフリカは、人間の性質しか持って生まれてこなかった。つまり短命だったわけだ。
フリカには年の離れた兄と姉がいて、彼らは双子だったが兄はエルフの、姉は人間の形質を持って生まれてきた。両親ともに優れた魔術師と騎士で、兄姉も長命のエルフのなかでも称賛されるほど極めて莫大な魔力と、魔術の腕を持っていた。
そんな年の離れた父母、兄姉に囲まれたフリカは魔族をほとんど見たことがなく、本当に穏やかに育った。
兄も姉もとても優しい人で、兄は魔術師としてなにかとあちこちに引っ張りだこだったが、かわりに姉がよく幼いフリカと遊んでくれた。
その姉が村の近くにあった山のなかで果物の探索中に見つけた男が、倒された魔物の傍に立っていた明るい金色の髪に翡翠色の瞳の魔族だった。
『こんにちは、なにやってらっしゃるの?』
『お姉様!そいつやばいわ!!・・・ち、近づいちゃ駄目よ!お兄様が魔族は人を食べちゃうお化けだって言ってたわ』
『え?でも挨拶くらいは』
『こんにちは』
『ほら、普通に挨拶が帰ってきたじゃない』
『は?』
フリカは男が恐ろしかった。なんと言っても兄や姉のような莫大な魔力を持つ、しかも人間を食べるといわれる魔族の男だ。なのに、姉はその莫大な魔力を持つ魔族の男を恐れてなかった。自分自身もそうだったからかも知れない。
何年、逢瀬を重ねていたのだろうか。
姉は穏やかに紫色の瞳を細めて笑った。男は、いつも無表情だった。あのとき止めていればと何度も思った。あのとき止めていれば、もっと早く兄に言っていれば、きっと姉はあの男と行かなかった。あの男が食欲と性欲に固執し、獲物を独占したいだけの獰猛な獣であると、気づいてさえいれば。
『わたし、あの人と行くわ』
姉は男を信じた。兄は反対した。それでも姉は男を信じ、エルフの村を出た。
人間と魔族の門出だ。村のエルフや人間には隠れ、姉は出て行った。フリカにはよくわからなかった。それでも好きな男と出て行くそれを姉の結婚だと思って花冠を被せ見送った。それがあとであんなことになるなど、思いもしなかった。家族、一族、村が、この一件をきっかけにあんなに簡単に壊滅するなどと、まだ幼いフリカには想像もできなかった。
今度こそ、自分はあの男から、家族を守らねばならない。だから。
「お母様?」
いつの間にかバルドルが帰ってきていたのか、心配げな高くも低い声音が部屋に響く。バルドルは立ち尽くしているフリカの傍にやってきて、「大丈夫?」と頭を傾ける。
百七十センチ近いフリカよりまだ身長は低いが、もう数年もすれば追いつくだろう。きっと声変わりもじきに終わる。でも、わかっている。知っている。フリカはこの一件がなくても半年もたない。それを見ることも、聞くこともできない。
「いえ、大丈夫よ」
痛む腹を押さえ、心を落ち着けて涙を拭く。バルドルはそれ以上突っ込んで聞いては来なかった。だが、まっすぐ琥珀色の瞳をフリカに向けてくる。
フリカと同じ、琥珀色の瞳。
「アリスから、未来の、いや、お母様の結末を聞いた」
バルドルは静かに話をはじめた。
どうやらアリスは未来の世界でフリカがどういう結末をたどったと言われているか、バルドルに話してしまったらしい。この分では恐らく、アリスがオーディンにそのことを話すのも時間の問題だろう。だが、恐らくオーディンはアリスの話を聞いても結論を変えない。
「アリスは、お母様を助けたいって言ってた」
フリカがバルドルを見ると、静かに白銀の睫毛を伏せ「でも・・・」と消えるように呟いた。もうバルドルはアリスが知るフリカの結末が変えられないことを知っているらしい。
当たり前だ。アリスは未来からやってきた。未来は過去からできている。当然、過去を変えることなどできはしない。当たり前のことだ。どうあがいても、なにがあっても、未来はアリスの元にたどり着く。アリスが知る未来通りになる。
