幕間 「少女」
「少女」が身を起こせば、知らない宿の一室のようだった。
大きな窓の雨戸は開けられていて、燦々と光が入ってきている。外からは子供や朝の用意をする人々の喧噪が聞こえていた。いつも通りの朝。
だが、ここは「少女」が生まれ育った村ではない。
あの村にもうきっと、朝は来ない。父や母も含め、誰も彼もが死んでしまった。ほとんど、助からなかっただろう。
魔族たちに襲われたのは、夜半過ぎだった。
村を守っていた結界が破れたのは、感じていた。だから「少女」も自分の白銀の杖を持って外に出たけれど、外を見て腰が引けた。
見たことがないほどあまりに多くの魔族がそこにいたからだ。
『フリッグ!おまえはルシウスと共にいきなさい!!』
父が必死の形相で叫んでいた。
『父さん!駄目だ!どうせ駄目なんだ!だから、だからっ』
『おまえの言うとおりだったとしても、俺達はここを守るのが役目だ』
必死で兄は父が去って行くのを必死で止めようとしていた。だが、父は首を横に振った。
『ルシアとフリッグを頼んだぞ』
魔族に向かう父の背は、大きかった。
『む、無理なんだ!そんなことは無理なんだよ!!』
兄が顔を歪めて叫んだ。いつも穏やかで、淡々としていて、表情を変えなかった兄が、父の背中に縋るように叫んでいた。
父はくるりと振り返る。
『なら、おまえが幸せになれ』
明るい、父らしい笑顔だった。それが「少女」の見た父の最期の姿だった。呆然とした「少女」の視界に、エルフらしい薄い金色のおさげが夜風に揺れながら入り込む。
『フリッグ、ルシウス』
目の前に「少女」のような姿をした母が「少女」と兄のもとにやってきた
大きな紫色の瞳には僅かに水の膜があって、それが柔らかに細められたと思うと、一度強く抱きしめられた。エルフらしい尖った耳が頬に当たる。人間である「少女」とは違う、エルフの特質だ。数千年を生きる長命の証のそれを持ちながら母の運命も、覚悟すらももう決まっていた。
『わたしの可愛い子供たち。願うならルシアも抱きしめたかったけれど、もう叶わないわね』
温かく柔らかい体に「少女」は動けなかった。
『母さん、母さんだけでも』
『出来ないわ。無理でも、村を守らないと。それに時間を稼がないといけない。そうでしょう?ルシウス』
縋る兄に母ははっきりと告げ、潔く身を離す。
『幸せにね』
『かあさ、』
「少女」が別れを告げる暇もなかった。
『行きなさい』
母は穏やかに微笑んだ。「少女」が母に手を伸ばしたとき、兄に抱き上げられた。
『にっ、』
何かを言う前に意識を失い、「少女」が次に目を覚ましたのは近隣にあった人間の要塞都市クイクルムの宿屋だった。
多くの人間が住む要塞都市には厚い城壁があり、堅固な対魔族結界がある。本来市民以外しか入れないその年に入れてもらえたのは、兄の魔術師としてのつて故なのだろうか。
ほとんど魔族に襲われることのない要塞都市、窓の外では人の笑い声が聞こえている。まるでほんの数日前のことが嘘のようだ。
「・・・」
隣の部屋では、兄が誰かと話しているのがぼんやりと聞こえる。
「・・・な、なんで?」
姉の震える声が響く。「少女」は自分が眠っていたベッドからゆっくり通り、扉の半開きの部屋から中をのぞき込む。そこには薄い金色の髪に尖った耳をした兄と、兄と双子の亜麻色の髪をおさげにした姉がいた。
姉は一年と少し前に、エルフの村を出ていったはずだった。
『わたし、あの人と行くわ』
姉が邂逅を重ねていたのは、魔族の男だった。
魔族は魔力のある生きものを美味と感じる。同時人間は魔族にとって魔力を多くもつわりに脆弱な生きもので、主食の一つだった。人間とエルフの混血で、莫大な魔力を持って生まれてきた兄姉、そして「少女」にとって、まさに魔族は天敵だった。
その天敵と添うという姉に、一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
「少女」はもう十歳過ぎで、魔族がどういう生きものなのか、よくわかっていた。それなりの冷静な恐れもあった。だが、同時に姉がその男と何年も逢瀬を繰り返していたことを知っていた。
もう姉も二十歳過ぎる、
『本当に、お兄様にも反対されたのに、行くの?』
兄と姉が時々そのことで喧嘩をしていたのを、「少女」は知っていた。兄はきっと姉が魔族と添うなど、反対だったのだろう。当然の反対だと思う。両親も、エルフの村の人たちも当然そう思っただろう。
だからそう問えば、姉は亜麻色のお下げを揺らしながら、紫色の瞳を細めた。
