12.ロキ
ロキは目の前の少女を見て驚いた。
亜麻色の長い髪をゆるく三つ編みにし、足下まである白いシュミーズドレスを着た、大きな紫色の瞳の少女。年の頃はまだ十歳前後で、大人ばかりのこの場には明らかに不釣り合いだ。しかも絨毯に座り込んで、ローテーブルに広げたノートに鉛筆で何かを書いている。
「ここって、いつから託児所になったの?」
「託児?保護者がいるのだから、言葉が間違っている」
託児ではないと、ロキの兄でもあるビューレイストがいつも通り淡々と主張してくる。ただ保護者だといった限り、ちゃんと彼女のやっていることは見ているらしい。
「アリス、そこ間違ってる。速さは距離割る時間だ」
ソファーの上から足下に座るアリスのノートをのぞき込み、指摘する。
「え?」
「160kmを4時間で進むなら、一時間40kmすすむだろう?」
「あれ?本当だ」
なんでだろうとアリスは真剣に悩んでいる。
ロキがざっと彼女がやっている問題を見ると、算術だった。こんな子供に何をやらせているのだろうとも思うが、算術は魔術や戦略を立てるには重要だ。どうやらビューレイストはこの少女に魔術を教えているようだし、そのためだろう。
ロキが部屋に入ると同時に、後ろから扉の上部分にそのふわふわの赤髪を擦り付けるように長身の男が入ってきた。
「え、うまそうなやつじゃん。これ、ビューレイストの戦利品?いいなぁ!」
無邪気に、その若草色の瞳をキラキラさせ、楽しそうにビューレイストに話しかける。
彼はエトヴァスよりまだ大きく、その身長は二メートルを超している。そして薄いシャツの上からでもわかる筋肉質な体格をしていた。
「トール、俺は食事を共有する気はない」
エトヴァスは顔色ひとつ変えず淡々とトールに言う。トールはこだわることもなく「残念―」と肩をすくめてソファーのひとつにどさっと腰を下ろした。上位の魔族間で他人の食糧に手をつけるというのは、万死に値する。それはトールも重々承知だった。
アリスはと言うと、こわごわとトールとビューレイストのやりとりを見守っている。
「ふぅん。ちびっ子、おまえ、来たの。あんなに怖がってたのに」
ロキはアリスに尋ねる。
昨日はあれほどロキを怖がっていたのに、何故魔族の集まる将軍会議に来たのだろう。アリスは顔を上げ、少し怯えながらもその大きな紫色の瞳で真っ直ぐロキを丸く映す。
「え、えっと、エトヴァスの傍が一番安全そうだから」
「まぁ・・・それは、間違いないかもね」
彼女自身も莫大な魔力を持っているとはいえ、確かに何かあったとき、ビューレイストがいた方が身は守りやすいだろう。屋敷でひとりの時に襲われるよりは良いはずだ。
ロキが近くのソファーに腰を下ろそうとすると、少女はまだロキを見ていた。
「なに?」
「今日は笑わないんだね」
「おまえが嘘つきだとか言うからだろう?」
昨日も笑っていたが、彼女からは嘘つきだと言われてしまったので、引っ込めていただけだ。
純血の魔族の感情の起伏は基本乏しい。
ロキはいつも笑っていたが、何かを楽しいと思ったことも、笑い転げるような出来事に出会ったこともない。何かを愛でたことも、心を傾けたこともない。恐怖も悲しみも、怒りも、いずれもたいした感情にはならない。
それに気づいたのは、もう千年以上前だ。食糧である人間が体を震わせて恐怖し、絶望に泣く姿を見たとき、自分にはそんなふうにこみ上げるような感情がないことに気づいた。
そして、その豊かな感情があるからこそ退屈せずに生きられるとわかり、素直に羨ましかった。
ロキは食糧である人間の感情をよくもてあそぶ。最終的には喰ってしまうのだが、それまでいろいろなことをしてどんな喜怒哀楽を見せるのか、観察するのだ。そしてそれをまねていれば、自分もいつかそういう感情が持てる気がしていた。
奇しくもその頃混血の魔族が増え、感情があるように見せていた方が受けも良かった。
だが、まだこんな年端もいかない少女に指摘されるなら、自分はそんなに不自然な笑顔で笑っていたのだろうかと疑問に思わざるを得ない。周りはどうしてそれを言わなかったのだろう。もしくはこの少女だけが特別そうしたことをよく理解するのか。