それに、誰よりも安心しているのはフリカだが、バルドルにとっては納得できるものではないだろう。
「・・・」
バルドルは賢い子だ。愚かなフリカと短気なオーディンの息子とは思えないほど思慮深く、賢い。きっとフリカの兄姉に似たのだろう。
いつもフリカは兄姉に守られていた。気が強くプライドばかり高くて、それを守るために年の離れた兄姉に頼ってばかりで、気に入らないことがあるとすぐに泣きついた。いつも誰かに守られて、縋って家族はいつでも自分を守ってくれると、それが永遠だと勘違いしていた。
すべてが壊れる日まで、ただただ甘えていた。
だから自分の家族を持ち、終わりが見えたとき、自分の力で運命を変えたいと思った。ただでは死にたくないと思って「ノルンの泉」という魔導具を起動した。覚悟は、決まっている。決まっていたけれど、オーディンにはどうしても期待と絶望が交差する。
それでも時間はない。フリカは逝く。立ち止まっている暇などない。
「・・・結局はどうやってもそうなるのよ。でも、仕方がないわ」
フリカはそう呟くように言って、片手で目の前にいるバルドルを抱きしめる。
生まれたときはあまりに軽くて、脆弱な人間の息子で大丈夫だろうかと怖くて、不安で、涙が溢れてたまらなかったのを覚えている。まだ少し自分より小さな体。本当はもう少し見守りたかったけれど、いや、ずっと見ていたかったけれど、もう見守ることはできない。
夫と同じさらさらした手触りの白銀の髪を撫で、フリカはこの温もりを忘れないように目を閉じる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。バルドル。愛しているわ。でも、ごめんなさい」
もう両腕で抱きしめることはできない。フリカには片腕しかない。だが、この体が朽ちる前に、やってしまわなければならないことができる。
バルドルのために、そしてアリスのために、この身を犠牲にしてでも果たしたい「呪い」がある。
バルドルを付け狙うヨルズは死んだ。オーディンはこれからもあのとおりだろう。だからフリカはトールに未来のための首輪をつけねばならない。あの男を呪わねばならない。
なんとしても子供たちのこれからも続く永遠のために、フリカはやりきらねばならない。
すべては子供たちのため。でも、それでもこれからバルドルには苦難の道を歩ませることになる。長い時間、さみしい思いをさせるだろう。フリカの選択はアリスには挫折感を、苦しいほどの悲しみをもたらすだろう。たとえそれがバルドルとアリスのためであったとしても、二人がこれから得る悲しみを否定することはできない。
だから、フリカはバルドルとアリスに謝るしかできない。
「大丈夫。僕はお母様がなにをしても愛してるよ」
バルドルの腕がフリカの背中に回る。もうその手のひらはきっと、フリカよりも大きい。そして力も強い。苦しいほど強く抱きしめられる。
フリカはそれに胸が詰まるようだった。
バルドルは混血とはいえ、魔族の中で育った魔族だ。
オーディンよりは遙かに情緒豊かだが泣くことはないし、フリカは愛しているという言葉をふんだんに与えて育てたが、バルドルがそれを母に向けたことはなかった。それをフリカは少しだけさみしく思っていた。
だが、はじめて聞けたそれは、折れそうなフリカに恐ろしいほど力を与える。
「貴方は、強い子よ」
小さかったバルドルはいつの間にか、すべてを知り、不安や恐怖もあるだろう。それでもフリカを気遣いはじめての愛を口にした。そんなバルドルを、フリカは誇りに思う。
身を離し、バルドルの頬を撫でる。濡れた感触に、フリカはバルドルに額を付き合わせ、笑う。
「悲しいときも寂しいときもあるかもしれない。でも大丈夫・・・未来が貴方を待っているわ」