『大丈夫よ』
その自信は、どうしてだったのだろう。
『わたしはお父様とお母様みたいな家族になりたいの』
母と父は、エルフと人間という種族を超え、いつも仲が良かった。母は長命のエルフで、父は短命の人間だから、父はあまりに早く老いる。母は父を失ってからの長い人生を生き続けねばならない。だが、そんなこと感じさせないくらいいつも仲が良かった。
いつかあんな幸せな結婚がしたい。年を取っても寿命が違っても仲の良い夫婦でいたい。両親は「少女」にとっても、姉にとっても憧れだった。
ただ、エルフと人間は同じ人類で、魔族と人類とではなにもかもが違う。魔族が生殖に優れた生物であるため子孫を残すことは可能だが、魔族と気性の荒い巨人族の混血は聞いたことがあるが、魔族と人間の混血はほとんど聞いたことがない。
「少女」は、姉を奪ったその隣の男を、じっと眺める。 姉は小柄な人だった。「少女」は姉と五つ以上は慣れていたが、「少女」は10歳を超えた今では百五十センチを優に超え、いまや姉よりも身長が高かった。そして男は、随分と長身だった。百九十センチは超えているだろう。
年齢は二十代後半から三十代に見える。波打つ柔らかそうな金色の髪をうなじでくくった彼は、平坦な翡翠の瞳で「少女」を見ていた。姉は男の隣で幸せそうに笑っていた。
『・・・そっか』
不安を覚えなかったわけではない。ただきっとすべてを理解するには「少女」は幼かったし、どこかで優れた魔術師でもある姉が魔族ごときに何かされることはないと思っていた。
だから、両親や兄に反対されて旅立つ姉が、気の毒に思えた。
『わかった。ちょっと待ってよ』
「少女」は五つほど離れた姉に、花冠を作った。村を出て行く姉を誰も祝福せず、誰も見送らないのは可哀想だろう。
だからエルフの村で結婚するときに作る白詰め草の花冠を姉の頭に乗せた。
白詰め草の花言葉は「私のものになって」「幸福」「約束」だったから、エルフの村では嫁ぐにふさわしいとされたのだ。本当はエルフの村の風習通り白地に鮮やかな刺繍の服を着せ、金の宝飾品を渡して送り出してやりたかったけれど、用意は出来なかった。
『ありがとう』
姉は嬉しそうに笑っていた。それはもう幸せそうな笑みだった。
『うん。さようなら』
もう会えないかも知れない、そう思って見送った。隣の男の波打つ金髪と姉の亜麻色のお下げが消えるまで見送った。
だが今の姉の顔に、最後に見た笑顔はない。
「ど、どうして」
真っ白な顔で、呆然と紫色の瞳を見ひらいていた。
「・・・ファールがそんなことをしたって、こと?」
姉がふらりと壁に背を預ける。
「だから言っただろう」
兄の声には深い諦めと悲しみがにじんでいた。
「少女」の兄は「予言」の力を持っていた。「少女」も少しは持っていたけれど、兄のそれは精度が違ったし、兄は「転生」という人生を繰り返せる特別な力を持つ人だった。予言の力と幾たびもの人生の経験を持つ彼は、だからこそ魔術師として誰よりも優れていたのだ。
そしてその「予言」の力で見えるのは選択肢だ。この選択肢を選べば、この未来が来る。それをあらかじめ兄は姉に教えていたのだ。
ただ姉はきっと、その意味が理解できていなかった。
「もう言っても仕方がないことだけれど、あれほど連絡は一切取るなと言ったはずだ。魔族と生きていくのに、他者を見てはいけないって」
「み、みるって、て、手紙を出したり、す、少し、気になって見に行っただけで・・・それに、長老たちが・・・」
姉の声は小刻みに震えていた。
「少女」は知らなかったが、きっと姉は両親や兄に連絡していたのだろう。他の村の親族に手紙を出したり、今までと同じように近くの村や町の病人を見舞ったり、魔物の退治をしたりと何らかの形で関わっていたのかも知れない。
「母さんも、何度も言っただろう!?奴はバル・コクバ(星の子)ではない!奴はバル・コズィバ(欺瞞の子)だって!」
エルフの長老たちも、姉に何かを言っていたのかも知れない。だが、そんなことは関係がない。
「・・・どういう、こと?」
きぃっと扉が鳴る。兄の空色の瞳と姉の紫色の瞳が同時にこちらを向いた。
「なんだったの?魔族があんなにたくさん来るなんて、おかしいわ」
「少女」はもう十を過ぎていたから、知っていた。
魔族は本来たいして徒党を組まない。感情の起伏に乏しい彼らは、共感して群れることはないとされる。そして食欲と性欲に忠実な彼らは、食糧を取るために他の魔族と協力することはあるが、集団化することはほとんどなく、襲われるとしても十人以内の小規模な集団のみだ。