「そっちのほうが、素敵だよ」
アリスは紫色の瞳を細め、おっとりと柔らかに笑う。
素敵とは、印象が良いことや優れていることを言う。いつもなら「ありがとー、君も素敵だよ」くらい適当に言ったと思う。ただ言葉の意味は知っているけれど、ロキはなにかを素敵だと思ったことはない。
「僕にはそういうのはわからないね」
アリスには何を言ってももう嘘だと見抜かれているので、取り繕うことなく自分の考えを素直に口にする。数百年ぶりだろうか。だがアリスはにこにこ笑ったまま、その豊かな感情で揺れる紫色の瞳でロキをまっすぐ映す。
「わからなくても困らないよ」
困らない。本当に困らないのだろうか。ロキが首を傾げている間に、甲高い声が飛び込んできた。
「あ!アリスも来たのね!!」
フレイヤがやってくる。バルドルも一緒だ。
フレイヤは魔族の中で有名な、金髪碧眼の絶世の美女だ。バルドルもまた白銀の髪に琥珀色の瞳の輝くような美青年で、どちらもプロポーションが素晴らしい。彼らが美しいと言われていることは知っているが、「美しい」という感性も、ロキからしてみればわからない。
フレイヤは女なので性欲処理の相手くらいにはなるだろうし、魔力が大きいので食糧にするにはちょうど良いくらい。バルドルは混血だが恐ろしいほど強いので警戒が必要だ。ロキにとって他者というのはその程度の興味しかない。
「・・・つまんないなぁ」
楽しげに笑ってみせても、ロキにとって何もかもがつまらない。
長く生きると面白いことなどひとつもないし、戦いは好きだが、憂さ晴らしみたいなものだ。食欲も性欲も、何を果たしてもつまらない。退屈で、なのに有り余る時間だけが存在する。何をしても、何をしなくても本当につまらない。
人間みたいに感情があれば、そうできれば、もっと楽しく生きられるのではないだろうか。
「これも違う」
ロキとよく似た声音で、ビューレイストがアリスに指摘する。
「え?」
アリスが大きな紫色の瞳を瞬いて、情けない表情で自分のノートを眺める。だが、わからないらしい。ますます酷く狼狽えた、情けない表情になる。
「時速20kmで2時間進んだら、40km進んだに決まっているだろう。公式は教えたはずだ。確認しろ」
「あ、本当だ」
「これで朝から四度目だ。確認しろ」
ビューレイストは事実を淡々と言っているつもりだろうが、恐らく一般的な基準で言うなら厳しい。それを人間の喜怒哀楽を知るロキは知っている。幼いアリスが泣くのではないかと思ったが、アリスは別に気にした様子もなくせっせと問題をなおしている。
それを見て、ロキは羨ましいなと思う。そう、ロキはビューレイストが羨ましいのだ。
莫大な魔力を持つ血肉であるアリスは、きっと美味しいだろう。それを食べ続けることが出来るのは魔族として本当に羨ましい。だが何よりもロキは自分の兄の変化に気づいていた。
彼はどこにいても、なににも興味がなかった。その翡翠の瞳でぼぅっとつまらなそうに周囲を観察しているか、本を読んでいるか。彼は誰かに特別関心を持って視線を向けることはない。弟のロキですら、魔族同士の戦い以外の関心で、兄に視線を向けられたことはないと思う。
なのに、彼は今、アリスから目を離さない。興味や関心のすべてを、アリスに向けている。向けられるようになったのだ。
「なぁんだ、その顔」
トールが不思議そうにロキを見下ろしてくる。
「別に、」
「そうかぁ」
魔族は基本的に言葉を言葉通りにしか受け取らない。だからトールはロキの葛藤など理解せず、近くのソファーに腰を下ろす。
ここは一応魔王の居城ヴァルハラの一室だ。そしてこの部屋のなかでの争いごとは禁止されている。天井は高く、大理石で作られた床、壁にはダマスク織りの臙脂の布がはられていて、金色の彫刻が施されている。ドワーフによって管理されている城はいつも美しいが価値があるとは思えない。
