03.アリス
アリスが住まう部屋には、大きなバルコニー付きの窓がある。
部屋は恐らく城の高いところにあり、この城は山の中にあるのか見渡す限りの緑と青空がのぞめる。少し視線を下げれば庭もある。ただバルコニーへの来客は小鳥程度だ。夏真っ盛りの彼らは忙しい。そして目を楽しませるには十分だ。
アリスがソファーに座り、ぼんやりと窓の外をゆく鳥を眺めていると、低い声が響いた。
「開けるなよ」
扉と窓は開けてはいけない。それはアリスがここに来て最初にエトヴァスが言ったことだった。
「自分から喰ってくださいと言いに行くようなものだからな」
「う、うん」
アリスは大きく頷く。
理由は具体的に開けた途端にどうなるのかはよくわからないが、あまり自分から口を開かないエトヴァスがことあるごとに注意するくらいだ。扉や窓を開けることはとても危ないことなのだろう。たまにバルコニーからの景色を見ていると城の庭に人影がよぎることもあるから、狙われる可能性もあるのかも知れない。
魔族にとってアリスは食糧だ。
「まぁ、とはいえ人間という生きものは、開ける時は開けるがな」
エトヴァスはアリスが魔族に見つかる危険性を理解することと、扉を開けないかどうかは別問題だと認識しているようだった。ただアリスにはよくわからない。紫色の瞳を瞬き、エトヴァスを見上げた。
「人間は魔族よりずっと感情の起伏の激しい生きものだ」
エトヴァスは本のページをめくりながら言う。だがアリスにはやはり意味がわからない。
「ここに来て半年たったし、もうそろそろ退屈する頃だろう。おまえは魔族の恐ろしさを知らないから、興味が出れば開けるかもしれん」
エトヴァスが言うのは、多分こういうことだ。
アリスがここに来て半年。ふつうの人間であれば一室に閉じ込められて半年を過ごせば退屈もするし、不満も覚えるはずだ。またアリスは魔族が自分を食糧にする危険なものだと言葉ではわかっているが、知っている魔族はエトヴァスだけだ。本当の危険は実感がないに違いない。
エトヴァスは、そう言っているのだ。ただ、それは心外だった。
「わたしはエトヴァスのいいつけをやぶらないよ?」
エトヴァスはかわらず視線を本に向けていたが、アリスは少し頬を膨らませた。すると彼はその金色の混じる不思議な色合いの翡翠色の瞳をアリスに向けてきた。アリスはエトヴァスの腰に手を回して抱きつく。すると彼は本をテーブルに置き、膝の上にある亜麻色の髪に覆われた背中を、宥めるようにポンポンと叩いた。
「人間は、感情が高ぶれば一瞬の感情で死の恐怖すら越えるからな」
エトヴァスはいつも、魔族は食欲と性欲以外に固執しない生きもので、感情の起伏に乏しいと言う。そしてその反対で、人間は食欲と性欲に固執しないが、感情豊かだと。だからといって死すら越えられるというのは行き過ぎではないだろうか。
アリスはたまに彼がどこか人間を尊いもののように考えているのではないかと思う。
少なくともアリスは死ぬのは嫌だ。死の恐怖なんて越えられはしない。ただそれはアリスの気持ちであって、アリスは人間全体を代表できるほど経験もない。
かわりに、アリスはエトヴァスに尋ねる。
「どうしてそう思うの?」
「俺は長く生きてきているが、負けたやつが八人いる。うち四人は人間だ。全員死んでるがな」
勝ち負けは、なんの勝ち負けなんだろうか。アリスはわからなかったが、彼が何にも負ける姿が想像できなくて、腰に抱きついたまま膝の上からエトヴァスの翡翠の瞳を見上げる。彼の表情はほとんど変わらないが、口元が僅かにあがっている。
負けたのに、楽しい思い出なのだろうか。
「四人のうち、三人は俺より明らかに格下だった」
「かくした?」
「俺が負けるはずのない相手だ」
言っている意味がわからない。負けるはずのない相手に、彼は負けたのだろうか。不思議に思ったのが顔に出たのだろう。
「ある瞬間、突然俺よりも強い奴になったのさ」
わかりやすいように言葉を選んでくれたのだろうが、ますます不思議になる。
「変だよそれ」
「そうだ。変だ。だがそれが人間だ」
感情が単純な力関係を越える。そういう話なのかも知れないが、アリスにはぴんとこない。
「エトヴァスは、人間をよく知ってるみたい」
そう、いつもそうだ。