よほど強い、従わなければ殺されるような魔族が首領として存在しなければ。
「あの男、将軍か、魔王か、どちらにしても有力な魔族なんでしょう?」
「少女」は姉の魔族の男を知っていた。
「少女」の魔術師としての技量と魔力量は、通常の魔術師よりは極めて優れていた。だが「少女」はまだ10歳過ぎとはいえ幼く、その才覚は双子の兄姉のそれとは比べものにならないくらい劣ったものだった。
それでも魔力探知は精密で、わかっていた。知っていた。そして魔族があんなに徒党を組んでエルフの村を襲うなど、本来あり得ない。
「・・・村は、どうなったの?」
「少女」が問う。兄は答えない。姉は緊張した面持ちで兄を見ている。だが、すべてを見た「少女」にとって望みがないことはわかっていた。
あそこにいた魔族は数百人なんてものではなかった。
女子供もいるあのエルフの村には数百人しか住んでいなかった。腕のある魔族もいるなか、圧倒的な数で押されれば、どうしようもなかっただろう。だからこそ魔術の心得のある父母が、一番腕の立つはずの兄に逃げろと言ったのだ。
「何人、つれて逃げられたの?」
「もともと警戒はしてた。でも、数が多すぎた。だから、・・・子供たちだけ」
兄が端的に答えた。
エルフは通常長命であるため、子供の数は決して多くない。村にいた子供たちのほとんどが助かったことになる。
確かに兄の魔術の腕は恐るべきものだが、あの人数の魔族と彼らを率いる手練れの魔族のどちらも相手をすれば、どうせ横やりを入れられ殺されただろう。それくらいなら魔族との戦いの合間を縫い、生きている子供たちを転移させ、兄が守る。
それが、皆が選択した唯一の合理的かつ絶望的な判断だった。
「ど、どうして」
姉はまだ信じられないとでも言うように首を横に振る。
「そ、そんなの、あ、あの人がやったなんてわからないじゃない。きっと、」
「間違いなく、村の結界を破ったのは彼だよ。君の目なら、十分に魔術の構造式が見えるだろう?」
兄が淡々と反論した。
魔術にはそれぞれ固有の特徴のようなものがある。隠されていても魔術の構造式をある程度看破する姉の目なら、十分にその魔術を使った相手を理解できるだろう。
姉の紫色の瞳が呆然と見ひらかれ、小さな肩が震えている。だが、まだ事実を認められないのか、ふるりと首を横に振った。
その仕草が、男をまだ信じようとするその姿が、「少女」には許せなかった。
「・・・いい加減認めなさいよ!!お姉様が、お姉様のせいよっ!姉様のせいでみんな死んだのよ!!」
「少女」は爆発するように叫んでいた。
「フリッグ!」
兄が止めに入ったが、止まらない。止められない。
「あの男っ、絶対殺してやる!」
血が沸騰するような鮮烈な憎しみ、それが「少女」の体を支配する。
父は、母は、あの村の人々は魔族に殺された。それを手引きしたのは、姉の男だ。姉が魔族の男などと逢い引きを繰り返し、番おうとしたから、こんなことになった。
「少女」は細かい事情など知ろうとはしなかった。知る余裕もなかった。
「姉様も同罪よ!!」
悲しみを、憎しみを言葉にして吐き出す。それしか出来なかった。
「・・・ご、ごめ、ごめんなさ」
姉は真っ白い顔で、呆然とした面持ちで、色を失った紫色の唇で、震えた声でそう言って、ずるっと壁を背に崩れ落ちた。それでも「少女」は姉を許せなかった。
だが、何年もたって冷静になって考えて見れば、姉に何の罪があっただろう。
姉の男がたまたまありえないほどろくでもない男で、魔族で、自分の部下たちを率いて姉の故郷を襲った。それが姉を独占するためだったのか、食欲故だったのか、「少女」は興味もないし、知ろうとも思わない。ただ事実としてはそうで、姉にはなん
の罪もないことだった。
それは理解できる。だが、感情は許さなかった
「私は絶対に許さない!みんなを、みんなをかえしてよ!!」
「少女」は叫んだ。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
姉は謝るしかしなかった。できなかった。自分の信じた男が裏切り、姉とてすべてを奪われた。それにもかかわらず妹に責任を問われるという地獄のようなその空間で、優しい姉は言い訳ひとつできず、ただ震える声で謝罪を繰り返した。
そして「少女」が怒りをぶつけ、罵り疲れ、冷静になる頃には、姉はほとんど壊れていた。
それが家族のすべてが、なくなった日だった。