さみしくても、悲しくても、生きてさえいれば、千年後に必ずアリスがいる。アリスは他の魔族が持ち合わせていないたくさんの感情で、感情的に人間との混血で繊細なところのあるバルドルを理解してくれるだろう。
「あの子に悲しい思いをさせて?僕にその価値がある?」
バルドルは呻くようにそう言った。だが、千年の時はバルドルを変える。
「当たり前でしょう。貴方にはなによりもその価値がある。価値がある存在になるわ」
アリスにとってバルドルは千年後、最も価値のある保護者になるはずだ。
ただ、アリスにとってのフリカはどうだろうか。フリカが運命を変えるために呼び出したアリスはきっと、フリカにとっては運命を変えるまさに宝物のような存在だが、アリスにとって過去に呼び出されたことは変えられない過去をまざまざと見せつけられるに等しく、悲しみだけを与える。
「本当は、魔族と生きるなんて、やめてほしかったんだけどね。でも、仕方がないわ」
アリスは、姉によく似ている。
フリカの従姪だというのに、亜麻色の髪も、紫色の瞳も、どこか幼げな顔立ちも、アリスはすべてがあまりにフリカの姉に似ていた。そして不確かな未来の断片が見えるフリカは、アリスがオーディンの甥であるビューレイストの妃だと、知っていた。
それを視たときは、目眩がした。ビューレイストは姉と番ったあの魔族の男とそっくりで、過去を繰り返すようだった。
でも、アリスはビューレイストが自分の意見を無視しないと信じていた。
『ビューレイストはわたしの気持ちをわかってはくれないけど、わたしの気持ちを絶対に無視しないもの』
アリスはフリカに、人間の情緒を理解できないというビューレイストの魔族故の欠点を直視し、隠さなかった。その上で、彼には理解できないはずのアリスの気持ちを、彼が無視しないと確信を持っているようだった。
そして、ビューレイストは、どこまでも素直な男だった。
「最近、ビューレイストの視線が痛いわ」
思わずフリカは肩をすくめてしまった。
ビューレイストは賢い子だ。バルドルも賢い子だが、あの子はべらぼうに頭が良い。恐らくフリカが見てきた子供の中で、一番賢いだろう。ビューレイストの母親のラウフェイも賢いから、母親によく似たのだ。
フリカはビューレイストがオーディンの甥にあたるため、幼い頃から時々彼を垣間見ることがあったが、何者にも興味がなくフリカに視線を向けてくることすら珍しいくらいの子だった。無表情で無感情で淡々と必要なことだけをする、感情の起伏に乏しい魔族の典型とすらみえる子で、興味を向けるなにかが見つからないようだった。
だがそれを見つけた途端、彼は関心のすべてを純粋にアリスに向けた。
もちろん彼はアリスを食糧としているだろう。成長すれば性欲も向けるはずだ。そして、魔族としての強固で偏執的な欲を向ける大事な存在として、ひたすらまっすぐアリスを守る。弱いアリスを肉体的に、精神的守ることに妥協しない。
彼は今も、アリス以外の何者にも興味がない。多分、生き抜くこと以上に自分自身にもさして興味がない。だからこそ、自分を優先しない。生存にかかわらないかぎりアリスを優先することが、彼にとってあらゆる点で合理的なのだ。
そしてアリスをなにより優先するビューレイストは、フリカの具体的な願いや目的はわからずとも、アリスを利用していることは知っている。そして、許せないのだろう。最近、フリカはビューレイストからの純粋な殺意をひしひしと感じていた。
それでも、ビューレイストはフリカに手を出してこない。あの賢さなら、オーディンにばれないようなフリカの始末の方法も考えてきそうだが、なにもしない。それはきっとアリスがフリカを純粋に慕っているからだ。
だが、もうそろそろ彼も限界だ。魔王ファールバウティの存在に気付いている。アリスの身の安全を一番に考えるビューレイストは、アリスの命に関わると判断したと同時に、必ずアリスを未来に帰そうと行動に出てくる。
