13.アリス
エトヴァスが積極的に要塞都市のクイクルムを滅ぼそうと言い出したのは、アリスが夜中に飛び起きるようになった頃だ。
アリスはこの間、自分が要塞都市クイクルムの動力源として幽閉されており、結界が壊されると魔族の将軍であるエトヴァスに、一年の休戦の代償として差し出されたのだと知った。するとそれまでは夢を見たこともなければ魘されることもなかったのに、母親においていかれ、幽閉先から引きずり出される悪夢を見るようになった。
きっとそれは、アリスが人間に捨てられる瞬間だからだ。
人間の街で、人間を沢山見たことにも起因するのかも知れない。母から、人間から捨てられたのだと、確認するような夢だ。
アリスは何故自分が閉じ込められているのか知らなかったが、母は動力源にされるとわかっていって、アリスをあの部屋に閉じ込めた。ずっと結界の動力源にされ、クイクルムを守っていたらしい。それなのに、人間は同族であるアリスを差し出した。
母に置いて行かれたとき、母はすぐに戻ってくると思っていた。幽閉先から引きずり出される時、アリスはなにもわからず、とても怖かった。どこに行かされるのかもわからない。彼らが話すところを聞くに魔族に差し出すという話で、よくわけがわからなかった。長い間誰とも話したことがなかったし、歩くこともなかったから、嫌だと声も出すこともできず、引きずられるままだった。
だから捨てないでも、つれていかないでも、実際には何も言えなかった。でもきっと自分は、母に、人間に、自分を捨てないで欲しかったのだろう。
酷いときには夜中に四,五回おきて、ほとんど眠れないこともある。
『俺はおまえを捨てない』
そのたびにアリスを強く抱きしめて、エトヴァスは言う。
『おちつけ、』
そう、落ち着けばわかる。エトヴァスはアリスの莫大な魔力を持つ血肉を欲している。だから絶対アリスを捨てたりしない。でもその瞬間はなにもわからなくて、要塞都市への恐怖が襲ってくる。自分を捨てた存在への恐怖が、エトヴァスに捨てられる恐怖を煽る。
だから彼の食糧でいたくなり、自分から血肉を奪うように求めるときもある。頭がおかしいとわかっている。でも、彼の食糧である限り、アリスは必要とされる。それが実感したくて、彼を求める。
自分でも何故魘されているのか、何故怯えているのかわからない。それでも、魘され、怯えるのだ。エトヴァスがいるのに、何がそんなに怖いのだろうと自分でも思う。他のことは、彼がいれば徐々に怖くなくなっている。
でも、眠っていると、夢に見ると、忘れてしまうのだろう。
繰り返し、繰り返し夜に起きる。そしてその頃から、エトヴァスは頻繁にアリスに要塞都市のクイクルムを滅ぼそうというようになった。アリスがそれに頷いたことはない。
だがアリスは彼の美味しい食糧なので、いつもアリスの健康的、文化的生活を心がけ、管理している。その彼からしてみれば、魘され、何度も起き、そのたび血肉を捧げるのを見て、それがアリスの体調に悪いと思ったのだろう。
ただ自分の体調という些末な理由の要塞都市攻略が、具体的に将軍会議で議題に上るのを見て、アリスは何やら複雑な気分になる。
どうやら、エトヴァスは本気らしい。
「・・・ねぇ、おまえは良いの?」
唐突に問われる。誰から問われたのかと顔を上げると、それはエトヴァスの弟のロキからだった。
自分を攫おうと狙っているはずの彼がまっさきにアリスの意見を聞いてきたことに驚き、そちらに視線を向ける。どうやら彼は具体的にエトヴァスが言わなくても、このクイクルム攻略が、アリスのためのものであると気づいたらしい。
そして、アリスの感情的な部分を、聞いてきている。
「え?」
「魔族はさぁ、感情の起伏に乏しいんだから、言わないとおまえの感情なんて、慮ってくれないよ」
ロキが疑問を口に出すれば、その場にいる全員がアリスを見た。
「親しい人間とか、クイクルムにいるでしょ。なんか言わなくて良いの?」
アリスはべつにエトヴァスに文句はないし、要塞都市クイクルムも怖いだけで、特別滅ぼさないでほしいとは思っていない。むしろ将軍たちからの視線は怖い。なんと言っても全員魔族だ。アリスは絨毯に座っているので、ソファーに座り高い位置にいるエトヴァスを見上げると、目で合図をされた。
質問に答えろと言うことらしい。
だからアリスはロキに少し恐怖を覚えながらも、口を開く。
