11.バルドル
「で、僕たちを呼んだと言うことは、なにかしろということだろう」
バルドルは小さな少女を抱くビューレイストを睨み、ソファーに腰を下ろして腕を組んでため息をついた。ここに来て何度ため息をついたのか、バルドルはわからない。
だがビューレイストがこの場にバルドルとフレイヤを呼んだのは、間違いなく用事があるからだ。彼は用事もなく人を呼びつけたりしないし、わざわざ魔族の将軍会議の前に呼んだのも意味があるはずだ。
なにもアリスへの「同情」を誘うためだけではないだろう。
「聞いてやる」
バルドルが言うと、フレイヤが少し驚いた表情をした。
「え、でも、クイクルムの攻略を手伝うつもりなの?」
「仕方がない」
バルドルは楽観主義者ではない。
人間との混血だが、ビューレイストと同じくらい長く生きてきた魔族だ。生年は一年も関わらず、幼い頃は一緒に狩猟をしたこともある。だから彼のことはある程度知っている。彼がこうして話をする時にはもう、断れなくなっているのが常だ。
そして今回の件も、バルドルが断れば彼がどうするか、バルドルは理解していた。
「ここで断れば、こいつはこの話をトールに持って行くはずだ」
違うか、とバルドルが問うと、表情は変わらないのにビューレイストが笑った気がした。
過激派の将軍のひとりであるトールは、混血だが四分の三が魔族。要するにほぼ純血。彼は過激派の典型のような男で、いつでも魔力の高い獲物を欲しているし、何より戦う事が好きだ。彼は人間の要塞都市で討ち死にしようとしている騎士団をある程度引き渡すことを条件にすれば、喜んで協力するだろう。
トールは良くも悪くもそういう単純な男だった。
「君は、クイクルムが地図上から消えれば満足なんだろう?」
バルドルはビューレイストの目的を正確に理解していた。
彼の目的は、アリスのために要塞都市クイクルムが滅ぶことだ。事実としてそうなれば、過程や手段などどうでも良い。
「え?・・・ど、どういうこと?」
フレイヤはわからないらしく、戸惑いをバルドルの方にぶつける。
「トールの力で更地にすればいい。あとは過激派に引き渡す。そうすれば過激派の奴らは他の要塞都市への「道」を手に入れられる。事実上クイクルムも消える」
ビューレイストの目的はクイクルムが消えることだ。それが更地になるでも、別の街になるでもどうでも良いはずだ。しかし、ビューレイストの性格からして、更地になったクイクルムを利益もないのに管理しようとは思わない。
クイクルムは過激派のロキの領地にも面しているので、更地になったそれを何かの利益を求めてロキに引き渡すだろう。
事実、ビューレイストはそれを聞いてもまったく否定しなかった。
「じゃ、じゃあ、こっちに協力させてどうすんのよ。・・・更地になんて出来ないわよ」
フレイヤは思わず叫ぶ。
トールはその攻撃の威力だけなら魔族の将軍のなかで随一だ。ほかの魔族にまねするのは不可能だ。穏健派にそれに類する力を持つ魔族などいない。
「ビューレイストは僕たちに同じ事を望んじゃいない。さっきアリスに話したとおり、名前を変えて魔族の交易都市にするんだろう」
その手助けをしろと言うことだ。バルドルはフレイヤを宥め、ため息をつく。
ビューレイストの領地内には魔族の支配領域で二番目の都市ティパサがあるが、あれは港湾都市で、しかも彼の領地の北にある。要塞都市クイクルムを仮に攻略すれば彼の領地の南の端に位置することになり、交易都市として整備すれば十分に機能するだろう。
ビューレイストは嫌になるほど賢い男だ。この場にバルドルとフレイヤを呼び出した限りは間違いなくできることを言うに決まっている。
バルドルが視線を向けると、彼はやっと口を開いた。
「バルドル、おまえは魔族では珍しく、人間の魔術も使えるはずだ」
彼は変わらず平坦な表情のまま、淡々と話す。
「交易都市として魔族をおくなら、いらない人間の魔術は排除しないといけないからな。主立った人間の魔術を破ったあと、魔力探知の出来る奴に見つけてもらう必要がある。俺も得意な方だが、要塞都市は広い。人間の魔術は解法を見つけるのが俺には面倒だ」
更地にしないのであれば、魔族の交易都市のひとつにし、名前を変えて再出発と言うことになる。それならビューレイストが得る意味があるだろう。ただそのためには更地にするより手間がかかる。
つまり彼の要求はバルドルに人間が置いて行くであろう魔族に不利益をもたらす魔術を解除する協力をしろと言っているのだ。とくにバルドルは人間と魔族の混血で、高度な人間の魔術もある程度使えるため、人間の魔術の対処は難しくない。
バルドルはビューレイストの話をすべて聞き終わり、乾いた笑いを漏らす。
「本当に君は頭がおかしい」
「そうか?更地にしても魔族の交易都市にしても、クイクルムは消えるだろう?」