アリスは人間のなかで暮らした記憶がないし、覚えているのはもはや顔すら朧気な両親くらいだ。あとは魔族のエトヴァスと鬼のメノウしか知らない。知らないから、人間のなかで暮らしたことがあり、魔族のくせに人間を語るエトヴァスを少し理不尽に思う。
「人間を飼うのははじめてだがな」
エトヴァスは膝にいるアリスを抱きしめ、背中をぽんぽんしてくれる。アリスが不満に思っているのがわかったからだろう。だがこうして慰めてくれるのは、アリスが言ったからだ。
『おとうさんはだっこして、よく背中をぽんぽんしてくれたよ。そうすると安心するの』
アリスはエトヴァスに両親のことを聞かれたとき、両親ともに朧気にしか覚えていないが、父親とはそういう記憶があると話した。
エトヴァスは特別何をするにも抵抗がない。何も思っていないからアリスに何でもしてくれる。だからたぶん、彼が抱っこをしてくれるのも、背中をぽんぽんしてくれるのも、アリスが言ったからだ。食糧だと言うわりに随分大切に扱ってもらっていると思う。
母が自分をどこかの部屋の一室に閉じ込めたこと、人間がアリスを魔族に、魔族が人を食べる化けものだと知りながら差し出したことを考えれば、魔族のエトヴァスの方が彼らよりずっとアリスに優しい。
「わたしはいまがいちばん楽しいよ」
アリスは普通の生活を知らない。
父母のことはぼんやりとしか覚えていない。父は、どこかにいってしまった。死んでしまったのだという。母はどこかの部屋の一室にアリスを閉じ込めていった。理由も知らないし、狭い部屋だった。それから人と話すこともずっとひとりきりだった。
だから、この城の一室に閉じ込められるという生活をなんとも思わない。むしろ広々として、自由なくらいだ。
きっとエトヴァスはアリスがこの部屋に不満を覚えることを前提にしているのだろう。
だがこの部屋は広く、開けてはいけないがバルコニーもある。空のうつり変わりを見る事もできるし、エトヴァスが食事も一緒に取ってくれる。一緒に眠ってくれる。確かにエトヴァスは毎日囓るし、痛かったり、少し怖いと思ったりはするが、この半年間で慣れたので別に暴れていやがるほどのことではない。
だからこの城での生活も、あっさりと受けいれているし、不満もない。
それにアリスはここに来たとき、ろくすっぽ声が出なかったし、長い間会話もしていなかったので滑舌も悪かった。筋力も弱く、支えがないと座っていられず、歩けもしなかった。それを根気よく手伝ってくれたのはエトヴァスだ。アリス自身が他人に同じことができるとは思えない。
だからアリスはこの半年の間に、エトヴァスに絶大な信頼を置いていた。
「まぁ、良い子にしていれば、人間の街にでも連れて行ってやる。」
「まちって何?」
「人間の沢山暮らしているところだ。都市にはもっと沢山の人がいるぞ」
アリスはそれを聞いても、興味がそそられなかった。むしろ気持ちがざわざわして、落ち着かない。人間とは果たしてそんなに良いものなのだろうか。アリスは酷く怖いもののように思える。
「うーん・・・」
アリスは俯く。そしてうまく言葉で自分の気持ちを表現することができず、黙りこむ。彼は少し訝しそうな顔をしたが、あまり気がすすまないというのはわかったのだろう。それ以上の詮索はせず、「そうか」とだけ言って頷いた。
「なら、何かしたいことや、みたいものはあるか?」
「・・・なんだろう」
少し真剣に考えてみるが、エトヴァスは常日頃からアリスが頼めばなんでもしてくれるので、特別したいことも、してほしいこともない。思いあたらず、かわりに彼を見上げた。
「エトヴァスは、あるの?」
エトヴァスは僅かに翡翠の瞳を見開いた。そして少し考えてから、ぽんっとまたアリスの背中を軽く叩く。
「俺は、ここで過ごすので満足だ」
アリスとエトヴァスはこうしてぼんやりしていることが多い。
アリスが勉強している間、彼はたまに出かけるが、たいていの場合同じ部屋で本を読み、昼食をとる。そしてまた読書に戻る。夜になればアリスの勉強を見て、夕食をとり、寝る時間を迎える。たまに外を見れば大きな窓から変わりゆく空が見える。
アリスはそんな生活に彼も満足していると思うと、とても嬉しくなった。
「わたしも同じくらい、こうしてるのが、好きだよ」