「でも、だからこそ任せられる」
フリカはアリスの伴侶であるビューレイストの見た目があの男と似ていることが、本当は嫌でたまらなかった。でも、外見なんて関係ない。魔族であったとしても関係がない。アリスを大切にしてくれるならそれでいい。
たとえ 食欲や性欲に根ざした魔族の本能であっても、アリスが生きていくためにアリスを守り、アリスがそれに納得するのなら、それでいいのだ。
あの子の身の上を考えれば、それ以上は望めない。あの子を兵器にして心を壊すよりも、食糧として守られている方がずっと幸せだ。
だから、
「ビューレイストにうまく言って、私がビューレイストとふたりで話す時間をとってくれるかしら」
フリカはバルドルに願う。
ビューレイストはアリスを一番に考えている。それならば、フリカがしていることのすべてを知れば、それがどれほどアリスの将来に役に立つのか、認めてくれるはずだ。フリカに多少の協力もしてくれるだろうし、アリスの傷つくのを最小の形にしてアリスを上手に阻んでくれるだろう。
それだけは、フリカは胸を張れる。フリカはアリスを愛し、アリスのために命を賭けている。だから、
「わかった」
「ありがとう」
フリカはバルドルの額に口づけ、心からの感謝を示す。
「僕は、彼らと行くよ」
父であるオーディンではなく、妹であるアリスとその伴侶であるビューレイストと行く。それはある意味でバルドルの未来への道筋の確定でもあった。
そしてそれでいいとフリカは思う。
「そうね。いってらっしゃい、バルドル」
フリカはそっとバルドルから離れ、背中を押す。そして一番の笑顔で息子を送り出した。
「うん。お母様。いってきます」
もう迷わないとお互いに心に決めていた。それだけは、言わずともわかっていた。
これからアリスはバルドルとオーディンという庇護者を得ますが、ふたりのアリスを「守る」視点は異なります。
バルドルは兄で、アリスを庇護しながらも、アリスとは対等な立場です。バルドルの方がアリスより年上なので、アリスのよりよい未来を守りつつ、ただアリスも違う観点で助けるという相互扶助の関係です。なので、アリス単体の意思尊重と言うよりは、エトヴァスの妃として子供を作ったり、自分の考える正しさや良い方向を押しつけることもあります。
それに対して、オーディンはただ完全な親馬鹿と愛情を発揮します(笑)。これはつまるところアリスの意志を尊重するというそれのみで、離婚して帰ってこようが、なんだろうが、ひとまずアリスが納得し、アリスが後悔せず、アリスが良ければすべて良いというような愛し方をします。
なお、トールも後者です(笑)。
まぁ、これが結局のところ、例えばアリスの好き嫌いに対し、バルドルは野菜を食えと言うが、オーディンやトールは平気で肉食べさせるとかそういう風に動きます。まぁ家族内でバルドル+ビューレイスト(エトヴァス)VSオーディン+トールが勃発します。
ただ前者は正しさを押しつけてくることもあるので、そうなると後者で押し返す(力不足なので+シギュンとかロキとか加担)みたいな構図になる予定です。
でもフリカが生きててくれて、アリスがこれから大きくなって文句言われるならサクッと打ち返してくれると話が早いのですが、まぁ、そのあたりは女官のナンナが強いので頑張ってもらいましょう笑。
あとオーディンとフリカの出会った頃の話を、というリクエストがあったので、なんかもともとふわふわと考えていたので、不定期の連載を考えていますが、どうなんでしょうか。
需要あるんですかね。この喧嘩ップル。
なお、若い頃の二人はフリカもかなり大人げないので、部下たちが真っ青な顔をして止めるような、胸ぐら掴むような喧嘩をかなりの頻度でしていました。
まだからこそ、フリカはショックだったんですけどね。