「食糧の安眠のためにクイクルムを消したいなんて目的も、更地か交易都市かという二者択一の手段も、どちらも頭がおかしいと言ってるんだよ」
「そうか。ならおまえの評価は正しい」
ビューレイストはどうでも良さそうにアリスを抱き直し、身じろぎした小さな体を宥めるようにそっと背中を撫でた。
それだけ見れば、まるでその幼い少女を愛しているようだ。
だがその血肉を食いたいがためで、彼女を愛しているわけではない。優しくするのも、何もかも、愛ではない。彼女のために都市一つ滅ぼしても良いと考えるのに愛などという感情を、彼らは何も知らない。
他の生きものに情を向けたことすらないだろう。
「俺にとってはどうでも良いことだ」
バルドルの評価も、なにもかもどうでも良い。興味がない。彼はそれを取り繕わない。誰がなんと思おうと心底どうでも良いのだろう。
「わかっているさ」
バルドルも理解している。魔族はおかしいと知っている。そして自分も実際にはおかしいことを、理解していた。
バルドルは頭痛を感じて、自分のこめかみに手を当てる。
バルドルの心のなかには、どこかで魔族の将軍に縋り、眠るしかない人間の少女をどうにかしてやりたいという気持ちがある。
バルドルの母親は人間で、今では魔王であるオーディンの妃だった。千年も前の話だ。その母は結局、自殺している。魔族と生きることが人間にとっても、魔族にとっても、幸せな終わりであったことなどほとんどない。そしてどれほどその魔族から離れたいと願って自殺しても、最後は喰われて終わる。
相手の血肉になる。それが終わりなのだ。
しかし、魔族全体のことを考えれば、純血の、しかも力のある将軍であるビューレイストが、他種族のパートナーを待つのは歓迎すべきだ。
純血の魔族は、他種族との共存に向かない。
感情の起伏に乏しく、食欲と性欲以外に関心を持たない。自分のことしか考えない個人主義の化けものたちは他種族と共生できない。つまり徐々に混血化が進み、価値観が変化し穏健化しつつある魔族のなかで、食欲と性欲という野蛮な欲望に忠実な純血の魔族はもう時代にそぐわないのだ。
今の魔王、バルドルの父親であるオーディンは巨人との混血だ。バルドルも人間との混血だ。将軍の半数も混血になった。バルドルは魔族がこれからも存続し続けるためには、他種族と混血するしかないと思っている。
そうしてゆるやかに個人主義と食欲、性欲への固執を解消していくしかないのだ。
だから純血の魔族であり、有数の力を持つビューレイストが人間のパートナーを持つことは、それを食糧と認識していたとしても、こちらとしては歓迎すべきことだ。
アリスを長期飼育してくれれば彼女が生きている百年足らず、そして彼女を食ってから百年ほどは大人しくしておいてくれるだろう。
彼はほぼ性欲のないタイプのようだが、万が一があって彼がアリスと混血の子孫を残すのなら、それに越したことはない。魔族がこれからも存続していくためだ。
だが、バルドルには自身が混血で人間の子供だからこそ、アリスに対しては胸を塞ぐ悲しみと罪悪感がある。
人間だった母の嘆きが、アリスと重なる。
今はビューレイストの腕のなかで、健やかな寝息を立てている亜麻色の髪の少女。
同じではない。母は人間から捨てられたのではなく、魔族に攫われた人間だった。魔力は魔術師だったのでそこそこだったが、だからといってアリスのように魔族の将軍に匹敵するほど莫大というわけではなかった。こんなに幼かったわけでもない。
逆に言えばだからこそ魔族の性欲の対象になり、バルドルを生んだ。
『・・・バルドル、愛しているわ』
母はいつもバルドルの白銀の髪を撫でながら微笑み愛情を与えてくれたが、魔族の、自分を攫った男の子供を産んだことを、後悔していたのかも知れない。少なくとも白銀の檻のなかで、最期は精神的に追い詰められ、命を絶った。幸せな人生ではなかったのだろう。
アリスを見ていると、バルドルは酷く心が痛む。
アリスは人間であまりに弱い、小さな子供だ。そしてそれをビューレイストにあてがうことでしか、魔族たちの平穏は保たれない。
自分はアリスに哀れみを覚えている。だが、どうしようもないのだ。
人間は自分たちの逃げる時間を稼ぐためにアリスを魔族に差し出した。だがバルドルたち魔族もまた、厄介な化けものであるビューレイストに大人しくしてもらうための道具として、アリスを利用するしかない。
本質は決して異なるものではないのだ。
「将軍会議では異を唱えるなよ」
ビューレイストは無表情のまま、おまけのように言い添える。
彼は最初から、この結論に至ることはわかっていただろう。彼は人の感情に興味もないし、誰もがどうでも良い。だが結局バルドルはこの男の手のひらで踊るしかない。わかっていても、踊るしかないところに立たされるのだ。
だからこそ、バルドルはこの男が嫌いだった。
バルドルさんは良心的な人なので葛藤するけど、エトヴァスさんは我が道を行く