常にエトヴァスは捕食者で、アリスが食糧であるのはかわらない。きっとこの関係は歪なものだろう。それはなにもわからないアリスでもわかっている。それでもこの生活が心地よいとお互いに思えているのなら、これからもふたりである限りこの生活を問題なく続けていけるだろう。
違う考えでも、違う種族でも、同じ時間を共有することはできる。
「それはなんの本?」
アリスはエトヴァスが読んでいた本について尋ねる。
彼はよく本を読んでいる。そしてアリスは彼が本を読んでいる姿を見るのが好きだ。長い指が、淀みなく頁をめくる。それをぼんやり見ているのも好きだが、何を読んでいるのか知りたくなる。きっとアリスには難しい本なのだろう。
「人間の歴史の本だな」
「ねえ、読んで」
アリスは強請る。
アリスは本を読むのが苦手だ。わからないし、読めない単語が沢山あるため、なかなか読み進められないし、頭に入らない。とくに音読は基本苦手で、音読をしていると読むのに必死すぎてもはや意味がまったくとれなかった。
でもエトヴァスはそんなことないだろう。
「魔族の俺がか」
エトヴァスの表情は平坦だったが、声音はおかしそうだ。
「だって、わたし、読めないもの」
人間なのに、人間の歴史が読めないとアリスが言うと、エトヴァスの口角が僅かに上がった。
魔族は感情が平坦なのかも知れない。確かにエトヴァスを見ているとその感情の起伏はなだらかだとは思う。だが、感情がないわけではない。起伏が激しくないから、合理性を優先することが多いだけだ。
そして、なんだかんだ言いつつ、彼はアリスの願いを聞いてくれる。
「そうだな」
エトヴァスが頷いてテーブルに置いていた本をあらためて手に取る。
彼が読んでくれる本は、千年前の歴史から始まった。
大魔術師ルシウスが魔族から人間を救うために六つの要塞都市に魔術で防壁となる結界を張る。そこから人間の輝かしい発展が始まるのだ。そして百年前にとある人間の魔術師の男が現れ、とうとう魔王を倒す。
魔族の彼の低い声が、ゆっくりと人間の歴史を紡いでいく。
彼に血肉を奪われるとき、いつも彼が「魔術」でアリスの痛みを緩和したり、傷を治してくれる。だから「魔術」はアリスにもわかる。「大魔術師ルシウス」とはきっと、「魔術を使うルシウスさん」なのだろう。
だが、「まおう」とは何だろう。
「ねえ、エトヴァス、まおうってなに?」
「魔族で一番強い魔族だな」
「強いひと?でも強いってなにに強いんだろう?」
「おまえと俺、どっちが強そうだ」
「エトヴァス」
それはそうだろう。アリスは小さな子供で、エトヴァスは大きな大人だ。どれをとってもエトヴァスに勝てる気はしない。
「端的に言えばそういうことだ。続けるぞ?」
エトヴァスがまた読み上げ始める。何やらごまかされた気がしたが、アリスはその声が心地よくて口をつぐんだ。彼の低い声はアリスにとって精神安定剤のように落ち着ける。
ただ難しい話なので読み上げてもらっても断片的にしかわからない。ましてや人間の文化や書物、それぞれの要塞都市の歴史も本には収録されているようで、なんだかどんどん話が見えなくなってくる。
アリスはしばらく聞いているとうとうとしてしまって、本を見ず、膝に頭を乗せて何となく彼を見上げていた。するとエトヴァスの翡翠の瞳がすいっと別の方向に動く。アリスがはじめて見るような動きだった。
声が、止まった。
「メノウ、」
珍しくエトヴァスが、鬼のメノウを呼ぶ。ほどなく扉からメノウが入ってきて、頭を下げた。エトヴァスは嘆息してから本を閉じ、アリスに視線を向けたる。アリスも身を起こして彼を見上げた。
「本はあとで読んでやる。・・・少し出てくる」
「うん、」
突然のことに戸惑いながら、頷く。エトヴァスは立ち上がって扉と窓をもう一度確認するように見てから、アリスを振り返った。
「何があっても開けるなよ」
「う、うん」
「メノウ、俺が戻るまでここにいろ」
念を押してから、エトヴァスは出て行く。
彼の大きな背中が、扉が閉まって消えるのを眺めてから、アリスとメノウは顔を見合わせた。エトヴァスとアリスがふたりで過ごしている時に、こんなふうに急に出て行くことははじめてだ。
「なんだろう」
「来客かも知れませんね」
メノウは三つある大きな金色の瞳を瞬いて言った。