今年の将軍会議もひとりをのぞいてかわり映えのないメンバーだ。今回も穏健派から来たのはフレイヤとバルドル、過激派からはロキとトール、ここまではだいたいいつも通りだ。珍しいのは中道派からビューレイストがやってきたことだ。
恐らく百年ぶり、前回魔王を決めた時以来だ。
「そういえば、いつも来てたシギュンとシヴはどうしたの?」
ロキはビューレイストに尋ねる。
中道派でここ百年毎年やってきていたのは、シギュンとシヴだけだ。実際のところシギュンはロキの妃、シヴはトールの妃でもあるのだが、ふたりとも同じく将軍で、魔族の多くは浮気自由のパートナーに過ぎないので、それぞれの領地におり干渉はしない。
ただそれでも例年であればここで顔を合わせるはずだった。なのに、今年中道派はビューレイストが一人出てきているだけだ。
「さぁ」
ビューレイストは至極どうでも良さそうに、アリスにその視線を向けている。彼の性格からして、中道派の他の面々に自分が出るという連絡だけはしたのだろうとロキは推測する。
魔族のなかでは、力がすべてだ。
ビューレイストは間違いなく、中道派のなかで一番強い。その彼が将軍会議に出席する。それは用事があるということで、同時に誰が何を言おうと自分の意見を譲るはずもない。他の中道派の面々は出るだけ無駄だと思ったのだ。だがこれは自分たちにもあてはまる。
ビューレイストが本気で何かを望めば、誰が異論を唱えられるだろうか。
ロキがこの後の展開が読めるような気がしてため息をついていると、魔王のオーディンがやってくる。白銀の髪に緋色の瞳の少年の姿をした彼は、入ってくるなりアリスに目を留め、緋色の瞳を瞬いた。
「・・・うちはとうとう子連れ登城が可能になったか」
「俺の子供ではないがな」
ビューレイストが無表情のまま、しかも目線はアリスのまま返す。
「百歳を下回ってればみんな子供だぜ?」
「アリスは死ぬまで一生子供だな」
ここにいるのは誰もが数百歳を超す魔族であり、人間のアリスは百年足らずしか生きないので、その認識はロキにも十分わかる。
ビューレイストはオーディンに答えると、またアリスの教本を指で叩く。どうやらまた間違っているようだ。アリスは指摘されたところに視線を向ける。だが答えはわからなかったらしい。目を潤ませ、首を傾げた。
「あー、めんどくせ」
オーディンはため息をつき、ソファーに腰を下ろす。
それにともないバルドルとフレイヤは居住まいを正す。トールも退屈なのだろうが、一応オーディンの方を見る。だがビューレイストは足を組んだまま視線すらアリスのままだ。
こういうところに、礼儀作法の概念のたいしてない純血の魔族と、他者をうかがうことを知る混血の魔族の差が出るということを、ロキは認識している。だからといって何かしようとも思わないから、ロキは純血の魔族なのだ。
「あと数ヶ月で、要塞都市クイクルムとの休戦協定が終わる」
オーディンが言えば、アリスが気になるのか、また顔を上げた。
ロキはその様子を見ながら、ビューレイストも食糧の安全のためとはいえ、人間のアリスにもともと住んでいた都市の滅びの議論に同席させるなど、残酷なことをするとロキは思う。
アリスは人間に捨てられ、魔族のビューレイストに差し出されたとはいえ、もともと要塞都市クイクルムの対魔族結界の動力源だった。
自分の住んだ都市のことだ。気にはなるだろう。もしかすると仲の良い人や、親もいたかも知れない。人間は血の絆に命までかけるし、血がつながらなくとも友人や知人の死に泣く。人間の喜怒哀楽とは、実に幅広い範囲の他人に適用されるものだ。
ロキはよく食糧である人間でもてあそぶので、そうした人間の喜怒哀楽をよく知っている。だからアリスが傷つくだろうことは、予想できる。人間とは感情の起伏が豊かで、きちんと配慮してやらなければ感情だけで自殺できる生きものなのだ。
だから、いつかそうした傷が積み重なり、あの小さい少女を殺すだろうなとロキは思った。
アリスは少し困ったような、戸惑うような表情で、ビューレイスト見上げる。その亜麻色の頭を撫で、ビューレイストはアリスから視線をそらさず、口を開いた。