「い、いないよ。わたし、ずっと小さい頃からひとつの部屋に閉じ込められてたし」
「でも、食事とか運んできたりとか、そういう人間はいるだろう?そうした人間と話したりくらいは」
「・・・どうだったんだろ?」
アリスは自分が閉じ込められていた時のことを、よく覚えていない。
覚えているのは壁には緑色の図形がびっしりと書かれていて、そのなかで眠っていたことだけだ。それが魔術の構造式だと言うことは、エトヴァスに魔術を教えてもらうようになってはじめて知った。莫大な魔力を持つアリスが抵抗しないように、何か魔術で「処置」がほどこされていたのだろう。
「親は?・・・都市に住んでるんじゃないのか?」
気遣わしげながら、バルドルがアリスにその可能性を指摘する。
「いたよ。でもおとうさんは死んだみたい。おかあさんがわたしを閉じ込めた部屋に置いていったから」
「なら母親は、まだクイクルムに暮らしているかも知れない」
酷い親でもそれで良いのかとバルドルが念を押すように問うてくる。
確かにエトヴァスが要塞都市クイクルムの攻略を始めれば、彼らも死んでしまう可能性はある。ただ死んだとしてもアリスはきっとなんとも思わないだろう。
「目の前にいてもわからないよ。髪の色すら、覚えてないんだもの」
アリスはそれを口にしても、何の憐憫も悲しみも感じなかった。
両親ともになんとなくのイメージはある。だが髪の色も目の色も、声も何もかも、朧気にしか覚えていないのだ。恐らく目の前にしても、名前を呼ばれても、何の実感もないに違いない。せいぜい他人と同じような程度にしか心は痛まないだろう。
「顔とか、覚えてる奴いないの?」
ロキが、興味深そうな顔でアリスを見ている。それにアリスは真剣に自分の記憶を探った。
両親は覚えていない、話しかけてきた人もいない。エトヴァスに会う前に顔を覚えているのは、一体誰だろうか。考えて、ふと体が震える。それをおさえるように、ぎゅっと服の裾を握る。
「・・・と、閉じ込められてた部屋からわたしをひっぱりだして、エトヴァスのところに連れて行った人の顔は覚えてるよ」
アリスを幽閉されていた部屋から引きずり出した、薄茶色の髪の騎士団の男は、何度も夢に見るから顔もはっきりと覚えている。だがそれは思い入れがある人間を訪ねているロキの質問の意図とはまったくずれた回答だったのだろう。
「それはむしろ殺しても良い奴だよ。魔族でもわかる」
ロキが呆れたようにため息をつく。オーディンやフレイヤ、バルドルも同じ意見だったのか、困ったような、哀れむような表情でアリスを見ていた。
「わ、わたしは、要塞都市のクイクルムが、すごく怖いから、その、クイクルムがなくなるのは、」
少し嬉しいというのは、さすがにあり得ない考えだろうと口をつぐむ。するとさわっと大きな手がアリスの頭を撫でた。エトヴァスの手だ。それは慰めるようでアリスは目を伏せる。そんなアリスの様子と言葉に、ロキが首を傾げた。
「都市が怖い?物体だよ?」
翡翠の瞳は興味深そうにアリスを映す。
アリスは都市の人間をほとんど知らない。もちろん漠然と人間が怖い。それは具体的な人間ではない。そして同時に、あの都市が怖い。だから、エトヴァスが要塞都市クイクルム自体を滅ぼそうとするのは、アリスの曖昧な恐怖の象徴としては正しいのだろう。
それは素直な気持ちだったが、ロキは今まで自分の知る事実とは異なるのか、釈然としないといった表情でアリスを見ている。
「別にクイクルムの人間に未練がないなら、俺がクイクルムを滅ぼしても良いはずだ」
エトヴァスが結論を告げる。平坦な声音をアリスは甘美な誘惑のように感じた。
将軍会議の誰もが、魔王のオーディンですらも、反対を唱えない。誰もが何かを言いたそうにしているが、言葉を発さない。発せない。
アリスはエトヴァスを見上げる。
彼の表情はいつも変わらない。何を考えているかもわからない。ただアリスの視線は感じているのか、大きな手がなだめるようにアリスの背中を撫でる。彼は今から要塞都市のクイクルムを滅ぼす、滅ぼせる、恐ろしい人だ。
それでもアリスにとっては大切な人で、間違いなく自分を守ってくれる。気にかけてくれているのだとわかる。
だから本当は要塞都市なんて滅ぼさなくても、アリスは大丈夫なはずだ。なのに、何故怖い夢を見るのか、本当にクイクルムがなくなればこの不安は消えるのか。
アリスは今もよくわかっていなかった。