「らいきゃくって、なに?」
「外から知っている人、ご友人とか・・・お友だちなどがいらっしゃることです」
「・・・おともだち?」
アリスは「ご友人」という言葉がわからなかったので首を傾げると、すぐにメノウは「お友だち」と言い換えてくれた。ただ、「お友だち」もわからない。
「お友だちとはそうですね、同じ考えを持ったり、同じことをしたりする、仲の良い人です」
メノウは言葉を選んで説明してくれたが、やはりアリスにはわからない。
実感がないのだ。そもそもアリスは家の一室で閉じ込められて育った。そのため友達らしい友達どころか会話の相手ができたのも、両親以外ならエトヴァスとメノウがはじめてなくらいだ。仲の良い人だと言われてもよくわからないし、ぴんとこない。
自分でもそうなのだから、魔族の彼の友だちなどもっと想像ができなかった。
「でもなんか仲の良い、感じじゃなかったね」
「そうですね」
窓と扉を開けるなと忠告していくところを見ると、エトヴァスはあまり相手を好ましく思っていなさそうだ。魔族の彼の友だちは魔族だろうから、アリスが食べられるかもしれないという懸念があるのかもしれない。
「・・・ご友人でなく、ただの知人、・・・知っている人かも知れませんね。来客もいろいろですから」
「そっか、そうだね」
メノウが言葉を訂正する。
来客というのは単純に来る人のことを言うのであって、別に親しいかどうかなど距離感のない言葉なのだろう。エトヴァスの友人に会ってみたいとは思うが、今回彼はあまり相手を好ましいと思っていないようだった。
アリスはあっさりと納得して、エトヴァスが置いていった本に視線を向ける。彼が読んでくれていた本。眠たくてぼんやりとしか聞いていなかったが、百年前まで話は進んでいた。
「そう言えば、魔王を倒した魔術師はどうなったんだろ」
百年前、とある魔術師が魔王を倒したというところまで話が進んでいたが、その魔術師はどうなったのだろうか。
「そのあと魔族の将軍に喰われたんですよ」
メノウも知っている歴史なのだろう。続きを教えてくれる。
だが彼女は嫌悪感と軽蔑、そして不快感の入り交じる、不思議な表情をしていた。誰に向けられているのかわからずアリスが首を傾げると、メノウも気づいたのだろう。
「ありきたりで有名な英雄譚ですよ」
苦笑しながら、柔らかな声音でメノウが言った。
「えいゆうたん?」
「すごい人のおはなしです」
メノウが易しく説明してくれる。ありきたりな、でも有名な英雄譚。
百年という時の感じ方はきっと種属によって違うのだろう。百年後、アリスは寿命を迎えているとエトヴァスは言っていた。だが、千年生きたという魔族のエトヴァスは、そして鬼のメノウはきっと百年後も生きているだろう。
百年前だってそうだ。エトヴァスとメノウはいる。アリスはいない。それに少し寂しさを覚える。
「メノウは百年前、生きてたんだよね?その魔術師はどんなふうに言われていたの?」
「聞いたこともありませんでしたね。魔王が死んでから有名になりましたよ。その人」
「そんなものなの?」
「えぇ。まぁ、もしかすると魔族の将軍などの間では有名だったのかも知れません。確かに魔王が死んだときは驚きましたけど、また別の魔族が王になりましたしね」
メノウは肩をすくめてみせる。
「え?魔王ってひとりじゃないの?」
「ひとりですけど、いなくなれば新しい人がなりますよ」
「・・・え、あ、そういえば、エトヴァスが魔王は一番魔族のなかで強い人だって言ってた。一番がいなくなったら、二番目が一番目になるのかな・・・」
アリスも意味がわかり、納得する。
人間にとっては魔王を倒すというのは、こうして本に書かれるくらいすごいことだったのだろうが、魔王は交代するものらしい。
魔王というのは魔族で一番強い人とエトヴァスに聞いた。魔王が倒されれば一番はいなくなり、二番目に強かった魔族が一番になる。要するに次の魔王になったのだろう。
ただあっさり交代できるものなら、人間がそんなに頑張って倒す意味があったのだろうか。
あとでエトヴァスにも聞いてみよう。
アリスはそう思いながら、夜を待つ。彼は夜には必ず帰ってくるからだ。そうしたら、聞いてみればいい。
アリスはまだこの来客がささやかな波乱のはじまりだと気付いていなかった。