「クイクルムは俺が滅ぼす。だから勝手に手を出すな」
途端にしんっと部屋のなかが静まりかえった。
「え?」
ロキは一瞬彼の言った言葉が理解できず、驚きのあまり目を丸くする。
「クイクルムは、おまえがもらう気なの?」
「あぁ」
尋ねればビューレイストはいつも通りの平坦な声で肯定する。ただ相変わらず視線はアリスで、興味もなさげだ。
ロキはふっと出てきている将軍会議の面々を確認する。穏健派はすでに納得しているのか、バルドルもフレイヤも異論を唱えないし、驚く様子もない。オーディンすら何も言わない。そのことにロキは目を丸くした。
他者の感情など何もわからない、理解しようと大して思ったこともないくせに、こうした政治的な差配がうまいのがビューレイストだ。ここで抵抗したところで、もうロキにはなにも出来ないだろう。だが、正直ロキは意味がわからなかった。
「え、おまえが落とすのか!?騎士団は?」
トールがソファーから立ち上がり、尋ねる。ビューレイストの方に詰め寄ったので、彼の隣に座っているアリスの方がトールが怖いのかびくりとした。それを見てビューレイストがはじめて視線をトールに向ける。
「ルールを守るなら参加しても良いぞ」
「ルール?」
「降参した奴らは殺さない」
「えぇ、それさぁ、俺わかる?」
「来るなら、わかるようにしてやる」
ただし騎士団は雑魚だとビューレイストは付け足したが、やる気に満ちあふれているトールは気にしていない。彼は戦えれば雑魚でも何でも良いというタイプだ。だが、ビューレイストは計算高く、利益しか考えない男だ。
「なんの風の吹き回しなんだ」
本来要塞都市クイクルムにたいした価値などない。
一年もの休戦期間の間に他の生き場所のある人間は逃げているし、残るものは防備を固めているだろう。落とすのが面倒な割に、うまみは少ない。
だが、あそこは他の要塞都市や街への道が整備されている。破壊したとしてもそう言った道筋の気配は残る。人間の街を襲いやすくなるので、過激派でいつでも人間の街を襲いたいロキたちにとっては、もらっておいて損はない場所だった。
幸い要塞都市クイクルムの支配領域はロキとビューレイスト、ふたりの領地に接している。
今回ビューレイストはすでに食糧であるアリスをすでに得ているので、もう要塞都市自体に興味はないとロキは予想していた。だから、穏健派がどう言おうと、ロキは要塞都市クイクルムを自分がもらえると思っていた。
だが、彼は自分で要塞都市を滅ぼすつもりらしい。
ビューレイストは昔から戦いにも何にも興味がない。食欲も満たされているだろう。その彼がいったい何故クイクルムを滅ぼそうなどと考えているのか。
「アリス、」
ビューレイストはロキの質問自体に興味がないのか、アリスの教本をまた指で叩く。
「そこから全部違う」
「・・・うそ」
アリスは潤んでいた瞳を瞬き、目尻に涙がたまる。ただ相手は単なる問題集だ。あまりに真剣に取り組み、落ち込むアリスに魔王のオーディンが口元に拳をあて、とうとう噴き出した。
「なんだよそれ。さっきから何してるんだ?」
「算数・・・距離の計算とか、確率とか、なんかそういうの必要だからって・・・」
「あぁ苦手でもそりゃやっとけ。魔術を覚えるならそういう緻密な計算は必要だぜ?」
役に立つことだとオーディンが言うと、アリスはその大きな紫色の瞳を瞬き、ますます絶望的な表情をした。
「上からなおせ」
ビューレイストはアリスの表情の変化を見ながらやるべきことだけを口にする。ただアリスがあまりに落ち込んだ顔をしたせいか、ビューレイストがその大きな手でアリスの背中をなだめるように撫でていた。
ロキはそれをぼんやり眺めながら、理由はわからずとも要塞都市攻略もきっとアリスのためだろうと理解した。
理解したからこそ、その意味のわからない行動を、どこかで阻みたいと思った。
ロキさんは人間みたいに人生を楽しく生きたいから感情を自分のものにしたかった
エトヴァスさんは生きるために必要だから、他者の感情を自分のものとして理解しないまでも対策は考えた
そういう差